小説


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鏡の中のガラスの船 発行(単行本) 1981年3月20日(金) 出版社 講談社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1987年3月15日(日) 出版社 講談社文庫
共著
鏡の中のガラスの船 鏡の中のガラスの船 備考

健さんの輝けるデビュー作。スゴくドキドキしながら読んだ記憶があるのだけど、今となってはストーリーが良く思い出せない。「天使が浮かんでいた」はその後何度も収録されるので、繰り返し読んだけど、これとか水晶の夜とかは、一度読んだきり。

というのも、現時点でまだ未読のiNovel版作品集に収録されているので、それを読むまで控えているのもある。こういうリストを作るんだから読み返せよ、と思うだろうけど、アップデートを念頭に置いて、今現時点での感想を記しているので、そこら辺は正直に。



壜の中のメッセージ 発行(単行本) 1981年 出版社 角川書店
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1985年3月10日(日) 出版社 角川文庫
共著
壜の中のメッセージ 壜の中のメッセージ 備考

これがまさしく、私の初めて手にした山川健一。高校生の時。その頃は、タイトル買いが主で、これもポリスの曲がタイトルに着けられていたから買ったのだと思う。その頃の本の読み方は、どれだけ主人公に自分を投影できるか、が一番の目的で、別に等身大の自分でなくても、かっこよく恋愛できたり、バンドで注目を浴びたり、そういう世界を夢見ることが一番の楽しみだった。その中で、この本の登場人物達はみんな、かっこよいというか、ものすごくスタイリッシュに見えた。田舎者の何やっても上手くいかなくて、はったりだけで強がっていた当時の私が最も欲しがっていたものがその、スタイリッシュさだった。だから、文学とか全然わからなかったけれど、そのかっこよさだけで惹かれたんだと思う。

ここに登場する主人公と友人をイメージする時、その頃悪さを教えてくれた二人組の先輩がいて、その姿が重なっていた。自分を投影するはずが、そういう俯瞰する目で読んでいたのは、まだ当時童貞を捨てたばかりだったからかなぁ?スポーツみたいなセックス、なんて全く実感がなかったし、その一方で例の先輩達はしょっちゅう女の子に悪さばかりしていたからなぁ。



さよならの挨拶を 発行(単行本) 1981年11月 出版社 中央公論社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1989年1月20日(金) 出版社 角川文庫
共著
さよならの挨拶を さよならの挨拶を 備考

健さんの著作で何が一番好き?と聞かれたら迷わずこれを挙げる。元々読書というものに縁の遠かった私が、何度か読み返した小説というのは幾つかしかないのだけど、「愛と幻想のファシズム」「希望の国のエクソダス」「銀河英雄伝説」、そしてこの「さよならの挨拶を」だ。読み返した回数から言えばダントツで、何度も何度も読み返したのはこの作品以外あまり見当たらない。

この本を読んでから、女の子に「山川健一っていう作家が好きなんだよね」って言いたい、と思って手当たり次第に健さんの著作を漁るようになる。そういう風に言うと、アアこの人頭がいいんだ、というような印象を持たれるのではないか、というゲスな下心から始まっているだけで、あまり褒められた動機ではないから読み比べてこの人、という感じではないのだけど、この「さよならの挨拶」との距離感というか、面白さを計る基準のような、そういうものを手に入れたような気がしたのだ。

でも、この本を読み返す、あるいは読みたくなるという時は、まさしくの作品に流れているアイソレートした感覚に寄り添いたい時で、あまりアッパーな時ではない。決まってうちひしがれている時に、不図手に取ってしまう、という時が多かった。そして、この作品の結末が暗示しているように、だいたいあまり気持ちのいい解決はしなかった。特に読んだのが二十代前半だったので、今となっては周囲に迷惑を掛けっぱなしの日々を送ることになったのだ。

だから、ものすごく好きな作品であるのだけど、逆に「さよならの挨拶を」から脱却するのを目標に生きてきた所もある。あの破滅的な結末を迎えないために、読みたいけど読まない、という我慢を何度かした。そういう意味では、私の人生の中に深く横たわっている作品なのだ。

ただひとつだけ、これもまた、この作品だけの特徴だけど、唯一どうしてもいただけない部分がある。それが猫殺しの場面だ。とても重要な場面だし、作品の中でなくてはならないエピソードではあるけれど、猫を殺す、というのだけがどうしても受け入れがたかったのだ。それ以外はほぼ完璧に隅から隅まで心に深く突き刺さる作品で、私の中で孤高の存在として未だにあり続けている。



窓にのこった風 発行(単行本) 1982年6月 出版社 中央公論社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1989年6月10日(土) 出版社 角川文庫
共著
窓にのこった風 窓にのこった風 備考

「さよならの挨拶を」やこの作品、その他講談社文庫の最初の方は、ほぼ名古屋の栄にあったパルコの中の書店で買った。今もあるのかどうかわからないけれど、テレビ塔の辺りからずっと下っていくと、ちょうど大通りの切れた辺りにあってとりあえず、そこが買い物の締め、みたいな感じで、CDショップとか書店とか見て回っていた。そこで山川健一の棚、もちろん文庫だけど()、を覗いては持っていない本があったらごそっと買っていたのを覚えている。

当時住んでいたのは会社が社宅として借りていたボロボロの日本家屋で、狭く旧い部屋に布団を敷いて、ごろんと寝転がって本を読むのが常だった。ただ当時は、ビールを一日リッター単位で飲んでいたので、本を読むと直ぐに眠くなってなかなか先に進まないのが常だった。

順番はどちらが先だった覚えていないのだけど、「さよならの挨拶を」をスイスイ読み終えたのと対照的に、なんだかこれは難解に思えて読み終えるのに苦労した。今読み返すとそうでもないのかも知れないけれど、とにかく良く分からなかった、という印象だけが残っている。



サンタのいる空 発行(単行本) 1982年7月 出版社 中央公論社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1990年11月10日(土) 出版社 角川文庫
共著
サンタのいる空 サンタのいる空 備考

短編集。最後に納められている「鋼のように、ガラスのように」は特に印象に残っている。今回ちょっと読み返して、当時は他に片岡義男さんの作品をよく読んでいたな、となぜか思い出した。角川文庫の赤い背表紙のシリーズで、それは高校生の頃から読んでいた。当時流行った軽めのビールみたいに、スルスル読めたのがその理由。

それの延長で、彼が翻訳したビートルズの訳詩集を持っていた。訳詩集は持っていたけど、ビートルズはちゃんと聴いたことがなく、ラジオでエアチェックしていたヒット曲を幾つか知っている、っていう程度だった。

それでもジョン・レノンが悲劇の死を遂げた、というのは幾らかロックをかじった者には、それが重要なニュースであることは理解していた。しかし、やはり実感というモノとはほど遠かった。ビートルズはもはや私の中では過去の人扱いだったのだ。

「鋼のように、ガラスのように」はそのジョンの悲劇を重要なアイテムに用いた作品。読んだのがもう十年近くの月日が経ってからだったので、忘れた頃に急に顔を出した、という感じで印象に残っていたのだ。でも逆に、この作品を読んだから、ジョンの悲劇を忘れない、というような感情が私の中に刻まれる結果にもなった。

ただ、さすがにもう二十年前のこと。てっきりジョンを扱った作品は表題作だと思っていて、アアサンタのいる空、ちょうどその頃だよな、なんて覚えていたのだ。SIONの「冬の街は」という曲の中に、「12月、街はクリスマス気分、あちこちから思い出したようにジョンの声」というフレーズもある。そしてそういう印象だけで、後日、エレクラで曲まで作ってしまうのだ()

