アンソロジー その他


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十七粒の媚薬 発行(単行本) 1989年4月26日(水) 出版社 マガジンハウス
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1993年7月10日(土) 出版社 角川文庫
共著 村上龍 安西水丸 川西蘭 麻生圭子 秋元康 林海象 松本隆 泉麻人 北原リエ 佐藤正午 桂木拓 阿木燿子 川村毅 売野雅勇 城戸朱理 玉村豊男
十七粒の媚薬 十七粒の媚薬 備考

今回このリストを作成するに当たって、最後の最後になって思い出した一冊。村上龍の棚に入っていたので見落としていたのだ!これも、いわゆる官能小説のアンソロジー。

最近はそうでもないけれど、健さんの官能小説にはすんなりと女性器の名称が何の衒いもなくぽんっ、と出てくるに、最初はなかなか慣れなかった。今でも読む分には好いけれど、男性がその言葉を口にするとフッと醒めるし、女性だと引いてしまう。別に私は初心なわけではないけれど、なぜかその言葉を言うのも聞くのも、恥ずかしいのだ()。ただ一度だけ、彼女にその言葉を言わせたことがある。その時はなぜか、アア標準語なんだ、と思って興奮とはほど遠かった。羞恥が過ぎて冷静を呼び起こしたのだろうか?案外女性は、それが絶対言えないという人もいれば、云わされて興奮するという人もいる。

そう言えば昔、伊勢で出会った女の子に、最中にもっと喋るのかと思ったら案外静かでこっちの方が恥ずかしくなっちゃった、と言われたことがある。そういえば、静かなセックスだよな、と言われて気づいたのだった。

(単行本再読)

こういう言い方は失礼かもしれないけれど、この手のポルノと官能小説では、一体どっちがセックスの本質なのだろうか、と時々考える。私は時々、いわゆる官能小説と呼ばれるものを読むけれど、こんなのあり得ないよ、できすぎてるよ、といつも思う。一方、この作品集のように、スタイリッシュな作品を読むと、ある種のリアリティや憧れは感じるが、エロいとは思わない。

例えば男は、どっちを求めているのだろう?

都合のイイ女か、或いは欲望を共有出来る佇まいの美しい女か?コレはおそらく、セックスに於いての永遠の設問になるだろう。

現代は、恋愛の難しい時代だ。恋愛出来なければ、セックスもない。当然、セックスしないと子供は産まれない。このロジックをお金の都合だけで解決しようとするのが間違いなのであって、そうすると、さっきの永遠の設問も、子供みたいな欲望を基調とする市場主義か、完全に統制された共産主義か、という選択にも似てくる。

どちらも設問の方が間違っている、ということを、誰か早く気付いて、政治家の方に云って遣って下さい。ボクらは自由を求めている、と。




贅沢な恋愛 発行(単行本) 1990年9月6日(木) 出版社 角川書店
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1992年10月10日(土) 出版社 角川文庫
共著 林真理子 北方謙三 藤堂志津子 村上龍 森瑤子 山田詠美 村松友視
贅沢な恋愛 贅沢な恋愛 備考

当時流行の恋愛アンソロジーで、「スピカと月」という作品を健さんは寄せている。同作は後日、「窓の外を眺めながら、部屋のなかに座っている」という短編をまとめたモノの中に収録される。

こういうアンソロジーは、一人の作家の短編集とも違って、多少カタログ的に読むことが出来る。それと同時に、並んだ著作者のリストを見ると、アアこういう括りの中に健さんは入っているんだ、とかわかって面白い。

村上龍さん、山田詠美さん、なんかは健さんと並んでよく読んだけど、みんなまとめてエンターテイメント小説、なんて呼ばれていた。今はどうか知らないけど。

(単行本再読)

宝飾品を題材にした小説をまとめたもの。健さんの「スピカと月」には星と三日月のペンダントが出てくる。長く健さんの作品を読んでいると、出てくるクルマや、話題に上るニュースでだいたい年代がわかるのが面白い。その頃の空気というか、感じ取り方までもがBGMのように漂ってくるのだ。

私はファッションや、ましてや装飾品には、関心を抱かない人生が長いので、喩え女性が身につけていたとしても、何かそれに欲情するみたいな事もないので、特に女性には嫌われるタイプだ。一度、付き合っている女性の誕生日にゴルフ・レッスンのDVDを渡そうとして大変怒られたことがある。こっちがプレゼンとしているのになんていう言い草だ、と私は激怒したのだが、女心との齟齬は永遠の課題なのだ。

その話には後日談があって、その一週間後に日本海を見に旅行をすることが決まっていた。とりあえず何事もなかったように、彼女をピックアップしてアクオスと呼ばれる水族館まで行ったのだが、そこの土産物屋にあるアクセサリーを見ながら、「こんなのが欲しいんだろう?」と重ねて、更に彼女の機嫌を悪くしたのだった。

そんな私にも、一時期首にチョーカーを巻いている頃があり、安物のピースマークに足元は厚底ローファーというのが流行った時代だったのだ。それ以降は、関心がないのを良いことに、なるべく身軽に身体に余分なものは身につけない、という言い訳で、シンプルな立ち姿を目指している。まぁ、アクセサリーを身につけてシンプルを貫き通せることはできるわけで、つまりは面倒くさがり屋のやっぱり言い訳なのだ。




冬・恋の物語 発行(単行本) 1993年1月 出版社 集英社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1994年11月25日(金) 出版社 集英社文庫
共著 片岡義男 橋本治 平中悠一 チチ松村 川西蘭 松木直也 松本隆 山際淳司 秋元康 伴田良輔 南伸坊 えのきどいちろう 杉山恒太郎 笠井潔
冬・恋の物語 冬・恋の物語 備考

集英社版のアンソロジーで、四季それぞれ出ているのかも知れないけど、とりあえず健さんが参加しているのはこれだけのはず。ジャマイカが舞台。他の短編集に収録されているかな、と眺めてみたけど見当たらなかった。とすると、結構レアものなのか?




贅沢な失恋 発行(単行本) 1993年4月30日(金) 出版社 角川書店
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1996年12月25日(水) 出版社 角川文庫
共著 林真理子 北方謙三 藤堂志津子 村上龍 森瑤子 村松友視
贅沢な失恋 贅沢な失恋 備考

失恋を料理に絡めた作品のアンソロジー。健さんは「アーリー・タックルと食後の熱い紅茶」という作品を寄せている。同じモノが「窓の外を眺めながら、部屋のなかに座っている」に納められているのだけど、実はそちらを先に読んで、初出がアンソロジーだったので、慌てて集めたのだった。

この小説のためなのか、あるいは純粋な興味からなのか、どれかのエッセイでラグビーを見に行った話が出てきた。アーリー・タックルとはまさしくラグビー用語で、登場人物の大切なキーワードになっている。

私はラグビーよりはアメフトの方が好き、といってもごく最近になって見始めたばかりで、まだよく分かっていないのだけど。ついでに、料理も口がバカなので、あまりグルメではない。だいたい出てきた料理は何でも食べてしまうし、しかも皿の隅から隅まで平らげてしまう。昔京都に旅行に行った時に、泊まったホテルの夕食が懐石料理で焼き魚の皿が出てきた。一緒に赴いた彼女と一緒に、何の気なしにばくばく食べていたら、皿を下げに来た仲居さんが、骨しか残っていない皿を見て、「マーこんなにキレイに食べて」と驚いていた。

その彼女によく言われていたのは、しま♪さんは便利な男だな、と。何を作って出しても美味い美味いと云って平らげてしまうので、適当に手を抜いても全然バレないそうだ。

(単行本再読)

全くの余談だが、この単行本を読んでいる最中、外は大雨で加えて雷も鳴っていた。雷が鳴ると、昔近くの電信柱に落雷があって、お気に入りのコンポが壊れて修理するのに一ヶ月もかかった、という苦い思い出があるので、必ず電源を切るようにしている。そのせいで、パソコンを弄ることもテレビを見ることもできず、仕方なくこの本を読んでいたのだ。

なんだか部屋の中に閉じ込められた気がして、風に煽られて雨粒が部屋に入るので窓も開けられず、ただ黙々と本を読んでいた。

このアンソロジーは、食事、というより飯屋と失恋の物語。だから、ほとんどの話がどこかの店、つまり屋根の下で失恋するのだ。それがなんだか、部屋に閉じ込められた鬱蒼とした気分とシンクロした、というのは多少言いすぎか。少なくとも、明るい気分ではなかったということだ。

しかし、こういう食事ものを昼間に読むのも考え物だ。単純にお腹が減る。特にダイエット中ということもあり、肉が出てくるともうダメ()。ただ、当たり前だがやはりうどん屋は出てこない。香川は昔、女子高生や巷のOLが普通にうどん屋、それもセルフの店に入る、というのが他県の人には物珍しかったらしい。うどんブーム以降の今は違うのかもしれないが、逆に、香川県人は、ランチに千円使うことにびっくりする。そんなの近くのうどん屋へ行けば、ワンコインでおつりが来て、おにぎりまでついている。

さて、健さんの作品は、折も折、ラグビーがアイテムに使われていて、しかもタイトルが「アーリー・タックル」だ。日大アメフト部の、あからさまな「アーリー・タックル」で一騒動起きたあとに読んだせいか、あれは青春のひとつの傾向、なんていわれると、何か予言めいて聞こえて面白い。私はラグビーより、件のアメフトの方が好きなのだが、あのタックルは無いだろ、ということと、だからこそ、世間で言われている以上の深い勘ぐりをしている、とだけここに記しておこう。




贅沢な恋人たち 発行(単行本) 1994年4月25日(月) 出版社 幻冬舎
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1997年4月25日(金) 出版社 幻冬舎文庫
共著 林真理子 北方謙三 藤堂志津子 村上龍 森瑤子 村松友視 山田詠美 唯川恵(文庫本のみ)
贅沢な恋人たち 贅沢な恋人たち 備考

贅沢な恋愛と同様アンソロジーでホテルでの愛情模様をテーマにまとめている。「ドライブと愛の哲学に関する若干の考察」で舞台となるホテルはホテル・ハイランドリゾートだ。同作も後日、「窓の外を眺めながら、部屋のなかに座っている」という短編をまとめたモノの中に収録される。

健さんの小説に限らず、バイクに乗った女性というもの私の中のイメージは、健さんと共著もある香西弥須子さんの小説の表紙に出ていた女性が強く刻まれていて、それはそのまんま、岐阜に住んでいた頃に内緒で付き合っていたお嬢さんと重なる。多少大げさに言うならば、夢に思い描いていた女性が、バイクに乗って夢のまま目の前に現れた感じ。人生の中で、そういう経験も案外あるモノなのだ。

 

(単行本再読)

ホテルを舞台にしたアンソロジー。表紙をめくると、各作家の写真が載っているのが秀逸()。それぞれの作風が、そのまま乗り移ったかのようなモノクロ写真がなかなか興味深い。話の内容もそうだけど、バブルが弾けたあとの残照といった趣がどことなく漂う。

私の個人的な記憶からすると、作家がエンターテナーとして表舞台に出るようになったのがバブルの頃で、それが弾けると一斉に作家性が増したような気がする。需要が高まった、というのか。失われた十年、と村上龍は言ったけれど、そこに何とかして意味をもたらそうとしたのは、かくいうバブル期に勃興したその作家達だったような気がする。

文庫本の感想で、私は幾らか素っ頓狂な感想を述べているが、何を間違ったか、或いはそういうのとは関係なくなのか、今となってはわからないが、誤解するといけないので一応記しておくと、健さんの作品の中で出てくる女性は車に乗っています、あしからず。

昔からお金に縁のない私は、豪華なホテル、特にリゾートホテルというような所に泊まった経験は全くなく、ビジネスホテルか、リーズナブルな旅館がほとんど。一時期彼女のとの逢瀬がラブホテルばっかり、という頃はあったにしても、金を払ってベッドで寝る、という経験にあまりいい思い出はない。

だが、映画「ミステリー・トレイン」で永瀬正敏が部屋の中をパチパチと写真に撮っていて、「旅行すると観光した場所は良く覚えているけど、どんな部屋に泊まったかはすぐ忘れるだろ」という台詞が耳に刻まれていて、今でも必ず、ホテルの部屋の写真を何枚か撮るようにしている。同じ映画で、ホテルのフロントで宿泊費を払う時、ポケットからしわしわの紙幣を引っ張り出し、一枚一枚払っていくシーンにもいたく感動し、しばらくジーンズのポケットに直接札を突っ込んでいた。

その後、大阪でSHADY DOLLSか何かを見に行った時、泊まったホテルでそれを実践した()。フロントの男性が面倒くさそうにそれを眺めていたのを良く覚えている。翌日は目の前にあった、大阪城に登って当時付き合っていた彼女と数少ない観光を楽しんだのは、今はもう懐かしい思い出。




君へ。 発行 2004年3月30日(火) 出版社  メディアファクトリー
      君へ。 共著 有栖川有栖 石坂啓 石田衣良 五木寛之 江國香織 大沢在昌 大槻ケンヂ 大林宣彦 乙一 角田光代 川上弘美 北方謙三 北村薫 小池真理子 鴻上尚史 鷺沢萠 重松清 篠田節子 鈴木光司 瀬名秀明 高橋源一郎 田口ランディ 谷村志穂 馳星周 坂東眞砂子 藤沢周 藤田宜永 松岡佑子 松尾スズキ 宮本輝 村山由佳 森絵都 山本一力 山本文緒 唯川恵 夢枕獏
備考

最近になって健さんが参加しているのを知って、慌てて手に入れたもの。エッセイを集めたモノで、タイトル通り、健さんのブログそのまま。健さんがブログを始めた頃は、記事になるそのままがその後の作品、あるいはエッセイの題材とリンクしていくので、毎日面白かった。多少スピリチャルに傾いた自己啓発系、というとちょっと語弊があるけれど、その辺の時期で、同時にそれは私が当時欲していたモノでもあった。

最近はブログの方がおざなりになりがちで、ツイッターがその代わりを担っているけれど、私はどうもそっちには疎くて未だ手を出せていない。facebookで充分、と思っているし、そっちともリンクしているけれど、やっぱり軸足はブログに置いて於いて欲しいな、と自分勝手に思っている。



Ecstasy 発行 2005年10月30日(日) 出版社  祥伝社文庫
      Ecstasy 共著 春口裕子 内藤みか 斎藤純 小沢章友 菅野温子 浅暮三文 藤水名子 渡辺やよい 山田正紀
備考

官能小説のアンソロジー。健さんが参加していないモノなら、数限りなく出ている。その辺で名を馳せている作家さんも何人か参加している。アダルトビデオもそうだけど、官能小説と言ってもセックスばかりを描いていても意味がない。どちらかというとそこに至る状況、必然性みたいなモノに共感が得られないと、楽しみは半減する。

ここに納められている「ハメ撮り師」というのは嗜虐側が主人公だけど、やっぱり被虐に長けている。前にブログで、健さん、太宰治、村上龍、そして私、の四人の中でいったい誰が女性に対して優しいか、というとんでもない話をしたんだけど、私が思うにどう考えても、ダントツで健さんに軍配が上がる、という結論に達した。他の三人は泣きながらでも最終的には女の子を殴ってしまう()

それは深読みするに、健さん自身がおそらくSMかと問われれば、きっとM体質に傾いているのだろう。感受性の高い作家の方の多くがそうではないかと私は勝手に踏んでいるけれど、それがそのまま性癖に反映するかどうか、というとそれもまたすんなりとそうはいかないのが面白い所。健さんはその辺がわかっているから、他の官能小説よりは断然面白い。まぁ、エロいかどうかは作品に寄るけど。



ギターをめぐる冒険 発行 1992年9月10日(木) 出版社  八曜社
      ギターをめぐる冒険 著者 筌尾正
備考 健さんの盟友、筌尾正さんがルーディーズ・クラブに連載していたものをまとめた作品。表紙カバーに健さんの推薦文あり。

本分には一切健さんは登場しない()。表紙兼帯(?)に健さんの推薦文があるのみ。でもなぜか、何の疑いもなくこのリストに載せてしまった。健さんの()盟友だし、健さん責任編集のルーディーズ・クラブでの文章をまとめたものだし、間違っちゃいないんだろうけど、この一冊を入れたおかげで、随分とリストの幅を広げなくてはいけなくなったのは事実。でも、おそらく、私と同じ感覚でこのリストのこの作品を眺めている人は多いはず。

それはさておき、やはりギタリストは例外なく饒舌である。私の知り合いのギタリストの何人かは、それぞれの向き不向きはあっても、某か自分の事を喋りたくして仕方がないヤツがいる。自分で曲を作ったりするとなおさらで、おそらく、ギタリストに限らないんだろうな。嘘だと思うなら、近くの楽器店に行って、スタジオから出て来たバンドマンに気軽に声を掛けたら、誰でもいろいろと喋ってくれるはずだ、おそらく。

それは当たり前と言えば、当たり前の話で、なぜなら、誰かに何かを、特に自分の存在を明らかにするために、ギターという武器、音楽という戦場に身を投げ出したのがミュージシャンだからだ。音楽家は語らず、という風潮を乗り越える事が出来れば、きっと例外なく、みんな何か喋りたいはずだ。俺の音楽はこんなにスゴいってね。

もちろん、この作品が俺サイコー!という話に終始している訳ではない。だから一冊の作品が成り立っている。そこなんだよね、表現が普遍的であるか、単なる自慰行為であるかの境目は。

私もストーンズ好きを公言していて、ギターも弾いているけれど、自分はまだまだ邪だな、と思わずにいられない一冊。




デ・クーニング 発行 1993年12月20日(月) 出版社  講談社
      デ・クーニング
備考 エッセイを寄稿

講談社の現代美術シリーズと銘打って、ちょうどバブルが弾けて直ぐぐらいに、何十巻かを毎月、発刊していた。ちょうど私は、岐阜を離れて香川に戻ってきた頃で、その頃私を支配していたのは、音楽以外の自分を発見する、というもので、こそこそ小説を書いたり、こういう現代美術に触れてみたりとか、失業保険をもらいながらそんな事をしていた。まぁ、ただ遊んでいただけなんだけど。

その当時、一応興味のある「リキテンスタイン」「ウォーホル」そしてなぜか「ラウシェンバーグ」だけ買った。その頃から、「デ・クーニング」に健さんがエッセイを寄せているのは知っていたし、「ラウシェンバーグ」だって別に知ってて買ったわけじゃないのに、なぜ手に入れておかなかったんだろうか?現代美術、というよりもわかりやすいポップアートの方に、単純に惹かれていたっていうことなのだろう。