つまり、ジョンの悲劇とこの短編集はセットになっていて、未だに12月になると、「鋼のように、ガラスのように」の主人公の女性と共に思い出すのだ。



パーク・アベニューの孤独 発行(単行本) 1983年 出版社 角川書店
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1985年1月10日(木) 出版社 角川文庫
共著
パーク・アベニューの孤独 パーク・アベニューの孤独 備考

角川文庫の初期三作は、三部作になっていて、だから続けて読んだはず。物語は冬の話だけど、読んだのは夏休みの頃で、汚い四畳半の子供頃から使っているベッドに寝っ転がって読んだ自分の姿を良く覚えている。あの頃の読書は、それがデフォルトの格好だった(笑)。「壜の中のメッセージ」は東京が舞台だけど、こちらはニューヨークで、もちろん行ったこともない場所だからテレビで見るイメージしかなかった。その頃のアメリカの景色は、ベストヒットUSAで流れるプロモーション・ビデオの中で見たイメージがほとんどだった。例えば、ストーンズの「友を待つ」とか。イギリスとアメリカの風景の違いとかも曖昧で、そういうざっくりしたイメージだけで、読んでいったんだった。



綺羅星 発行(単行本) 1983年9月 出版社 河出書房新社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1988年4月25日(月) 出版社 集英社文庫
共著
綺羅星 綺羅星 備考

今となっては初期短編集、というべきか。角川文庫とか講談社文庫の方のラインナップは、エッセイもあるので健さんの陽の部分がやんわりと覆っているので、まだ安心して読めるのだけど、集英社文庫のラインナップはなんとなく、陰の部分ばかりに彩られていて、せっかく「ロックス」とかあるのになんとなく印象が薄いのだ。

全く内容には関係ないのだけど、カバーの折り返しの所にデーンと、健さんの顔が登場している。おそらく、健さんの顔を見たのはこれが初めてだったと思う。この本を読んだ前後に、あの北野武初監督作「その男、凶暴につき」を見た。麻薬の売人・橋爪という役を演じていた役者さんが、健さんにどことなく似ていて、しばらく声とかそういうのを重ねていたというか、全く橋爪の顔と声でエッセイとか読んでいた(笑)。

実際に動く健さんの姿は、NHKでそれまでに何度か見たはずなんだけど、とにかくイメージが重なっていて、今でも「その男、凶暴につき」を見ると、健さんが出ている、という風な感覚を思い出してしまう。



ライダーズ・ハイ 発行(単行本) 1984年5月 出版社 中央公論社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1987年2月10日(火) 出版社 角川文庫
共著
ライダーズ・ハイ ライダーズ・ハイ 備考

高校生の頃、免許を手に入れることが出来る年齢になってもモーターサイクルへの興味とか憧れは、全然なかった。周囲に原付の免許を学校に黙って取るヤツは居たけれど、羨ましいとも何とも思わなかった。ただ、私も18歳になると学校に内緒で原付免許を取るのだけど、それはバイト先に毎日通うのがしんどかったからに過ぎない。高校生なのに深夜三時まで働いていて、そこからなだらかにつづく上り坂を、日が開けるのを見ながら帰るのは、疲れているし眠いしで、自転車では限界があったのだ。

それが、その直ぐ後に高校を中退して親戚を頼って尼崎に出た頃から急に、ちゃんとしたバイクが欲しくなる。その直前、先輩から買ったジェンマを黒に塗り替えるために、おおざっぱに分解して、エンジンというものとの距離が近くなったのがきっかけだった。ちょうど八耐が盛り上がっていた時期でもあって、ただのスクーターでは物足りず、ゼロハンスポーツと呼ばれるミッション付き原付に乗るようになったのだった。

二十台半ばでやっと車の免許を取るまでずっとゼロハンと付き合ってきたけど、結局私は酷いおとっちゃまで、コーナーを攻めるとかそういうスピードに魅せられるのではなく、原付で何処まで遠くに行けるか、とかそういうのんびりタイプの趣向が強いことに気がつく。それは今でも変わらない。

だから、健さんのバンク小説も、半分ほども実感できないまま、ただ憧れの中に収まってしまっている。それでも、例のゼロハンでカチャカチャやっている時は、小説の中の主人公と変わらないスピリットを持っている気分で、のろまだけど風を感じていると、夢想できるのが嬉しかった。

そういう風に、私の中の好奇心や興味はほぼ全て、健さんと共にある、といっても過言ではない。



コーナーの向こう側へ 発行(単行本) 1984年7月30日(月) 出版社 三推社・講談社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1987年9月15日(火) 出版社 講談社文庫
共著
コーナーの向こう側へ コーナーの向こう側へ 備考

長編バイク小説。おそらく、健さんの作品の中で、最も長いバイク小説ではないだろうか?短編集は幾つかあったはずだけど。

これもまた、読んでから二十数年の時を経て、単行本を手に入れた。私は時々ブックオフをハシゴするのだけど、だいたい読みたくなる本、集めようと思い立つ作家は、世間の流行とは外れていることが多いので、まず旧本屋を見て回るのが恒例になっている。太宰治とか、谷崎とかの文豪さん達は軒並み古本で賄っている。

健さんの小説はもうほぼ読み切っているので、健さんを古本屋で探すことはまずない。新刊は見つけたら必ず買うし。でも何かの折、ちょっと試しに、なんて「や」の棚を探してみると、本当に時々、健さんの本を見つけてしまう。それは文庫ですでに読んでいるモノの単行本だったりするのだけど、なんとなく買ってしまう。自分にコレクター体質がないわけではない、と自覚はしているけれど、なんとなく忸怩たるモノも感じる。買ったら読まなきゃならないし、一度読んだモノを読み返す気になるのも、健さんだからというところもあったりする。

しかし、そうやっていざ、改めて読み返すと面白い発見があるモノで、それこそ十何年ぶりにあの頃の自分に出会ったりもする。同じ本を二冊買ったりはしないけど、それでも単行本の棚をつい覗いてしまうのは、そういう淡い期待が顔を出すからなのだ。



水晶の夜 発行(単行本) 1984年 出版社 新潮社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1988年6月25日(土) 出版社 集英社文庫
共著
水晶の夜 水晶の夜 備考

長編作、でも、「綺羅星」の時語ったように、陰の部分の印象が強くて、なんとなく覚えているようで覚えていない。「真夏のニール」とごっちゃになっている感じ。そんなに陽気な作品って好きではないのだけど、もっと深い所に嵌まっちゃっているからかなぁ。

現時点(2016)で未読の作品集「Angels」に収録されているので、またアップデートします。



星とレゲエの島 発行 1985年7月25日(木) 出版社  角川文庫
      星とレゲエの島 共著
備考

私は二十歳を超えるまで東京に行ったことがなかった。ニューヨークの姿もテレビの向こうの世界で、だからジャマイカ、といわれてもまったくピンとこなかった。そもそも、ジャマイカのイメージから知識まで、ほぼ全て健さんの著作に寄っているのだから、未だに高校生の頃とは変わっていない気がする。レゲエミュージックも知識として、たまにFMから流れるものぐらいしか聴いたことがなくて、つまり、全く未知の世界をこの本で旅していたことになる。表紙、それから冒頭の数ページの写真が、読み進める時の私の最も大事なアイコンになっていて、青い空と白い砂浜、そればかりが印象に残った。ただ、その後、南国はほとんどジャマイカのイメージに統一されてしまい、沖縄も未だ行ったことがないけど、ジャマイカとさほど変わりがない()



サザンクロス物語 発行(単行本) 1985年10月1日(火) 出版社 三推社・講談社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1988年3月15日(火) 出版社 講談社文庫
共著
サザンクロス物語 サザンクロス物語 備考

SFは少し不思議、とは、クドカン作のドラマの台詞だけど、80年代に流行ったアーシーなSFとでもいう風な物語。これと「水晶の夜」が健さんの中の代表的な近未来モノ?