健さんのエッセイ云々はさておき、単純にこのシリーズはわかりやすい現代美術の入り口になっていて、全巻揃えても損は無いと思う。あるいは好きな作家の画集は高いけど、一冊何か、ならちょうど好い価格、写真もキレイだし年表のような資料も整っている。旧本ではあまり見かけないのはやっぱりみんな秘蔵しているのか、当時の経済状況にあわせて売れなかったのか。もう二十年以上前のものだから、すっかり旧くはなっているとは思うけど。



あんな作家、こんな作家、どんな作家 発行(単行本) 1992年9月30日(水) 出版社 講談社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 2001年3月15日(木) 出版社 講談社文庫
著者 阿川佐和子
あんな作家こんな作家どんな作家 あんな作家こんな作家どんな作家 備考 健さんへのインタビューを「突っぱりロック」として収録。

阿川佐和子さんのインタビュー集で、インタビューされる側に健さんが登場する。阿川さんの目にはつっぱりロッカーと映っているようだ()。ブックオフで、山川健一、というキーワードで検索するとなぜかこれが出てきて、調べたらそういう事情だったので、ごく最近手に入れて読んだ。健さんファンの間では常識なのか、あるいは結構レアものを引き当てたのか。いずれにしろ、健さんの作品を自著だけに限らず集めようとすると、本当に多岐にわたっていて相当苦労する。今ではもう手に入らない雑誌とかにも載っている可能性があるので、そういうのをかき集めて出して欲しいな、と思う。

(単行本再読)

文庫版を先にだが、つい最近読んだし、健さんもちょっとしか出てこないので、済度したからといって何か特別な感情を抱く、というわけでもないのだけど()。とはいえ、文庫版を読んで以降、かなり健さんの、時系列的なモノを知った上で読むと、ああ、ルーディー時代なのか、という感慨はある。

それでも、自分の中に思い描く健さんの姿と、本書に登場する健さんの姿は、似ているようで異なっている気がして成らない。それが、一次資料と、二次資料の違い、みたいなモノなのだろうか。つまりは、それぞれの読者の中に、それぞれの作者像がある、という当たり前の結論に辿り着くのだ。

純粋に、一冊の書籍としてみると、作家のカタログのようで楽しめる。アンソロジーモノでも、少しでも作家の略歴があると助かる、みたいな感覚と一緒。今はネットがその辺を代替しているけれど、やはりそれも一対一、二次的な別の見方には欠けるので、どちらが好いとは言い切れないな。



セルフ・ポートレート 発行(単行本) 1988年6月30日(木) 出版社 角川書店
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1990年9月10日(月) 出版社 角川文庫
共著 ジム・ファイル
セルフ・ポートレート セルフ・ポートレート 備考

最初文庫本で読んだ時、後半の英語解説の部分を健さんが担当していると思っていた。だから、ジム・ファイル氏の小説の翻訳と、解説を健さんが担当している、とずっと思っていた。だから、このデーターベースでも小説の中にカテゴライズしていた。

しかし実際は、健さんは翻訳担当で、小説も解説もジム・ファイル氏の作品ではないか、と今になってようやくわかった。

なぜ私が混乱したか?それは、やはり文章の調子があまりにも健さんスタイルだったからなのだ。まぁ、当たり前といえばそうなのだけど、こうやって日本語になってしまうと、結局翻訳者のものになってしまう、という私の懸念が証明されてしまったことになる。やはり、原文を読めるようにならないと、異言語の作品のニュアンスはつかめないんだな、と改めて思ったということだ。

そういうわけで、今回カテゴリーを変更して於いたのであしからず。

そもそも、私は英語は喋れないが、それは英語圏の人とあまり喋ったことがないだけで、案外ペラペラ喋ることが出来るのかもしれない。もちろん最初のうちは躓くだろうけれど、そんなに身構えるほどもないのかな、という風に思うのも、やはり、経験がない故だ()

単純に、昔から英語の歌詞に触れていたし、自分なりに翻訳したり、タイトルぐらいだったらなんとなくわかる感じだし、つまり、単語は結構覚えているのだ。ということは、それを繋げりゃ、何とかなるんじゃない、という風に簡単に考えるのだ。

まだミレニアムを越す前、インターネットには英語があふれていた。というより日本語が少なかった。だから、ある程度目的のもの、平たく言えばアダルトサイトにアクセスするには、単語を覚えていることはかなりのアドバンテージになった。日本語対応、という言葉がまかり通っていた時代だ。今はすっかり、日本語サイトしか歩き回らなくなった。遂に洋物サイトまで日本語対応を謳っているのだからいい時代になったものだ。

しかし、経験という意味では大変貴重な時代をくぐり抜けたと思う。その時代を経験しているのと、今の時代ではスキルに差が出るのは仕方がない。その辺の底上げを誰もやっていないから、便利さだけが空回りして、不寛容で殺伐としたネットの世界が現出してしまったのだと思う。

紙の本は、長い長い時間をかけて、やはりここまで辿り着いたのだ。時間がゆっくりであるが故に、万人にそのスキルを浸透させることが出来たのだ。するとやはり、知識やマニュアルは、紙の本に帰って行くような気がするのだが、それはおそらく希望的観測なのだろう、と思ったりする。



アジアに堕ちた男 発行 2007年2月11日(日) 出版社  太田出版
      アジアに堕ちた男 著者 テリー・タルノフ
備考 翻訳、編集を担当。巻末でロバート・ハリス氏との対談。

健さんが翻訳。冒頭でも言及されているけれど、翻訳と云うよりは再構成し、加筆修正も加えられているらしい。半分健さんの作品、と云ってもいいような出来だけど、作品世界としては全く別物。

タイトル通り、インドを振り出しにアジアを巡るバックパッカーの物語。行く先々でドラッグに溺れて、では何かを求めているのか、あるいは何かを得ているのかというとそうではない。ひたすら流れていく。

ちょうど同じ時期に鴨志田穣さんの本をまとめて読んでいた。バックパッカーと戦場カメラマン、という違いはあっても、両者ともにドラッグに堕ち、ゆらゆらと陽炎のようにアジアの大地の上を揺らめいていく。誰もが、そうなってしまうモノなのだろうか。

ただし、日本人の鴨志田さんの方がちょっとだけ、スケベ。私は案外そっちの方が良かったりする。病気は怖いけど、欲望ならそっちの方がずっとシンパシーを感じる。




太陽が沈む前に 発行 2007年6月1日(金) 出版社  太田出版
      太陽が沈む前に 著者 テリー・タルノフ
備考 翻訳、編集を担当。巻末でロバート・ハリス氏との対談。

「アジアに堕ちた男」の続編。ヨーロッパからアフリカへと至る。なぜかこっちの方がごくスムーズに読み進めることが出来た。女の子が出てきたからだろうか()?ただ、元々翻訳物には、原書が分からない限り触れることが出来ないものがあると信じているので、健さんの言葉として読む。しかし、健さんの姿はない。この違和感に終始馴れないままで終わってしまった。




あの世はどこにあるのか 発行 2008年12月18日(木) 出版社  アメーバブックス
      あの世はどこにあるのか 著者 森田健
備考 インタビュアーを健さんが担当。

森田健さんの本となっているけれど、健さんが訊き、森田さんが応える、という形式で構成された対談集みたいなモノ。森田さんは決まった宗教、というわけではないけれど、不思議なモノに対する好奇心は旺盛で、その仲介役として活躍されている。しかし、ある種の思想を、世に知らしめるために、書籍で広く伝えている、というのは最近の新興宗教がよくとる形態。全く固定の宗教に囚われているわけではないけれど、似たものとして捉えられるのは仕方がないことだと思う。

最近になってようやく辞めたけど、私の購読している新聞の占いの欄をとっておき、一週間後に果たして結果はどうだった、なんて振り返る、ということをしばらく続けていた。この人は当たる、当たらない、なんて物見遊山で眺めていただけだけど、まぁ、その辺自分の主観がいくらでも入るし、当たったからどうだ、というのもあって辞めた。それでも結構、占いや験担ぎをする方だと思う。

夏になると部屋の窓にヤモリが顔を出す。カーテンを引いて室内の明かりを外に晒すと、それを求めて小さな虫が寄ってくる。それをヤモリが食べるのだ。餌付けみたいなモノだけど、毎年同じ個体が来ているのかどうかも分からないし、実際触れるわけでもない。ゴキブリを食ってくれればいいな、ぐらいの軽い気持ちで始めたけれど、ヤモリは家を守るので無碍に出来ない、というのもある。それも迷信と云えば迷信だよな。しかも、絶対に地獄に落ちるのは分かっているから、その時、閻魔様に宛ててヤモリから嘆願書が届くようになればいいな、なんだったら蜘蛛の糸の如くしっぽを垂らして、なんて、そうなるともう創作じゃないの。




ロックミュージック進化論 発行(単行本) 1980年2月20日(水) 出版社 日本放送出版協会
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1990年10月15日(月) 出版社 新潮文庫
著者 渋谷陽一
ロックミュージック進化論 ロックミュージック進化論 備考 単行本版 渋谷陽一氏との対談を「ロックの未来とは 80年代へ向けて」として収録
文庫版 渋谷陽一氏との対談を「ポップス化の流れの中で」として収録。

私にとって洋楽の入り口が渋谷陽一で、FMの番組やロッキング・オンなどをよく漁っていた。今のようにネットもない時代だったから、それ以外に入り口が無かった、というのもある。そんな私が、渋谷陽一と聞くと、「FMホットライン・フロム・文京区・・・」というスティーブ・ハリス氏のギャグをいつも思い出す。共感できる方がいらしたら、ぜひブログの方にコメントを()

その渋谷陽一氏と、健さんの対談が収録されている。単行本と文庫版のどちらにも対談が収録されているが内容は違うらしい。現時点では文庫版しか読んでいないのであしからず。(単行本の方も手に入れたらアップデート予定)

ロックは進化なんかしないで純化していくんだよ、という健さんの主張とずっと平行線のままの対談。もちろん私は、経験として健さんの主張の方に肩入れできるのだけど、どちらも譲らないのが読んでいて面白い。この対談の存在を知ったのは、ルーディーズ・クラブからなんだけれど、あちらでは皆がある程度同一の方向にまとまっている話ばかりなのであまり気づかないけれど、対比として渋谷陽一が語る異論がある方が、健さんの主張が際立つし、共感できる。もちろん渋谷陽一のスタンスもよく分かる。そういう意味で、これは健さんの数ある対談の中で、ベストとも言える対談になっていると思う。

(単行本再読)

巻末に健さんとの対談が収録されている。文庫版は、ほぼ十年後の対談となっている。しかも、この対談の抄録が、今日もロック・ステディに収録されている、その完全版といったところ。

今となってみれば、幸福な八〇年代を前にして、なぜそれ以前を回顧する意味があるのだろう、と思わないでもないのだけど、歴史を俯瞰する意味で言えば、とりあえずまとめて知っておいた方がイイ、ということになる。

八〇年代、正しくバブルの頃が幸福だった、という意見には異論もあるとは思うけれど、今よりはずっとマシだったはず。私は目の前で既存の価値観がガラガラと音を発てて崩れていき、あらゆる者が明るい未来を見据えている幻想に酔えただけでも、ずっと良かったと思っている。その端緒は、間違いなくテクノであって、ただ、音楽の革新はそこで打ち止めになってしまった。

九〇年代から二〇一〇年代までは、正しくゆっくりと下降線を辿っていき、それでもなんとかあがこうとして仄かな輝きが幾つか産まれた。そして東北の震災以降、こう言っては極端だが、未来を潰える後始末の世代に入ってしまった。

こと音楽に関しては遂にここに来て、船頭の役割を下りてしまった。ストーンズがなくなるとどうなってしまうんだろう、という懸念しかない。

そういう流れを想起する私の価値観の大元は、ロックってそんなに健全な音楽じゃないはずなのにな、ということ。特に震災以降、健全なモノでないとスポイルされるだけになってしまい、ロックもそこに取り込まれてしまった。

震災は悲しみや悔しさややるせなさ、を多くの人に植え付けた。それに寄り添うのに音楽は非常に有用だったはず。しかし、すべて口当たりがいい勇気づけソングばかりで、そこから零れ落ちる者だっていっぱいいたはずなのだ。ヘヴィネスを歌うバンドの多くが、そこで沈黙してしまった。彼等に震災以後の心情を重ねたい人だってたくさんいたはずだ。それはある種の暴力衝動や、破壊衝動みたいなネガティブな心情だったかもしれないけれど、それに寄り添えるのはロックしかなかったではないか。なぜそんな彼等でさえ、勇気や未来や希望を歌わねばいけなかったのだろうか?

そして今、エンターテナーはテレビに出ているという「特権」のために、コンプライアンスだの健全化だのの旗手を務めさせられている。ロック(芸能)ってそんなによい子の音楽(芸能)だったっけ?と私などは思う。

そして、まだロックがカウンターカルチャーだった名残を、こういう歴史書()の中でしか懐かしがることができないのは、悲しい限りだ。そういう一抹の、寂しさを抱えて、私はこの本を読んだのだった。



遊談倶楽部 発行 1988年12月25日(日) 出版社  集英社
      遊談倶楽部 著者 五木寛之
備考 五木寛之氏MCによる座談会集、健さんはレギュラーとして参加
他の参加者は景山民夫、川西蘭、桑原一世、小林恭二、島田雅彦、田中康夫、中沢けい、森詠、森瑤子、山田詠美

健さんの師匠である五木寛之氏がMCを務める座談会をまとめたもの。季節毎に一年間、毎回十人弱の参加者を集めて開かれた座談会で、メンバーは何れも作家ばかり。そしてもちろん、健さんもその中に加わっていて、しかも皆勤賞()。というかレギュラーみたいな立場。

健さんに限らず、エッセイや対談集、こういった座談会のようなものは、話の内容を愉しむよりも、そこからインスピレーションをもらうことの方がずっと益があると思っている。結局、誰かの受け売りよりも、そこから自分の血となり肉となり、と発展させる為にこういう形式のモノは綿々と続いているのだと思う。

昔大瀧詠一さんがNHK-FMの番組にゲストで出た時、あるハガキが読まれた。曰く、周りに居る話し相手がバカばかりで気が滅入る、という一般視聴者。続けて、坂本龍一、村上龍、と彼の言うところのインテリな会話が出来る人物の名が列挙されていた。

それから十年以上たって、ネットが整備され、2ちゃんねるの存在を彼が知ったとしたら、さぞかし喜んだことだろう(実際はどうか知らないけど)。自分が思うレベル(!)の者と繋がって会話に没頭できる場が、そこに存在していた訳だから。そんな巨大掲示板も、今は便所の落書きと揶揄されている。一億総白痴、といわれた時代は随分昔のことのように思えるけれど。

なんてことを、座談会、というフレーズから思い出してしまった。内容とは全く関係の無い話だけど、なんとなく、こういうモノを読むと、そういう考えが浮かぶ人も出てくるんだろうな、なんてことをちょっと考えただけ。



リエゾン 六つの恋の物語 発行 1988年7月25日(月) 出版社  主婦の友社
      リエゾン 六つの恋の物語 共著 佐藤正午 川西蘭 原田宗典 堀田あけみ 山田詠美 温水ゆかり
備考

アンソロジーモノで、健さんは「半斤のパン」という作品で参加。これは「チョコレートの休暇」にも納められているのだけど、一緒に「我慢」というタイトルで編集者(たぶん)の温田ゆかりさんのインタビューが収録されている。

これがなかなか興味を惹く内容。常に女性上位の、というと今の世の中では多少違和感があるように聞こえるのか、とにかく女性には敵わないよ、というような話を健さんがしている。どこまで元テープに忠実な文章化は分からないけれど、読んでいるとなんだか健さんが女性を口説いている場面に遭遇したような、そんな気になった()。そういうフレーズは一切出てこないけれど、なんとなく親密なようで、距離があって、でもそれが縮まっていくような、微妙な駆け引き?山崎まさよしの唄の中に、当たって砕ける、落ちる手前がちょうど好い、なんていうフレーズを思い出した。

まぁ、それは裏を返せば、読んでいる私の視線が曇っているせいで、そのギャップが自ずと自分を省みる事なんだろうな。それは意図したモノでは全くないのが、面白いところ。だから、なんだか居合わせてはいけないような雰囲気ではなく、今ならライブ配信しているような()そんな目で、男と女の話を覗き見しているような感覚。意外な拾いものだったなぁ。

ついでに、最後の山田詠美のインタビューも秀逸。アア懐かしきバブル時代、っていう感じ。



楽園実現か天変地異か 発行 2008年5月30日(金) 出版社  アメーバブックス
      楽園実現か天変地異か 著者 坂本政道
備考 「作家・山川健一氏との対話 ヘミシンクとコスモロジーについて語る」にて、著者と対談

著者と健さんは高校の同級生。巻末で対談している。元々、健さんがヘミシンクにハマったのは、この著者のもとで体験したのがきっかけ。健さん世代だとニューエイジ思想、とかいうジャンルになるのか、疑似科学とかオカルトと言えば通りがいいのか。

サブタイトルに2012年に何が起こるか、とある。発売は2008年で、私がこれを読んだのが2017()。だからといって、答え合わせのような事をするのは無粋というもの。ただ、健さんのヘミシンク話や森田健氏の著作にも共通するのは、ありがちな宗教めいた、正しく生きなさい、そうすれば天国に行けますよ、というような説教臭くないところ。善悪を単純に信じられない世代の特徴というのか、現代的というのか。

特にこの作品に限って言えば、淡々とまさに2012年に起こる事が、ほぼ断定的に語られている。信じる信じない、を少なくとも著者は越えているけれど、読んでいる方は果たしてどうかは分からない。私も健さんとの対談が載っているから、この時代でも読めたのが正直なところ。しかも、淡々と読み進めていった。タイトルがそうなっているので、半ば仕方がない。

だからといって、否定している訳じゃないよ。笑ってもいない。でも、時間というものは、結構残酷だと思う。




ポット・プラネット マリワナ・カルチャーをめぐる冒険 発行 2003年10月26日(日) 出版社  太田出版
      ポット・プラネット 著者 ブライアン・プレストン
備考 翻訳を担当。翻訳者によるプロローグを追加。

元々私はシンナーをはじめとするドラッグとは無縁の人生を歩んで来て、数年前にバッサリと煙草も止めてしまったので、教養としてこういう話は読んでいるに過ぎない。変性意識とか、そういうものに興味があっても、それはやはり生体機能だと思う以外に結論を持たない。快楽には糸目を付けないつもりでも、それも歳とともに随分とこぢんまりしてしまった気もする。