正直に言うと、この度これを書くために手にするまで、ストーリーとか全く忘れていた。なのに、オーストラリア、エアーズロック、というキーワードでいっぺんに、読んだ当時のあの空気が甦ってきた。幼少の頃からウルトラマン~宇宙戦艦ヤマトと続く外宇宙へ抜けていくストーリーに親しんでいた私は、当然の如くSFに偏見がない、というより恋愛小説よりはずっと、触手が伸びる。それが読書に親しみ始めた頃の当時の私の嗜好。といっても読んだのは、幾らか落ち着いた20代中盤。でも、ザザッと読み進めていって、面白かったな、という印象。

さて、厳密に言えばこれがSFか、というとまたいろいろ語弊があるかも知れないけれど、そういうテイスト、というぐらいに濁しておこうか。空想科学、となる原理主義よりは、まさしくSFは少し不思議、という程度でイイと思う。



ロックス 発行(単行本) 1986年5月 出版社 集英社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1988年8月25日(木) 出版社 集英社文庫
共著
ロックス ロックス 備考

実体験を元にしたタイトル通りのロック小説。もちろん私も中学の時からバンドをやっていたし、それ以降もずっと音楽とはいろんな距離を保ちながらも親しんできた。だからといって、こういう文章から音楽が溢れ出てくるようなものにシンパシーを感じるか、というと難しい所。ストーリーとしてはその頃わりとあった、ジュブナイルモノのような単純なサクセス・ストーリーではないし、何より実際に同名のアルバムを作って虚実ない交ぜ、というスタイルも斬新だった。

例えばマンガの「To-y」は芸能界モノ、音楽モノであっても、敢えて音を表現しなかった所で読者の共感を呼んだ。後にビデオになって実際に喋ったり音が付いてみんながっかりした。余談ですけど、現時点(2016年)で未発売ですが何十周年か記念で作られたフィギュアは、全く似てなくてがっかりした。

だから、変な言い方だけど、健さん自身の物語として読むと面白い。バンドもの、音楽モノ、としてみると何か距離を感じる、というのが私の正直な感想。それは、読んだ当時、まだストーンズやブルースの良さが良く分からなかった、というの影響しているかも知れない。だから今読み返すと、何か新しい変化があるかも知れない。

とはいえ、健さんの作品の中では、重要な位置を占める作品だし、そうは言っても愉しんで読んだのは間違いない。出来ればアルバムも聴きたいけれど、残念ながら未だ手に入れてはいない。CDになっているのだろうか?これをモノしている2016年は、健さんの著作が一気に電子書籍になった年で、まぁ、これもそれに便乗して作っているのだけど、出来ればCDも再発して欲しいなぁ。



雨の日のショート・ストッパーズ 発行(単行本) 1986年6月 出版社 講談社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1990年6月15日(金) 出版社 講談社文庫
共著
雨の日のショート・ストッパーズ 雨の日のショート・ストッパーズ 備考

当時の健さんのイメージは、まさしく都会の人、ロックの人、というモノが私の中に刻まれていて、それが野球、というモノにしっくりこなくて戸惑った。元々私は生粋の文化系で、体育会系を憎んでさえいたから、野球とはその最右翼、おっさんの愉しむモノだと思っていた。まぁ、話自体は、人間を描いているわけで、別に野球の話ではないのだけど。

これに限らず、健さんのあとがきには、今どこそこでこれを書いている、というのが多くて、私はそれに憧れて随分と真似をしている()。このあとがきは、キースと会ってカリブ海に浮かぶ島で書いたそうだ。ずっと後になって健さんと逢った時、握手してください、と頼んでしてもらった時、アアこの手がミックやキースと触れ合ったんだな、とそんな風に思ったんだった。



クロアシカ・バーの悲劇 発行(単行本) 1986年11月 出版社 講談社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1989年5月15日(月) 出版社 講談社文庫
共著
クロアシカ・バーの悲劇 クロアシカ・バーの悲劇 備考

実験小説集、というのがおそらく最もしっくりくる短編集。前衛的、とかいう風に語るには、私は全く文学のことなどわかっていないので、評価するとかしない以前の問題で、何かやっているな、って感じで読み進めていった。それでもちゃんと読める所が、ギリギリやっぱり文学に留まっている健さんらしいんだと思う。

健さんと逢った唯一の機会が、ストーンズが2006年に来日したあとのオフ会だったんだけど、その時に、健さんの作品で何が一番好きか、というのを、健さんの目の前で披露する、ということになった。私は迷わず、「さよならの挨拶を」を上げたんだけど、どなたかがこの「クロアシカ・バーの悲劇」を上げていらっしゃった。かなり強く、これは最高だ、と推してらっしゃったので、ヘエそういう人もいるんだな、となぜか今でも覚えている。その方の顔は覚えてないんだけど()。もしこれを見ていたら一度連絡ください、なんて。



追憶のルート19 発行(単行本) 1987年4月 出版社 講談社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1989年9月15日(金) 出版社 講談社文庫
共著
追憶のルート19 追憶のルート19 備考

ちょうどこの本を買って読んでいた頃、国道19号線沿いにある街に住んでいた。ただ、当時の私は原付免許しか持っていなくて、もっぱら移動は電車か、同僚の車に乗せてもらうのが常だった。

19号線は本州の中程を貫いていて、名山と呼ばれるような山々の連なりを、谷間を縫うように走っている国道だ。冬になるとその山々にあるスキー場に向かう、あるいは帰ってくるバスやら車やらで必ず渋滞して、全くウインタースポーツに関係のない、私や当時組んでいたバンドのベーシストはのろのろ運転の中音楽の話ばかりしながら、悪態を吐いていたモノだ。

その頃は、SHADY DOOLSというバンドに入れ込んでいて、彼等の曲に「ルート16」というのがあって、どちらかというとそちらにシンパシーを感じていた。その後その谷間の町から離れて香川に帰ってきた直後、高校の頃悪いちょっかいばかり掛けていた女の子と再会したことがあった。東京の大学に行っていた彼女は、その16号線周辺に住んでいる、と話していた。その再会の時、彼女は私の前にクルマで現れた。何処かポヤンとしていて、その時も助手席の私に胸とか鷲掴みにされながらも、やめてよーと口では言いながら何もできないでいるような女の子だった。そんな女の子がクルマを運転しているのが癪で、よっしゃいっちょ車の免許を取ってやろう、と奮起したのだ。初めて教習車の運転席に載って教習所のコースを走り出して、こんな面白いモノがこの世の中にあったのか、と思ってそれ以来、バイクをすっぱりやめて車の運転に熱中する。その後、いろんな女の子といろんな所にクルマで行ったけれど、一度としてハンドルを渡したことはない。



セルフ・ポートレート 発行(単行本) 1988年 出版社 角川書店
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1990年9月10日(月) 出版社 角川文庫
共著 ジム・ファイル
セルフ・ポートレート セルフ・ポートレート 備考

健さん流英語の教科書、とでも言うべきなのか。この頃の健さんはいろいろと実験的な著作を残している。その中でもわりと取っつきやすい部類に入る本かな。



チョコレートの休暇 発行(単行本) 1988年5月17日(火) 出版社 東京書籍
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1991年6月15日(土) 出版社 講談社文庫
共著
チョコレートの休暇 チョコレートの休暇 備考

「さよならの挨拶を」の時、何度も読み返した作品はそうない、と話したけれど、一冊がっつりというわけではないけれど、この本を読んだ直ぐあと、他の何冊かをパラパラと何度か見返した、という経験をした。というのも、この表題作の中に、どこかで読んだことのあるような、そう言ってよければコピペしたような文章に出くわしたのだ。この一節、確か健さんの前の作品で読んだことあるような、との思いに取り憑かれて、その部分を探したというわけ。

おそらく「クロアシカバーの悲劇」辺りだろう、と記憶を頼りに探してみたけれど、結局見つからず。デジャヴみたいなものだろうか?と首を傾げながらも、また別のどこかに、と行ったり来たり。やっぱり見つけられなかったのだけど、あんな体験は後にも先にも一度きりだったな。

と思っていたら、このテキストを書く時に、ページを開いてみて、「どこか狂った川の畔で」というタイトルを見て、おや、これもどこかで見たことがあるぞ、最近?それとも少し前?その最初のデジャヴ体験の時は、まだ私の持っている健さんの本もたかが知れていたけれど、今はもう膨大でさすがに探す気にはなれなかった。

その後、「iNovel 山川健一作品集 Rocks」に収録されているのを見つけました。



真夏のニール 発行(単行本) 1988年8月 出版社 集英社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1991年7月25日(木) 出版社 集英社文庫
共著
真夏のニール 真夏のニール 備考

「サザンクロス物語」に続くSF作品。舞台は未来でも、テーマは恋愛。だから恋愛小説、と括った方がいいのかも知れない。ただ、SFの厄介な所は、まず時代背景や状況説明に文章を割かなくてはいけなくて、現代物よりはずっとイメージングが必要になる。アニメ世代の弊害は、それを視覚で補ってしまおうとする所で、結局今原作モノのアニメが全盛なのは、その辺のわかりやすさにあると思う。

きらきらとガラスが舞い落ちてくるシーンというのを覚えているのだけど、今パラパラと読み返した限りでは見つからなかった。だから別の作品、案外「綺羅星」のワンシーンかも知れない()。でも、ドーム状の何かとそのガラスが舞い落ちる印象だけが、この作品のイメージとして強く残っている。



ティガーの朝食 発行(単行本) 1989年5月30日(火) 出版社 講談社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1991年10月10日(木) 出版社 角川文庫
共著
ティガーの朝食 ティガーの朝食 備考

離れて暮らす妻と二歳の子供との交流を描いた作品。前にエレクラの初代ボーカリストが、小説を読む時に作者の顔がわかっていると、どうしても主人公をその顔で思い描いて読んでしまう、という話をしていた。私の場合、わりと主人公は自分の中に思い描く自分をイメージしているので、アアそんなもんか、と思うけれど、案外健さんの作品は同じことをしているのかも知れない、と思ったりする。

というのも、この本を前後して読んだ、健さんのエッセイに出てくる友人の話、バンドの話、健さん自身の現実、そして体験した話、そういったモノがわりと小説の中にトレースされていることが多いな、と感じていたから。そしてこの「ティガーの朝食」辺りでは、これって健さんのドキュメンタリーじゃないの?的な感覚で読むようになった。もちろん、それは作家誰しもがあることで、そしてそれは上手にカリカチュアされているモノだし、その辺を愉しむのが本を読むってことなんだろうけど。

その後、健さんと逢ったストーンズのオフ会で、健さんがこんな風に仰った。「今回のチケット取るのも大変で、いろんな女の子に頼まれたり、娘にも頼まれたんだよ」と。それを聞いた時、思わず「エエ、あのティガーに出てきた女の子がそんなに大きくなったんですか」って私の口を突いて出てしまった。すると健さんは、よくそんな旧いこと覚えているなぁ、って苦笑してらした。



蜂の王様 発行(単行本) 1989年5月30日(火) 出版社 角川書店
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1991年6月10日(月) 出版社 角川文庫
共著
蜂の王様 蜂の王様 備考

最初に読んだのは文庫版で、二十代前半の頃。その後、単行本を厄年になって見つけて読み返した。単行本を買った時の様子はブログにも書いてあるので、そちらを参照

ブログでも何度か話したけど、私が初めてバンドでステージに立ったのは中学三年の時で、その時に演奏したのがRCサクセションの「トランジスタラジオ」とアルフィーの「メリーアン」だった。RCはともかく、アルフィーはその頃流行っていたのと、本当はジャーニーの「セパレイト・ウエイズ」をやるはずだったんだけど、もうひとつのバンドが同じ曲をやる、オマケに他の曲には変更できない、というので、似たようなアレンジの曲、というので選んだのが「メリーアン」だった。

そのアルフィーの高見沢さんを主人公にした小説。実在のしかもテレビでしょっちゅう見かけるアーティストを主人公に小説を書くというのは、結構な挑戦だなと思う。あくまでもフィクション、とわかっていながら、ついテレビでアルフィーの三人が出ていると、ステージ袖で高見沢さんは坂崎さんを殴っているんだな、とつい思ってしまう()

斯様にこの小説を読んでから、アルフィーを見る目が変わってしまった。先日も、BSのビートルズ特集に高見沢さんと坂崎さんが出ていて、大学時代はこんな事があって、なんて楽しそうに喋っていたけれど、やっぱり坂崎さんの目が笑っていない、とか、本当は仲悪いのに、とか思ってしまうほど、ずっと尾を引いている。本人達が望んだ作品だとはわかっていても、健さんは罪なことを・・・()



ブランク・セヴンティーズ 発行 1989年12月10日(日) 出版社  集英社
      ブランク・セヴンティーズ 共著
備考

空白の70年代と名付けられた短編集。ジェネレーション・Xだとか、失われた十年とか、とかく希望のない時代をひとくくりにして名札を着けたがるモノだけど、その時代の直中にいる間は何が何だかわからない間に過ぎていくモノだ。そのせいか、私の中で私の同時代の世代に対する嫌悪感は、相当に熟成されて育っている。簡単に言えば、今の日本をダメにしたのは60年代後半から70年にかけて生まれたやつらのせいだと思っている。おしなべてそいつ等は無能で、その中にもちろん、私も入っている。

健さんが俯瞰する70年代は、それでも振り返れば闘争に始まり、思想に溢れ、最終的に金の力で物事を進めるお膳立ての叶った時代ではなかったか。そう簡単に集約する中に、様々な出来事があり、それがフラグメントとして発光して今を照らしている。一度平成という区切りでケリを付けたかに見えて、昭和が形作ったツケは今に回っている。

そのギリギリ、残滓のような私たちの世代は、校内暴力が敵に敗れて内向きにその矛先を向け、今のいじめが横溢する教室のサバイバルの礎を作った。そのせいで、むやみやたらにイデオロギーや思想よりも単純な力を望んで、もう暴力に怯えない毎日を手に入れたいとだけ望んでいる。それまでに綿々と築かれていた時代の架け橋を、めんどくさからの一言で次々に叩き壊し、結局荒れ野しか残さずさっさと逃げ出してしまった。そのツケは全部、今の若い人達に回しているのに、誰も反省も何もせずに、ただ他者に非難を浴びせることに汲々としている。