しりあがり寿さんが昔NHKで仰っていたように、現代は快楽をより得ようとすると必ずイリーガルなものに触れる、そういう時代になってきたのは事実。つまり、快楽には当然リスクが付き物だということで、それを乗り越えるのは勇気と意志の問題なのだろう。つまらない時代になってしまったものだ。

さて、ウチの近くには天下の海運を司る金比羅宮の総本山があるけれど、そこは地元では大麻山、と呼ばれている。地図などでは像頭山となっているけれど、大麻山の方が通りが良い。神域にこの名称、とは何事か況んや、である。大麻山の中腹に金刀比羅宮が有り、その裾野がなだらかに落ちたところに、お大師さんの生誕の地、総本山善通寺が鎮座している。




文芸ラジオ1 発行 2015年3月31日(火) 出版社  藝術学舎
      老いた兎は眠るように逝く 共著 栗原康、玉井達也、辻井南青紀、保坂和志ほか
備考 小説「老いた兎は眠るように逝く」収録。

先ずはふたつほど、ここに記しておかねばならないことがある。ひとつは現在、20171230日であるというコト。暮れも押し迫った時、そして今年最後に読み終えた本がコレだ、ということ。そしてもちろん、ここLicksの更新も今年最後で、この作品であるというコト。

もうひとつは、コレは文学ラジオ、という現在健さんが教員を務めている大学が出版している文芸誌である、ということ。私は高校中退で、もちろん大学に在籍した経験もないのでよくわからないけれど、コレは文芸学科が中心となる同人誌みたいなモノだろうか?そういう認識で私はずっと読んでいた。

文芸誌なので、健さんの作品だけが収められているわけではない。それなら健さんの部分だけ読めばそれでよい、という風にはならないのが私の性格で、正直言って健さん以外は望んで読むわけではないけれど、一応一冊読み終えたという形式を整えるために、少しずつ少しずつ、通常の読書の時間の外で、読み重ねていった。そして今、やっとすべて読み終えた、ということ。一応、他の作者の方々を先に読み進め、健さんの作品を最後に読んで、フィニッシュとした。

以上の理由から、健さんの現時点での最新作でアリ、最もリアルタイムで感想なりをアップするところ、発刊から二年以上かかってしまった、という言い訳だ。

しかし、ああ、この作品を新年を前にした、今このとき、しかも2017年の今、読んだか、というごくごく個人的な感慨がある。その詳細を語り始めると、本当に長くなるので、ブログの方を参照、ということにしておく。

そして、今読んだ直後の気分を正直に言うと、泣きそうだ、に尽きる。

コレが文章でよかった、口に出したら本当に泣き出しそうだ。その理由は、様々あるけれど、さっきの今、という感慨も合わせて、泣きそうなのだ。

作家という職業には憧れを持っていて、それはまんま健さんの存在と重なるのだけど、つまりはこうしてこういう文章を書いているように、作家自身の人生の一部をパズルのピースのように、一つ一つはめ込んでいく作業なのだな、と思う。

作中で健さんは、コレは私小説か、と尋ねられてそうじゃないけど、と濁すのだけど、すべてがノンフィクションというわけではないにしろ、やはりそこには健さんがいる。しかも、主人公に仮託する形ではなく、健さん自身が物語を進める。

そして、それを読む私たちに、このLicksの冒頭でも話しているように、新たな思考や思想や表現の扉を開くのだ。そのともすれば目だけで文章を追ってしまい、深く自分を省みる時間に没頭していまう瞬間が度々あるような、本末転倒な事態が起こる。本作は久々の新作、ということもあって、それはもう自分のことばかり考えていた、と云っても過言ではない()

おまえと一緒にするなよ、と健さんに言われることを覚悟で、私も同じように父親との確執を抱えていた。私はそれをごくごく個人的なこととして、血の繋がった家族以外に吐露したことはない。ただ家族は、私の行動を見ていただけで、ハッキリとこう考え、こうしている、と言ったことはないので、本当のところはわからないだろう。

そのあげく、私は父親の葬儀に出ていない。ウチの父親は、最終的にはアルツハイマーで亡くなった。その症状は、母親に断片的に聞いただけだし、父親の話をすると私の機嫌が悪くなるので、ほとんどそういう機会もない。実際どういう病気で、などという所はわからないのだ。

亡くなったと聞いて、その前にもうほとんど追い出されるような格好で家を離れ、そのまま帰ることなく病院で逝ったのだけど、卑怯な終わり方だ、と私は思った。結局、一言も謝らなかったな、と。許してくれ、とまでは言わなくとも、自分が悪い、と一言言えば、それでよかったのに。

おそらく、家族の誰よりも、私は父親のことをわかっていたような気がする。それは、同じ血が流れているからなのだが、父親の色んな部分を受け継いでしまっている、という自分を鑑みて、思うのだ。

すべては父親自身のせいではないにしろ、彼には彼の不満があり、そのどうしようもない憤懣の捌け口を酒に求め、酒に威を借りて不満を爆発させ、それで周囲を悲しい目に遭わせた。しかし、まあそういう父親はどこでにでもいる。でも、私が最も許せなかったのは、それがただ現実から逃げている、という事実を、父親自身よくわかっていたコトだった。

それを謝ることはおそらく不可能だったのだろう、ということも私はわかっていた。だからもう、二本の平行線は二度と交わることはない。そう諦めて、鬼畜の所業と言われるのは判っていて、私は父親との交渉を一切絶った。もうひとつ、ここまで酷い目に遭ったんだから、父親のすべてを搾り取ってやろう、と。だから、私は伊達に穀潰し、といっているのではない。穀を潰してやろう、と思っているから父親の残した金で毎日遊び呆けているのだ。

まぁ、憎しみだけで人生を棒に振る、という単純明快な批判には、返す言葉がないけれど、私はそれで十分だと思っている。

ただ、父親が亡くなる前も、そして後も、しばらくずっと、私は度々の悪夢に悩まされる。というより、私にとって怖い夢、心臓が破裂しそうな程ドキドキして恐ろしくて飛び起きる夢の、その恐怖の対象はいつも父親だった。時には父親を殴りつけたり、抵抗はするけれど、それ自体が私の中に恐怖の感情を呼び起こすのだ。

そしてそれは一年ほど前までずっと続いた。あるきっかけで、悪夢を見なくなった。それ以降父親が夢に出てくることは滅多になくなり、出て来ても寂しそうにただ、書き割りの風景のように夢の中のストーリーに何の意味もなく、そこにいるだけになった。

そのきっかけとは、別に父親だけではないのだけど、父を含めて先祖の供養のための法事に出席したことだ。市内の潰れかけのお寺に母親と赴いて、ヨボヨボの僧侶にお経を上げてもらって、という形式だけの法事だが、私はそこにやはり形式的に出席した。信心も供養する気もないので、ただひたすらその光景を、例えば話のネタに、小説の参考に、などという興味だけで終えた。

でも、振り返ってみると、それがきっかけと言えばきっかけだった。その前に、母親が心臓の手術をするというので請われて、墓参りに連れて行ったという前振りがあって、その法事ですべてが整った、という感じだった。

穀を潰すだけでは、やはりそれは無為なモノだという自覚はあるから、私はその時間を、表現に費やすことにした。いや、音楽や小説執筆や、やりたいことのために、穀を潰すという言い訳をえたのかもしれない。その辺は、曖昧だが、どうあがいてもやはり言い訳は言い訳のような気がする。

ただ、無駄にしたくはないな、という気がして、その為に亀の歩みでもいろいろと動いて、そして新年を迎えるのだ。

そうか、健さんも同じように、というところから、私はこうやって父親のことを整理した。健さんはちゃんと父親を見送っている。その時間の流れの中に、ちゃんと健さんの今までが詰まっている。それはもう本当に感心するぐらい全部、健さんのコレまでが並べられている。驚くことに、この分量で、だ。

だからふと、健さんはコレを最後にするつもりなのだろうか、なんてことさえ思ってしまった。或いは、一度自分をリセットするような感覚。そしてまた新しい作品は、新たな健さんを生み出そうとしているのか、なんて。

つまりそれは、自分を鑑みて身につまされるというか、そういうフィードバックの部分と、そして健さんのすべてを俯瞰出来る、という二重の意味で、私は泣きそうなぐらい深い感慨を得たのだ。

そしてまた、少し遡って、健さんの作品が載っているこの本を探した時の光景を思い出した。またしても高松の商店街を端から端まで歩いて探し回ったのだけど、その高揚感に脚の疲れも全然苦にならなかった。汗っかきが年々酷くなり、もうちょっと歩いただけで全身がびしょ濡れになり、相当疲れるんだけどね。



ハイ!シリーズ01 聖なる植物 大麻 発行 2004年11月13日(土) 出版社  太田出版
      ハイ!シリーズ01 聖なる植物 大麻 著者 ニック・ブロウンリー
備考 ハイ!シリーズの監修と翻訳を担当。翻訳者解説、あとがきを寄せている。

FC2だと弾かれそうなキーワードだけど、それはさておき、ロック作家の旗頭、エンターテイメント小説の先鋭、と呼ばれているからなのかどうなのか、あえてこういう言い方をすれば「違法薬物」を扱える唯一と言ってイイ作家が、健さんだと思われているのだろうか?()親和性がいい、というほどには思わないけど、そういうイメージがあるのは事実。案外、健さん自身も、それを気にしているような気もする。