ここで自分の愚痴を言っても仕方がないけれど、いい機会だからコソっと、自分の世代に対する嫌悪感をステイトメントしておく。きっと、健さんも同じ様な思いでこの短編集をまとめたのではないか、とちょっと思っている。



セイブ・ザ・ランド 発行 1989年12月24日(日) 出版社 講談社
      セイブ・ザ・ランド 共著
備考

健さんにとっては重要な作品。現在に至るまでずっと響いている、健さんの価値観の通奏低音のような存在の作品。なのに、最近まで読んでなかった。正直言うと、ちょっと敬遠していたのだ。例えば、原発の問題とか、自民党のやり方とか、必ずしも健さんと同じ考え方の元にあるわけではない、というのがその原因。

様々な社会問題へアクセスする扉は、私の場合はいつも健さんが開いてくれる。その扉を潜って部屋の中に入って見回して、そこを通り過ぎたあとに、健さんが導き出した答えと同じ結末に至るとは限らない。もちろんその距離感を感じた時は、少し悲しい気分になる。でも、おそらく健さんも、それを望んではいないのだろう、それぞれの答えを出すことこそを望んでくれているはずだ、ということで落ち着いている。もちろん、健さんの価値観に対する尊敬が微塵も欠けることはないのだ。

これはiNovelRocks」に1999年版、と改良されて再録されている。先にその「Rocks」を手に入れてそのことを知って、やはり原典を先に読んでおかなければ、と慌てて手に入れて読んだのだ。そういう面倒くさい所が私にはあるので、健さん全制覇にも時間が掛かってしまう。

同時に、健さんのソロアルバムとして、同名のCDも出ている。これも結構苦労して手に入れた。実は小説よりも、健さんのCDを再発して欲しいと願うファンも多いのではないか、と思う。現在小説よりも、健さんのCDは入手困難を極めている。もし再発、となってもおそらくは配信という形をとるかも知れない。私はどうもその手のやり方が苦手なのだが、健さんがそうするなら何とかしてしまうだろう。

いずれにしろ、健さんは常に私の動機を演出してくれる、貴重な存在なのだ。



凍えた薔薇(甘い蜜) 発行(単行本) 1991年9月20日(金) 出版社 ミリオン出版
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1997年6月25日(水) 出版社 幻冬舎アウトロー文庫
共著
凍えた薔薇 甘い蜜 備考 文庫化の際に「甘い蜜」と改題

健さんが「スパンキング・ラブ」を書いた頃から、世の中はエロブームに沸き立っていて、その辺はスパンキング・ラブの解説を参考にしてもらうとして、男の読み物は老舗のエロ本もあったけど、時代を引っ張っていったのは「宝島」だった。同時に女性誌、「ノンノ」とか「アンアン」とかでも、セックス特集を組んだりしていたこと。これが平成の第一次エロブームの特徴(ちなみに第二次はインターネットブーム)。

それを象徴するように、官能誌以外に発表された官能小説を集めたのがこの短編集。エロ本とか大好きなのに女性器の名称を標準語でさらっと言うのに、私は抵抗があって、今は訳あって随分慣れたけど、当時は自分で口にするのも恥ずかしかった。奈乃で、官能小説とは言え、健さんの文章の中に出てくると、ドキッとさせられたのだ。ちなみに「ロックス」で女の子が自慰をしている、という場面があっただけで健さん不潔!、というのは大げさだとしても、アア大人の世界だ、という風に思ったのは事実。元々淫乱な女の子は嫌いではないけれど、恥じらいのある淫乱でないと萌えない、というのがなかなか当の女の子に理解されず、それはきっとアダルトビデオの影響かな、と思ったりする。いや、アダルト業界を私は死ぬ気で応援しているのだけど。

ただ、表現の限界を突破する先鞭に、いつもこういうセックスや、エロ・カルチャーを矢面に立たせるのは私はあまり好きではなく、純粋な欲望の表現としてもっと、普遍的であって欲しいと思う。見たい願望と同じ質と量で、見せたい願望があるという部分を、もっと普通に受け入れて欲しいモノだ、といつも思っている。表現の砦を死守するには、異端視されているアダルト業界を救う以外に方法はないとも思っている。



ジゴロたちの航海(ジゴロ) 発行(単行本) 1992年4月5日(日) 出版社 KKベストセラーズ
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1997年11月25日(火) 出版社 幻冬舎アウトロー文庫
共著
ジゴロたちの航海 ジゴロ 備考 文庫化の際に「ジゴロ」と改題

岐阜にいる頃はちょうどバブルの晩年で、弾けるのを見届けてからそこを離れた。当時バブルとはどういうモノかというと、私のような若輩者にもボーナスが年に三回出て、しかもカードやらなんやらで借金して遊べた時代なのだ。金余り、とか云ってもピンとこず、空前の好景気と言われても貧乏感は相変わらず横たわっていて、もっと金が欲しいとは思わなかったけれど、もっと楽しい日々が来ればいいという願望は強かった。

岐阜と香川では距離がある、というのもあって、年末以外に帰省することはあまりなく、それも岐阜にいてもすることがないので仕方なく帰る、という感じだった。この本が発売されたのが1992年のゴールデンウィーク前で、その時はいろいろと周囲と疎遠になっていた頃でもあり、なんとなく帰省したのだった。

香川に帰省しても、こっちでも特にすることはなく、ちょうど尾崎豊が亡くなった直後で、テレビはそればっかりだし、遊びに行こうにも足は無し。一緒に遊ぶ友人もいない。オマケに岐阜に行っている間に実家は引っ越しをしたので、地元感も無し。とにかく退屈を極めていた。

だから、行き帰りの電車の中、そして香川の今いる畳の部屋でとにかくこの本を読むことだけが唯一の楽しみだった。健さんの名前を見つければ片っ端から買っていた時代だったけど、その中で新聞に新刊が出るという予告が載って、狂喜乱舞したモノだ。近くの書店に注文して手に入れたはず。

ただ、その後、私はいろいろと後ろ足で砂をかけるような悪さをして岐阜を離れることになり、いろいろと複雑な思いを抱えていた時期に読んだので、表紙を見るとその頃のあまり浮き立たない感情が甦ってきてしまう。それは全く健さんのせいではないのに、申し訳ない結果にしてしまった。

文庫になってこれがアウトロー文庫の方に入って、そのイメージのギャップに多少戸惑う。男たちの栄枯盛衰の話のはずで、ジゴロとは銘打っているけれど、もっとすがすがしいモノが通底している話のはずなのに。いや、私の思い違いかな。

健さん自身、確かこの頃に会社を興して、というような実体験が重なっていて、読んでいるこちらもなんとなくそういう意識で読んだような。でも、健さんの作品は、主人公と美しい女性と、善き相棒が出てくるとグッと面白くなる。単純に私がそういう話が好きだ、というか憧れるからなのかも知れないけど。



スパンキング・ラヴ 発行(単行本) 1992年7月20日(月) 出版社 ミリオン出版
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1995年9月15日(金) 出版社 講談社文庫
共著
スパンキング・ラヴ スパンキング・ラヴ 備考

この作品が発表された頃、私の腰は脂がのっていてそれはもうかなり忙しなく動いていた。それに見合うお嬢さんと知り合い、アグレッシブな世界に踏み出す機会が増えたのが一番の理由。そんな自分に寄り添うように、世間はヘアヌード全盛、時代はエロスを求めて蠢きだしていた。あのカルチャーマガジン、バンドブームの牽引役だった宝島が、気がつくとヌードグラビア満載のエロ本に変貌していたし、活字媒体がネットに駆逐される直前のあだ花のように、新たな解放を求めていた時代だった。

その時流に健さんも参入、というより、かなり先鞭を付けた感じで、それがこの「スパンキング・ラブ」だった。掲載誌があの、裸のお嬢さんを吊ったり転がしたり外に出したりする老舗のS&Mスナイパーだった。そういう世界に興味がない、ワケではなかったけれど、ちゃんと買ったのはその頃が初めて。話には聞いていたけど、あの世界観は独特なものがあったなぁ。

健さんを初めとして、元々半分官能小説を書いていたような作家さんが、雪崩を打ってポルノの世界に参入してきて、この「スパンキング・ラブ」は映画にもなった。確か主演俳優は、筧利夫さんだった気がする。衛星放送で見たけど、かなり小説とは違っていて、なんだか想像していたのと違うな、って思った。

確かにそれまでの健さんの作品とは、かなり趣が違うようだけど、でも私はこっちの方がずっと好きだった。ロック小説、というような言い方をされて、親和性で言えば、ロックやモーターサイクルと、セックスは切っても切り離せない。そういう価値観を私に植え付けたのが元々健さんなんだから、例えば「クロアシカバーの悲劇」のような実験的なモノよりは、官能小説の方がずっとしっくりきた気がしたのね。



マシンの見る夢 発行 1992年9月25日(金) 出版社  講談社
      マシンの見る夢 共著
備考

文庫本はともかく、健さんの単行本の多くは、ごく最近になって手に入れたものが多い。つまり、最近になって初めて読んだ作品が多い、ってコトだ。全くそれでこんな健さんの著作を網羅することを目指しリストを作り上げようとしているのだから、畏れ多いこと甚だしいのだけど。

その中にあって、単行本として持っているモノの中で結構昔から持っていたのがこれ。それでも発売当時ではなく、やはり旧本屋で見つけたのだと思う。余談だけど、二十代前半の頃は、古本屋へはエロ本を買いに行くのが主な目的で、マンガ以外にあまり買った覚えがない。今はまったく逆で、マンガを見ることはあまりなくなった。エロ本なんてどこも置いてない。置いていても明るすぎて近づけない()

それはさておき、バイク小説の長編。健さんの小説には、あからさまにストーンズが出てくることはないけれど、なぜかバイク小説にはそこはかとなく、ストーンズが横たわっている気がする。初期にバイク小説が多いからかも知れない。その後健さんにとってのストーンズは当たり前になっていて、あまり表には出なくなってしまう。多少残念な気がするけれど。



ママ・アフリカ 発行 1993年1月30日(土) 出版社  角川書店
      ママ・アフリカ 共著
備考

健さんの初期作品に当たるアフリカもの、ジャマイカもの、は当時の事情により最近になるまで読む機会がなかった。単純に、ネットとかない時代だったので情報がなかった、というだけなのだけど、そういう意味ではネットで何でも手に入る時代というのは、やはり世界を変えたのだと思う。

これを読む前に水曜どうでしょうがアフリカに行っていて、全く世界観は違うけれど、映像がダブって見えていた。

それよりずっと後、鳥が言語的コミュニケーションをとっている、という実験結果を新聞か何かで読んだ。その時ふと、動物は言葉を持たないということを理由に下等などと云っているけれど、それより言葉でなくては意思の疎通ができない人間の方が実は下等なのではないか、というようなことを思った。言葉を越えた意思の疎通を獲得した動物たちの方がずっと進化をしているのかも知れない、なんてことを考えると、なんとなく宇宙の意志と交わし合うスピリチャルなもののイメージがクッキリと浮かび上がってくる気がする。

デジタルなものだってコマンド打たなきゃ、何も始まらないんだものね。



僕らは嵐の中で生まれた 第一部 初めての別れ 発行 1993年4月2日(金) 出版社  東京書籍
      僕らは嵐の中で生まれた 第一部 初めての別れ 共著
備考

健さんの自伝的小説。若い頃の健さんのエピソードは、すでにエッセイなどで多く語られていたのを、時系列順にまとめたという感じで、なんだか初めての小説を読んでいる、という気はしなかった。

私はこのホームページの別のところで拙い長い話を上げたりしているけれど、いつも迷うのが登場人物の名前。簡単なようで、名前一つで印象とかその後のストーリーまでもが変わっていくような気がするので、名前を付けずに話を始めることが多い。なるべくならそのままで生きたいけれど、どうしても出さないとわかりにくくなってしまう場合も多々ある。そういう時になってやっと、仕方なしに、名前を考えるのだ。一応、読んでいる人が登場人物に感情移入しやすいように、という言い訳を用意しているけれど、実は本当に名前を付けるのが苦手なのだ。

この作品の場合、健さん自身の名前を付けなくてはいけない。川口謙一郎となっている。健さんの自伝、と知らなければ、そのまますんなり受け入れるのだろうけれど、なるほどそう来たか、という感じで見てしまう。全く内容には関係の無い話ではあるのだけど、でもわりと、とっかかり、という意味で引っかかるような私のような者も居る、ということ。

ただし、何度も言うように内容とは関係ないので、面白さとは別の話だと入っておく。



ふつつかな愛人達 発行 1993年6月1日(火) 出版社  アルトマン出版
      ふつつかな愛人達 共著
備考

官能小説に手を染めて以降、健さんの中ではもしかして明確に線引きが為されているのかも知れないけれど、その辺の愛乃形、のようなモノの輪郭が曖昧になってきたような気がする。恋愛小説が一筋縄ではいかなくなったような感じで、それは別に健さんだけに限ったことではなく、多少誇張して言えば、世間がそんな不毛の時代に突入したのだ。

その谷底が援助交際の時代で、そこから一気にネットが生活に侵食し、愛の輪郭を曖昧にしたままそのものズバリの世界になし崩しに移行してしまう。そりゃ、誰もが恋愛に怖じ気づくというか、奥手にはなるわな、と思わないでもない。

個人的には、恋愛はセックスから始まる、あるいは交際の始まりは初めてセックスした日から、と思っているので、私の中ではもっとあからさまに恋愛=セックス、という図式が成り立ってしまっている。それはかなりトラブルの種を内包しているのはわかるけど、逆に、セックスに寛容になればこの世の中のトラブルの半分は解決するんじゃないか、とも思っている。

昔エレクラで、恋愛にもバックアップを、という曲を作ったけど、おそらくそれに最も抵抗するのは、男性の方では無いかと思う。その最右翼が、結構健さんの価値観だったりするのではないかと邪推してみたりとか。



JOY 発行 1993年6月10日(木) 出版社  近代文藝社
      JOY 共著
備考

短編集。岐阜時代に健さんの著作を集め出してから、常に探してはいるモノの、やはり波がある。まとめて手に入るだけをかき集めるようなタイミングが、今までに何度かあった。その一番最近のピークが、この際全部と意気込んで、一年かけてネットで集めた2013年のこと。その時は、かなり旧いモノにまで手を伸ばし、結構な出費を覚悟して揃えた。それでも全部というわけにはいかなかったけど。