原書では依存シリーズの中の一冊という事で、それにしては、依存性もなく、健康にもいいのになぜか禁止薬物の仲間入りをしている大麻、という本。解説にもあるように、ポット・プラネットは旅行記で、これはもっと俯瞰した視点から経済や歴史を語っている。最終的になぜ禁止されているのだろうか?という感想を持つのはやはり、最後の十ページが持つ熱のせいだろうか。

斯様にシリーズ監修として、健さんが翻訳しているから読んだようなもので、そうでなかったら果たして手に取ったかどうか。そういう心持ちで相対しているから、読んでいてもなかなか先に進まず、そして最後の十ページに著作者の心象と、健さんの解説、及びあとがきを読んで胸をなで下ろす、という感じ。

余談だが、ブログでも何度も話したのだが、私はストーンズの大阪公演を、Bステージ最前列で見る幸運に恵まれた。ステージと客席のスペースはちょっとしたギターメンテに使われていて、ライブ中、ローディがストラトの調整を始めた。彼は背中を見せていたのだけど、そのうちほんのりと甘ーい香りが漂ってきて、私は直感的に、オッとヤバイ匂いがしてきたぞ、と思ったのだった。これこそストーンズ、と思ったまま終演後、同じ幸運に恵まれた三人とお好み焼きを食べた。その時、ちょうどそのメンテの話になった。

「ローディがストラトにめいっぱいパウダーをかけてましたよ。ストーンズはスプレーじゃなくて、パウダーなんですね」

そのヤバイ匂いは何のことはない、弦の上で指の滑りを良くするパウダーの匂いだったというオチ。ちなみに、チューナーも今ではどこでも見かけないようなストロボ式で、なるほど歴史を背負ったバンドだな、と思った。



ハイ!シリーズ02 植物性アッパー コカイン 発行 2004年11月13日(土) 出版社  太田出版
      ハイ!シリーズ02 植物性アッパー コカイン 著者 ニック・コンスタブル (訳)山本彰子
備考 ハイ!シリーズの監修と解説を担当。

身も蓋もない言い方だけど、結局最後の健さんの解説と、年表とで、少なくとも私の興味は満たされてしまった。そこに至るまでの長い、長い話は結局、それの詳細なのだ。もっとも、長い話を要約したのが解説なので、私が言っていることは全く本末転倒なのだけど。

つまり、私のような思考過程は、インターネットに触れるときのラインなのだと思う。例えば、項目がズラッと並んでいる中で、気になるモノをクリックして詳しく読む。興味があれば次の項目、なければ他の項目か、別のページへ。このアクセスビリティが良くも悪くも、ネットのもたらした新しい世界との付き合い方なのだろうと思う。

そうなると、詰まるところ紙の媒体は、縮小傾向に向かわざるを得ない、と思うのだけど、だったらあまたある興味の中で、果たして「コカイン」を私は選択するだろうか?山川健一、という項目をクリックして、満たされない情報を補完しようと思って始めたのがこのLIcksだけど、そこに載っているのが紙媒体の情報、というのは何ともね()

全くコカインの話ではなくなってしまったけれど、結局、健さんが解説しているように、ロックとドラッグの付き合い方でしか、コカインとは縁が無いのだから仕方がない。ちなみに、この本を読み終えてこれを書いている最中に、目の前のテレビで流しているDVDは、ストーンズのキューバ公演のライブを収めたもの。コカインと言えば、南米。その南米をツアーして回っているドキュメンタリー。まぁ、縁遠いとは言え、ってコトかな。



ハイ!シリーズ03 人間の旧き友 煙草 発行 2004年12月7日(火) 出版社  太田出版
      ハイ!シリーズ03 人間の旧き友 煙草 著者 カレン・ファーリントン (訳)阿部尚美
備考 ハイ!シリーズの監修と解説を担当。

私が初めて煙草を吸ったのは高校生の頃だが、日常的に吸うようになったのは二十歳を超えてからだ。その頃いろいろと青春の挫折があり、煙草でも吸ってみるか、と思い立ったのだ。その時、煙草の吸い方をレクチャーしてくれたのは、なんと私の妹だった()

それから幾趨勢、2010年の年初より禁煙して、今現在(20186)それはずっと続いている。それまで一日一箱吸っていたのを、パッタリ辞めたのだが、別に苦しむこともなく、禁断症状も起きることなくすんなり辞められたのは、この本によると、依存していたのではなく常習者だったから、なのだろう。元々、煙草は身体にあってないのが判っていたし、ただ、口寂しいから吸っていたに過ぎない。

禁煙する代わりに、煙草代を全部CDに換えた。欲しかったCDをわんさかと買うことにして溜飲を下げた。それに、元々人に会わない生活をしているので、誰かにそそのかされることもなかった。案外それが、一番の理由かもしれない。

その後、今年(2018)になって私は心臓に不調を感じ、結果一日入院してカテーテル検査なるものを受けた。それはそれは大変な経験だった。結果、狭心症の疑いあり、でとにかく血圧が高いのでそれを投薬で抑えるという治療(?)に専念している。

狭心症、高血圧とくると、だいたい塩分取り過ぎ、血管が詰まってどうのこうなのだけど、私の場合そういう影響ではなく、どうも血管が痙攣して起こるようで、それがよく出る人は、喫煙経験者らしい。

ここが大事なところだが、現在禁煙していても、ある程度の期間の喫煙経験があればその疑いがあるらしい。極端に言えば、もう一本吸ったら将来狭心症で若くしてぶっ倒れることは必至なのだ。狭心症は、しんどいよ()

なぜか煙草といえば肺がんが先行し、この本でも肺がんばっかり話に出る。しかし、本当に怖いのは循環器系に影響があることなのではないか、と思うのだ。その辺があまり触れられていないのは残念だが、いずれにしろ、辞めろともいわないし、辞めなくて好いというわけでもない。辞めた方がイイのだろうけど、その辺はフラットな姿勢で貫かれている。

しかし、このハイシリーズ、前二冊は読むのが大変だったけれど、なぜかこれはスムーズに読むことが出来た。それは元喫煙者、ということで、身近だったからなのだろう。

最後に付け加えておくと、煙草自身の実害はともかく、喫煙者の部屋を掃除するのは大変。禁煙して初めて判る、部屋の中の変貌。窓から壁からタンスから、黄色い汁が出てくるのは、辞めてみて初めて厄介だなと思うものなのだ。



ハイ!シリーズ04 ドラッグとしてのセックス 発行 2005年2月8日(火) 出版社  太田出版
      ハイ!シリーズ04 ドラッグとしてのセックス 著者 カレン・ファーリントン (訳)熊丸三枝子
備考 ハイ!シリーズの監修と解説を担当。

私の夢は、南の島で日がな一日エッチな小説を書いて一生を終えることだ。そう言うともっともらしく聞こえるだろうが、数年前、実は日がな一日エッチな妄想に耽る毎日を過ごしたい、と思っているだけなんだろうな、ということに気がついた。それより少し前に、自分のアイデンティティに深くエロティックなことが関わっていることに気がついてより、私はなるべくそのことを、肯定的に捉えるようにした結果だった。

しかし、巻末に健さんも解説しておられるように、自分は大丈夫だよな、と不安になる時代に、私のような開き直りは、逆に怖いことなのかもしれないと思ったりする。まぁ、この一冊を読んで戦々恐々とする、いうほどではないにしろ、やはり自分の事を顧みずにはいられない。いまさら遅い、という気もしないでもないのだけど。

ハッキリ言ってしまえば、私はたぶんもう本書のいうところのセックス依存症なのだろう。もうそれは認めざるを得ない。事実、今は見ているわけではないけれど、相撲中継の横で、アダルトDVDを音を消して流しっぱなしにしている。何か意味があるのか、といわれればハッキリとは答えられないところが心苦しい。まぁ、そういう雰囲気を、漂わせておきたい、というだけのことなのだ。

もう少し自分の事を顧みるなら、私は我が儘だが、何か言い訳がないと行動ができない。逆に言うと、明確な理由を得ればどんなひどいことでもやれてしまう。正しく官僚体質なのだ()。そんな自分の中で、未だ曖昧なままの部分を残しているのが、エロティックに関することだ。まだ、道半ば、のような感覚があるのと、その部分だけはまだ、ぼんやりとさせておきたいというような願望もある。それによって、欲望やそこから派生する衝動みたいなモノを、客観的に見ていたりはする。明確な何かを得てしまうと、その向こうの荒野の中で残りの人生を過ごすのはあまりにも虚無が過ぎると思っている節もあるのだ。

いずれにしろ、このシリーズの中では最も興味が惹かれ、且つ切実な一冊だった。著者はセクシャルな部分は無い、と云っていたが、いわゆるセックス産業の様々な形態を覗き見るという意味では、情報として詳細に載っている。それ自体がセクシャルな意味は持っていないが、私などはそこから妄想が派生することもある。それはきっと本書の目的を大きく逸脱しているのだけど、それを持って私が既に、この一冊に負けている、追いやられているという証拠でもあるのだ。



ハイ!シリーズ05 悪魔か天使か アルコール 発行 2005年3月9日(水) 出版社  太田出版
      ハイ!シリーズ05 悪魔か天使か アルコール 著者 ニック・ブロウンリー (訳)小林千枝子
備考 ハイ!シリーズの監修と解説を担当。