別に健さんに限らず、例えばエレクラをやり始めた頃などは、全く他のバンドの曲とか聴く気にならず、CDを全く買わない日々が続いたり、そういう波が所々にある。健さんの著作を集める時期以外は、すなわち少し疎遠になっている時期でもあって、理由はいろいろあるけれど、簡単に言えば情報が届かなかったことが大きいのだ。

だからネットに繋ぐまで、知らない作品がたくさんあったのだ。それでもひとまとめに健さんの著作リストのようなモノで、完全なモノがあまりなく、なるべく多岐にわたって網羅できるようなリストを作ろう、というのがそもそもこういうページを立ち上げた趣旨だったってこと。

ちょっと話が逸れたけど、そうやってネットで集めると、届いてみてびっくり、ということもたまにある。例えばこの本には表紙の裏に、謹呈、と書かれた帯が挟んであった。おそらく関係者に配ったモノの一冊ではないかと推察するけれど、せっかくもらった本を旧本に出すなんて、と思ったのだ。全く内容には関係ない話だけど。



カナリア 発行(単行本) 1993年8月1日(日) 出版社 ミリオン出版
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1997年4月25日(金) 出版社 幻冬舎アウトロー文庫
共著
カナリア カナリア 備考

健さんの官能小説第二弾。昔不祥事で幽閉されていた頃、ある人にもうエロ本とか飽きたから、何かもっと他にエッチな小説とかない?と尋ねられ、私は村上龍を奨めた。ちなみにその頃、私は官能小説ばかり読んでいて、尋ねてきた人はそういうのを望んでいたかも知れない。でも、見たところ頭の良さそうな人だったので、エッチな場面以外でも面白いですから、と村上龍を選んだのだ。普通の人、つまりエロ目的でないならまず「69」から入るように進言するのだけど、それは置いておいて「コックサッカーブルース」とか奨めたのだった。

村上龍は普通にさらっとSMシーンを挟み込んで、そこに熱はない。思うに村上龍の場合は、嗜虐に傾いているのだと思う。支配する側に熱があっては、される側の悦びは半減する。一方で、健さんの場合は、羞恥に重きを置いている。どちらかというと支配される側に感情移入する。

支配する側も、支配される側も、その欲求を裏打ちしているのは快楽だ。変な言い方だけど、村上龍と健さんの作品を併読すると、両者の快楽の様が表裏一体に思えて面白い気がする。それは言い方を変えれば、責任を背負うか放棄するかの二者択一で、セクシャルな意味に限らず、人間の根本的な欲に繋がっているのだなと思う。

文庫本の表紙は、なんだか如何にも、っていう感じに仕上がっているけれど、単行本の方の表紙、そして挿絵は秀逸で、あまり好きな表現じゃないけど、ドエロ()。でも決して下品じゃないのが、健さんの文章にマッチしていて本当に官能的。いわゆる官能小説も、もうちょっと洗練してくれたらなぁ、とこういう作品を読むと思う。



カーズ 発行 1993年10月25日(月) 出版社  実業之日本社
      カーズ 共著
備考

車に纏わる短編集。こういう表現が正しいのかどうか、あまり車に詳しくない私にはわからないけれど、いわゆる旧車、と呼ばれるモノを一台ずつピックアップしてテーマにしている。これも読んだのはごく最近で、だからなのか、以前はバイクや車の名前が出てきても、イマイチピンとこなかったけれど、今なら直ぐにネットで調べて画像を見て確認できたりする。ついでに私はプラモデルも作っているので、ここに出てくるクルマをプラモで、とかカタログ的に見たりとか。

全く作品の趣旨からは外れるのだけど、作品の中にフランス詩人を大学時代に先行していた男が登場する。幾つかその一節を口走るのだけど、それを読んだのをきっかけに、私はボードレールやらリルケやら、詩集を読み始めた。というのも、毎年年間何十冊、という読書目標を立てていて、詩集だったら結構スルスル読めて冊数稼げるんじゃね?と単純に考えたからだ。

もちろんそういう不純な動機だから、読むだけ読んで、良く分からずに数だけこなし、という惨憺たる結果に終わった。表現とか、何か胸に来るモノを期待していたけれど、やはり何も残るものはなかった。それは全く、私の感受性の欠落によるモノに過ぎないのだけど、自分の不勉強さにも呆れたよ。



安息の地 発行(単行本) 1994年9月9日(金) 出版社 幻冬舎
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1997年12月25日(木) 出版社 幻冬舎文庫
共著
安息の地 安息の地 備考

実際に起こった事件を元に、入念な取材を経て書かれた長編小説。その頃の苦労は特に車に纏わるエッセイに書かれていて、あまりに長い取材期間を経たために金に困ってポルシェ911を手放した、という逸話が残る作品。

家庭内暴力を扱った作品としては、テイストが「さよならの挨拶を」に似ている。感じている疎外感は一緒でも、結末が似ているようで違う。その結末、最後に主人公は「すまない、許してくれ」と口走る。そのことについて、エレクラの初代ボーカリストと随分と議論になった。詳しくは覚えていないのだけど、今まで散々馬鹿にしてあからさまに牙を剥いてきた相手に、反撃されたとはいえ、なぜ断末魔に許しを請うたのか?それが人間の業なのか、そうではなくもっと別の意味があるのか、そんな事を話し合った気がする。

あまりおおっぴらに出来る話ではないが、隠しても仕方がないので言うと、一度不祥事を働いて長い長い裁判の途中、保釈という形で家に帰ってきた直後、なぜかこの本を読んだ。まぁ、主人公の父の裁判中の姿を読み返しておきたかった、という意図があったのだけど、なんだか逆に余計に攻められているように思えて情けなかったな。



窓の外を眺めながら、部屋のなかに座っている。 発行 1995年7月25日(火) 出版社  実業之日本社
      窓の外を眺めながら、部屋のなかに座っている。 共著
備考

このタイトルを見ると、少なくとも文章のリズムや言葉の選び方を、私が健さんから強く影響されているのがわかる()。アンソロジーで発表された作品を含む、短編集。最近手に入れたのだけど、そういうアンソロジーモノは全部揃えていたと思っていたのが、巻末の初出を見て一冊まだ持っていないモノがあったので、急いで手に入れた。私はコレクターではなく、喩えそうであっても、飾って眺めておく様なことはしない。小説なら読んでナンボ、CDなら聴いてナンボ、更にギターで弾いてナンボ、奈乃だ。だったら、これを読んだらもうイイじゃない、と思うかも知れないが、そこはそれ、やっぱり揃えておきたいでしょ()



多重人格の女神 発行 1995年8月1日(火) 出版社  ぶんか社
      多重人格の女神 共著
備考

これをポルノグラフィととるか、あるいは散文詩を含む詩集ととるか。ただ、美しい姿態は言葉を呼ぶんだよ。それが裸でも服を着ていても。「カーズ」がきっかけで詩集を数多く読むようになったけれど、それより以前にこれを読んだので、散文詩、という感覚はなくもうちょっと違うショートストーリーという感じで読んだ。昔、アーティストの歌詞を集めた詩集にインタビューを絡めたようなグラビア本が幾つかあったけど、そういう感じに捉えて読んだ。U2の「プロテスタント」というその手の本は、高校生の頃のバイブルだったなぁ。



欲望 発行 1995年10月11日(水) 出版社  ベネッセ
      欲望 共著
備考

健さんの作品の出てくる登場人物はほぼ例外なく外車に乗っている。若い頃はそういうものだと思っていたけれど、クルマにあまり興味を持っていなかったので憧れることはなかった。それよりはもっと、憧れや執着といった感情のメカニズムを知ることの方にドキドキした。