ちょうど二十歳を少し過ぎた頃、私は岐阜に住んでいた。当時の職場が借りてくれた一軒家に同僚と住んでいた。私が入社した当時、好景気の後押しで従業員が一気に増えた。特に楽器メーカーという特殊な業種だったために、全国から若い連中が大挙して移り住んできたのだ。

それはおそらく社交的な当時の私の性格のせいだろうが、私の部屋はある種のたまり場のようになり、ほぼ毎日誰かが家で飲んでいた。私が入社して半年は、ほぼ一日の例外もなく、そんな日が続いたのだ。

当然酒量はうなぎ登りになり、その地には三年弱居たが、終わりの頃にはどんなにビールを飲んでも酔っているという自覚がなく、頭脳は明晰(のつもり)でも身体はヘロヘロ、という状態になり、終いにはビールとは違うモノを口に入れてしまい大変なことになった。

まぁ、それ以降も酒に関してはいろいろと話はあるけれど、一般的にありがちな話題を逸脱することはない。そして現在は、一滴も飲まない。珠に気が向いたら晩酌をするが、酔うことに執着はない。

それは、自分の父親のせいだ。私の父親は、依存症で終いには脳を冒されて一言も謝ることなく死んでいった。その間に、酒に纏わる醜聞でさんざん私たち家族は痛めつけられてきた。警察を呼んだことも一度や二度ではない。父親が死んだ時は、葬式にも出ず、なんの悲しみも浮かばなかった。逆にホッとしたぐらいだ。私の中に蟠っていた澱が、ようやく溶け出すような感覚を感じて、事実今はとても落ち着いている。

楽しむ分には、という言い訳に、私は今のところ否定的だが、飲酒を頭ごなしに拒否するつもりもない。おそらく、他のドラッグに比べて、パーソナルな意識が覆い被さる部分が多いのだろう。それでも、飲酒がらみの事件はほぼ毎日、ニュースに上っている。そして、酒を飲んでいて、という言い訳も通用しなくなった。

死んだ父親も、母親にいわせれば飲んでない時はおとなしいいい人だ、ということになるのだろうけれど、いい人はそもそも他人に迷惑をかけて平気ではいられないはずだ。平気でいられないからアルコールに走るならわかるが、本末転倒も甚だしい。そして、そのことを自覚していながら、一言も謝ることになく鬼籍に入った。私は正直、卑怯だと思っている。

しかし、それはあくまでも私の家族の話で、他人に同じ様な倫理観や価値観を押しつけるモノではない。アルコールに纏わる、コト日本におけるエトセトラは、詰まるところそういう観念に寄るところが大きいのだろう。

つまり、酒は飲む人それぞれを試しているのだ。そのことに恐れを成した者は、飲まないに越したことはない。最近アルコール離れが進んでいる、というのはクルマと同様、そういったところが原因かもしれないと思ったりする。



ハイ!シリーズ06 一瞬の強い夢 ギャンブル 発行 2005年5月5日(木) 出版社  太田出版
      ハイ!シリーズ06 一瞬の強い夢 ギャンブル 著者 ニック・コンスタブル (訳)小林政子
備考 ハイ!シリーズの監修と解説を担当。

ドラッグ同様、ギャンブルには昔から縁がない。理由は単純明快で、勝つために努力する、ということが面倒だからだ。面倒くさがり屋の本領発揮である。面倒くさがりは、世界を滅ぼす三大要素のひとつだが、身持ちを崩さない方法としては有効なのだ。

だから、この本を読みながら、まったくシンパシーも何も感じないまま、情報としてだけ読み進め、最中はずっと自分の事を考えていた。それで思い出したことが幾つかある。

小学生の頃、○○入門、みたいな学童向けシリーズの中に、トランプ入門、という一冊を持っていた。色んなトランプゲームのルールや進め方を指南したモノだが、ポーカーだけはまったく理解出来なかった。今ならわかるが、当時は意味がさっぱり、だったのだ。そのうちに気付いた、トランプは二人以上でやるものだ、と()。自分の部屋でミクロマンで遊んでいるのが楽しかった当時の私には、結局、終わりの方に載っていたトランプ占いだけが、有効な情報だったのだ。

それが原因、というわけではないだろうが、以降ゲームというモノには勝つためのルール、方法、があって、それを理解する、習得するのに時間がかかる、ということを悟った。前出したように、ルールはともかく、勝つために時間をかける、ということが私の中で壁となった。余談だが、現在でもゲームをやったりはするが、どれも勝ち負けのない育成ゲームか、或いは絶対勝てるように操作の効くゲームばかりだ。それは厳密に言うと、ゲームを楽しんでいるのではなく、別の何かなのだろう。

もうひとつ、高校を辞める直前の夏休み、バイト先の先輩に麻雀を教えてもらった。南極、と皆に揶揄されていた馬鹿みたいに冷房の効いた別の先輩の部屋に集まって、当時のバイト先で最も年上のおじさんとペアを組んで、麻雀のルールを教わった。その時私は、まったく意味もわからず、四暗刻を積もって、周囲の者を呆れさせたのだ。ビギナーズ・ラックとはよく言ったものだ。

その夏は、結局ビギナーズラックが私を麻雀に呼び込み、そしてその言葉を証明するように負け続けて終わった。後にその時の負債を帳消しにして、私は香川の地を無事離れたのだった。

そんなことを思い出しているうちに、国会ではカジノ法案が成立。直前に大きな水害があった中での強行採決、で非難を浴びたせいもあって、健さんは否定的な意見をリツイートしていた。この作品のあとがきとは、少し相容れない気がするけれど、私は大方その意見に賛成だ。全くの余談だが、曾ての民主党政権の終わり頃、やるべきことをやらない民主党、やらなくても好いことをやる自民党、という言葉を見つけて狂喜乱舞したが、その本領発揮と相成った。

低迷が長引く景気対策の一環だろうけれど、証券相場にしろ、カジノにしろ、ギャンブルにしか景気対策を打てない現状とは、嘆くばかりではないか。少なくとも、カジノは一般的には雇用は生まない。あぶく銭を掠め取るだけだ。

一方で、暴対法の煽りで堅気にまで手を出し始めた闇の組織の雇用対策、と考えれば、理解出来なくもない。ポルノや風俗からも締め出してしまって、行き場を無くした上に堅気になれ、といってもそれはどだい無理な話だろう。カジノがそこに一筋の光明を指すなら、意味はあると思う。まぁ、潔癖な御仁には理解出来ないだろうけれど。

ちなみに、闇の勢力が集う場所、塀の向こうではギャンブルが大流行である。もちろん、見つかれば懲罰が待っているが、あんな場所でも取引出来るモノがあれば、人はギャンブルという興奮に取り憑かれるモノなのだ。日曜正午、ふと、NHKののど自慢を目にすると、その業の深さというか、欲望の執念のようなモノを感じてしまう。今でもそれが賭の対称になっているのかどうかはわからないけれど、私は時々、そんなことを思い出してしまうのだった。



30人が語る楽しみの発見 モーツァルトから志ん朝まで 発行 1999年4月25日(日) 出版社  光文社
      30人が語る楽しみの発見 モーツァルトから志ん朝まで 著者 「CLASSY.」編集部 編
備考 「印象派の光を浴びて」で、黒江光彦、牧浦泰子と対談。初出はCLASSY.1992年9月号。

印象派絵画についての対談で健さん登場。正直、私は美術の世界には明るくないので、ああそんなものか、という以上に何かを受け取ることはないのだけど、それはやはり「好き」というものを基準にしているからだろう。

おおざっぱにエンターテイメント、という括りを如何に楽しむか、或いはどこから手を付けるか、ということがテーマの一冊だから、対談と云うよりはそれぞれの見識を付き合わせる、というような感覚なのだ。立場の違いはあれども、先ずは「好き」という衝動が先に立つ。そこを共有したい、ということなのだ。

コレはもしかしたら永遠の議論になるかもしれないけれど、では「好き」と「好い」は重なり合うのか?私は単純に、肯定している。だから、自分が好きなモノが好いモノだ、と考えている。逆に、評価は「好き・嫌い」の範疇をどうしたって超えられないのだろう、と高を括っている。だから、あまり、こういった評論のようなモノには手を出さない。なるべく、作品そのものに触れたい、できれば直接、ということに傾いてしまう。

対談の行われた日付が、バブル崩壊直後ということもあって、どこかチグハグな印象を受けるのは、例えば美術館は南仏のどこがすばらしいとか、オペラは誰某が至高だとか、という話が出て来ても、現実離れした感覚が残るのだ。いわば、バブルの残照のような、頭ではわかっていても身体が着いていかない、というような違和感がある。

今この時代(2018)になると、もうちょっと俯瞰してみることができるので、資料として読むことはできる。だから、まさしくこの本に流れている感覚を忘れられなかった人たちは、いわゆる失われた二十年は地獄だっただろうな、となんてことを思ってしまうのだ。

ただ、私はバブルの時代というものをそんなに卑下はしていない。その理由は正しく、そのどこか浮世離れしている感覚なのだ。確かにそれは泡のようなものだったかもしれないけれど、少なくとも本物を自分の手で確かめ、自分の素直な感情、衝動を信じる、という価値観を、私のような凡人に知らしめたことは決して間違っていないことだと思う。

それから二十年経って、人は新たなツールを手に入れて、新たな価値観を探っているけれど、根本にその、本当の本物志向、とでもいうべき感覚は失っていない。それは充分に誇っていいものだと思う。

余談だが、幾つかの対談の中で、心に残る言葉が幾つかあった。そのひとつに「感性は芸とは矛盾するもの」という山藤章二さんの言葉があった。ブログの方でちょうどぶち当たっている自分の思考に、ひとつの答えをもたらすようなそんな言葉だった。

そして、恋愛小説を語る対談でも、ふと、官能小説は恋愛小説の範疇に入るのだろうか、なんていうことを、また自らを省みて考えてみたりした。

つまり、私は充分、この一冊を楽しんでいたのだな、と思う() 



吉田松陰 天皇の原像 発行 2016年4月13日(水) 出版社  藝術学舎
      吉田松陰 天皇の原像 著者 石川忠司
備考 編集者として巻末に解説を寄稿。

正確な定義はわからないけれど、こういう思想解説書、或いは哲学書的なモノはどうしても苦手。それは単純に、ちゃんと読まないと意味がすり抜けて行ってしまって残っていかない、という私の稚拙な癖による。以前似た様なマルクス資本論の解説を読んだことがあるのだが、まったく理解出来ず、この世の中にはこういう難しい話をする人がいるんだな、というので終わってしまった()

それでも、健さんが関わっているから、というのもあり、近く大河ドラマで吉田松陰をピックアップしているのもあり、腰を据えて取り組んだのだ。余談だが、これを読んでいる最中の大河ドラマは、同時期の西郷隆盛が主役だ。

だから、というわけでもないのだろうけど、読後、面白かったな、と素直に思えた。もちろん、噛んで含んで教えるような文体ではないのにも拘わらず、じっくりと取り組めば言わんとしていることは判るし、今までぼんやりとしていたモノがあるイメージとして頭の中に浮かんできた。

しかし、そこまでで終わってしまっているのが現実。だから、というその先にはまだ進めていない。それはやはり、私自身が幕末維新という時代に、あまり興味が無いからだろう。正確に言うと、まだその手前で留まっている。

私はここ数年、八月には戦争関係の本を読む、ということを定番にしている。終戦記念日と前後して、日本がそういうムードに包まれるというのもあるけれど、しかし、私は個人的にその風潮には相容れない。というのも、戦争は悲劇である、ということを強調しすぎて、本質を見失っているように思うからだ。毎年、戦争を扱うドキュメンタリーもドラマも、戦中をピックアップする。現代に揺蕩う表層的な平和論はそこに立脚している。

しかし、非戦を問うなら、なぜ戦争が起こったか、ということを学ぶべきではないか、と私は思うのだ。だから、本来戦争を体験していない私たちがテキストにすべきは、戦前の日本のありようではないか、と思うのだ。そこで個人的に執着しているのが、ニ・ニ六事件と東京裁判だ。何れも、戦前の日本を俯瞰する絶好のキーワードだと思っている。

戦前の日本をじっくりと解きほぐしていくと、自然と明治維新に行き着く。そこで培われた思想や、風俗が、あの戦争の母体となっている、と思えるのだ。

つまり、いつかはそこに辿り着くのだろうけれど、私は未だそこには至っていない、ということなのだ。今、このLicksのためにこれを読んだのだが、未だ早すぎた、という印象が拭えないのだ。

私たちが子供の頃、時代劇といえば、鎧甲冑に身を包み、切った張ったの剣豪が名を馳せる、というモノが定番だったが、時代が下って、私たちの世代が求める時代劇は、おそらく維新の頃になるのだろう。だから、必然的に、歴史的な事柄はドラマという形で備わってくるのだろう。そこにどんな思想を見いだすかは、それぞれだろうけれど、私はまだその歴史を学んでいる最中に過ぎない、と思っている。

にしても、この本に描かれている「思想」という名のイメージは、少なからず私の中の琴線を振るわせているのは確かなのだ。今はそのことだけが、ハッキリと私の中でたたずんでいる。 



いま何を考えるべきか 21世紀論 発行 1993年1月5日(火) 出版社  ビクターブックス
      いま何を考えるべきか 21世紀論 著者 中京テレビ「対談21世紀」 編
備考 「クルマで読む21世紀の文化像~自動車産業の功罪~」と題して徳大寺有恒氏と対談

「対談21世紀」という対談番組からまとめたモノで、健さんは盟友、徳大寺有恒氏と対談している。もちろんテーマは21世紀の車の行く末。他の対談とも共通するけれど、裏テーマのように環境問題というモノがあって、それからすると自動車産業というのはまさに斜陽と考えられていた。対談も、それが最も色濃く反映されていて、全体に暗い雰囲気が漂っている。そういう意味では、健さんの他の車関係の作品とはまったく異質。

余談だけど、徳大寺有恒という人は、香川・岡山県人からすると、あるステーキやのCMに出ている人として有名で、私などはその為人を知る前にCMをみたので、ステーキを美味しそうに頬張る人、というイメージがある。自動車評論家という本業を知ったのはずっと後のことだった。

大量消費が果てはバブルという過剰を呼び込み、あらゆるモノが飽食と呼ばれた時代を経て、21世紀を迎える。現在既に二十年も過ぎた時点で、まるで答え合わせをするようなことは意味がないにしても、環境と産業というモノの接点に文化を据える、という方法は間違っていないと思う。さっき云ったような裏テーマの解決策を提示しているのも、結局、車を扱った健さんと徳大寺氏の対談に象徴されていると思う。

だが、一番興味を惹かれたのは最後に収録された横尾忠則と天野祐吉の対談で、産業だ環境だ文化だという処から遠く離れたところで、未来を語っている。面白いことに、それが案外、この21世紀の今でも答え合わせができない普遍的な何かを感じさせているのだ。おそらくそれは、20世紀にも21世紀でも忘れ去られた何かを、示唆しているからなのだろうと思う。



ルージュの伝言 発行(単行本)   出版社  
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1984年5月25日(金) 出版社 角川文庫
著者 松任谷由実
ルージュの伝言 ルージュの伝言 備考 聞き書きを健さんが担当。あとがきに一文あり。

ひととおり健さんの著作に手を付けて、他に何か無いだろうか、といわゆる「掘る」作業をしていて出会った。その時、え?健さんとユーミン?という違和感があったのは事実。

言葉は松任谷由実そのもので、健さんの香りは微塵もしない。でもなぜだか、ユーミンの言葉を興味深く受け取る健さんの姿が見えるような気がして面白かった。特に感想めいたモノも差し挟まないのも、健さんの真摯な態度というようなモノを感じさせる。おそらく膨大な言葉の中から、選び出した時に健さんの意思がそこはかとなくにじみ出てしまってはいるのだろう。現時点(2018)での最新作が三木谷浩史氏の評伝であることもあって、エディターとしての健さんのスタンスの原点なのかもしれない。

こういう本をタレント本といって好いのか、よくわからないけれど、松任谷由実という人の赤裸々な言葉が語られ、正直言って、ユーミンってこんな人だったの?という衝撃に満ちている。発売されて四十年近く経ってからショックを受けるのも何だが、ここから浮かび上がるユーミンを知っているのと知らないのとでは、きっと彼女の音楽を聴く耳も変わってしまうだろう。

個人的には、ミュージシャン自身の為人にあまり興味は無く、音楽は純粋に音楽だけで楽しむべき、ということを固く信じている。それは裏返せば、こういう音楽とはこうあるべき、ミュージシャンはこうあるべき、というような言葉を本人の意思とは関係なく、敏感に感じ取り、気にしてしまう性格だからなのかもしれない。同じ事は、健さん本人にも当てはまる。

とはいえ、純粋に面白い話の連続。おそらく、今回は文庫本で読んだのだが、単行本でもう一度読むことになるのだろうけど、それも悪くない、と思えるのだ。今は衝撃だけが胸の内にあるけれど、もう一度読んだ時に何を感じるか、近いうちにその日が訪れると期待している。



ムーンライダーズ詩集 Don't Trust Over Thirty 発行 1986年12月20日(土) 出版社  新潮文庫
      ムーンライダーズ詩集 Don't Trust Over Thirty 著者 ムーンライダーズ
備考 「いつか送れよ、小さな手袋」という一文を寄せている

ミュージシャンズ・ミュージシャン、という印象のムーンライダーズは、もちろん名前は知っているけれども、ちゃんと聴いたことはない。最後に収録されている年譜を見ると、メンバーの名前はほとんど当時好きだったアルバムのプロデュースや、バッキングの仕事でお目にかかっている。でも、バンドとしては聴いたことがないのだ。

健さんの寄せた一文も、正直言って何かよそよそしい感じがする。それでも、やはりライブでの共演なので、ルーディーズ・クラブに登場するアーティスト達が連ねられている。だから友達の友達、といったところだろうか。

なので、一番面白く読んだのは、実は松本隆の言葉で、防腐剤としての歌詞、古さを遅らせる歌詞、ということだったりする。因みに健さんは歌詞に惹かれるようになって現代詩と決別した、というようなことを話している。同じ事を、佐野元春はEテレで番組にしてしまったのだけど。

私個人の見解は、アーティストの評価が歌詞に重きを置かれて語られるのに、ものすごく違和感を感じていて、だから自分で作る曲にはなるべく、意味やメッセージを込めないように努力している。まぁ、それもお門違いな方向性なのだけど。

そういう意味から行くと、結構刺激的な言葉が連ねられていて、やはり一度ムーンライダーズは聴いておくべきだろう、なんてことを考えた。それもやっぱり、私の見解とは矛盾した発露なんだろけど。