実際自分が免許を取って、最初に乗ったクルマはボロボロのミラ・パルコで以前妹が乗っていたモノと同じグレードだったけど、初めてハンドルを思うがままに操る、ということを覚えた。それでもクルマ自身に対する憧れは生まれず、どんな車でもイイから運転することの楽しさに執着した。すると外車なんてモノは遠い世界の話になってしまった。

登場人物が外車以外の車に乗る作品は、おそらく唯一「ここがロドスだ!ここで跳べ!」だけだと思う。しかし、外車に乗っていない健さんの作品の主人公、というモノに今度は違和感を覚えることになる。全くおかしなモノだと自分でも思う。

ミラ・パルコはその後、信号無視で突っ込んできた初心者マークによって、見事に運転席を中心にしてくの字に曲げられ、同時に私の骨盤にヒビを入れてそのまま廃車となった。かつぎ込まれた病院で私は、意識がもうろうとしたまま、一週間後にストーンズのライブがあるけれどいけるかどうか、何度も尋ねていたらしい。結局、大阪ドームには行けず、約一ヶ月、病院のベッドの上に吊られて過ごすことになった。



b.とその愛人 発行 1997年1月25日(土) 出版社  実業之日本社
      b.とその愛人 共著
備考

官能小説、特に「スパンキング・ラブ」を書いてから、健さんの描く女性像が変わってきたような気がする。少なくとも「ロックス」に出てくる、男に献身的な女性はもう、どこにも見当たらない、というのは言いすぎかも。ただ、なんとなくだけど、私の拙い表現で申し訳ないけれどゴージャスになったような感じ。見た目が派手だというわけではなく、もちろんそれもあるけれど、もっと自己主張が強いというのか、そんな感じが表に出てくる。

特に、金融をテーマにしている頃に至ると、それがそのまま欲望と直結しているので、時々どうしようもなくエロスを感じてしまう。そういう女性にホワイトニットを着せたりするので、健さんは侮れないのだ。

それをひっくるめてドカッと現世に引き戻されるのが、例の「ここがロドスだ!ここで跳べ!」で、清楚というよりは生活感に溢れた女性で軽自動車に乗っていたりする。地に足の付いた女性というか、結局そういう女性に男は頭が上がらないのだろうな、と思う。



アップル・ジャム 発行 1997年7月7日(月) 出版社  中央公論社
      アップル・ジャム 共著
備考

パソコンと呼ばれるモノから始まる様々な結節点や、あるいは思想なんかを、そのままサイバー・ワールドと言ってしまうのにはどうしても抵抗がある。かといって、こういう小説をパソコン小説、というとスゴく陳腐で申し訳ない。インターネットもそれを駆使するパソコンという筐体も、全ては道具なのだと割り切っていると、おかしなモノでその向こうにあるモノが世界そのもの様な感覚も湧いてくるから不思議だ。

発行年を見ると、1997年というのに驚く。まぁ、確かにその小説に出てくるように、DOS画面なんて今の若い人には全くチンプンカンプンだろうし、それだけサイバー空間がそのまま現実の世界と溶け合っているということなのかも知れない。私はパソコンというモノに触れるのが、ちょうどWindows98SEが出たばかりの頃で、インターネットは電話回線、外付けHDDSCSI接続だった()。友人から中古のパソコンを安く分けてもらったのだけど、買って直ぐにHDDを飛ばしてしまい大変な目に遭った。でもそのおかげで、コマンドプロンプトでOSの少し深い所に手が届くことを覚えて、結構無茶をやったモノだ。レジストリなんて訳もわからず弄ってみたりとか。

現代はそういうものが全く表に出てこないようになっている。それがセキュリティーというか、私のようなたった一つのコマンドでHDDを飛ばしてしまうような、そういうエラーを少なくすることには成功しているけれど、逆にブラックボックス化して、道具というよりはもっと軽いモノに成り下がっている気がする。

そういう意味で、インターネットも爆発的に広がる前夜、といった頃を舞台にしたこの作品は、もっと個人と世界が身近で、いわばネットやパソコンというモノの面白さを十二分に楽しめた時代だったはず。いかんせん、その時代を知らない世代には果たしてこのいかがわしさと、楽しさが伝わるかどうか。インターネットがいかがわしくなくなった頃から、世界はずっとつまらないままなのだ。



君たちは世界の新しい王様 僕らは嵐の中で生まれたII 発行 1997年11月4日(火) 出版社  東京書籍
      君たちは世界の新しい王様 僕らは嵐の中で生まれたII 共著
備考

自伝的小説の第二弾。第一弾のあとがきで、毎年刊行していきたい、と仰っていたけれど、実際は四年後となった。そして第三弾は、未だ世に出てはおらず(2016年時点)。高校も卒業していないのだ。

ただ、現実の体験やそれに伴う感情を、どんな形であれフィクスするというのは難しいモノだと思う。変な言い方だけど、自分の体験を文字にした途端に、忘却というベールを伴ってその経験は色褪せていくような気がするのだ。どれほど面白い体験をしていても、それがどれほど人生の中で重要な意味を持っていても、その運命からは逃れられない気がする。それは、表現者として重要なインスピレーションになるけれど、難しい所である。

なんて偉そうに話しているけど、あくまでもそれは私のような才能のない者が考える、ゲスの勘ぐりでしかなワケで、実際はそんな領域軽く飛び越えているのが健さんをはじめとする第一線の作家さんなのだろうと思う。



ヴァーチャル・エクスタシー 発行 1998年3月15日(日) 出版社  幻冬舎
      ヴァーチャル・エクスタシー 共著
備考

仮想現実がセックスにまで波及する、というお話。DNAというモノを、単純に複製回路と見るか、あるいはフローチャートのようなモノとみるかで、生命に関するものの見方が変わるのではないか、と個人的に思っていて、新しい発見や発明なんかは、すでに生命のプログラムの中に組み込まれていて、ある日オセロみたいにくるっと表裏がひっくり返って、それが発想になるんじゃないか、と思っている。フローチャートとみれば、そこに至る筋道を、丁寧に辿っていく感覚。

結局人の営みのほとんどが、デジタルの世界に飲み込まれていくのが未来の姿なのかも知れないけれど、ではその自由な世界に取り込まれるのを是とするか、アナログな生身に拘るかによっても未来は変わる。戦争だって、なんかゲームみたいに、国連安保会議の席上、戦力とか人員とか財政とかいう条件設定をして、カラカラカラとコンピューターにかけたら結果が直ぐ出て、ハイそっちが負け、ってなると、誰も死ななくて済むのかも知れない。果たしてそれは、ボタン戦争の時代より進んでいるのか?後退しているのか?

それはさておき、ネットはエロが牽引した、というのは男の誰もが信じているフォークロアで、確かに90年代から20世紀に移る辺りは、一度はKDDに料金を支払って一人前、みたいな所がありました()。今はネットにもそういうドキドキワクワクする感覚が無くなって久しい。それもまた、良いことなのか悪いことなのか、そう考えること自体アナログな感覚なのか?



ニュースキャスター 発行(単行本) 2001年1月10日(水) 出版社 幻冬舎
単行本 文庫本 発行(文庫本) 2002年2月25日(月) 出版社 幻冬舎文庫
共著
ニュースキャスター ニュースキャスター 備考

少し前に、BSのクルマ遍歴を紹介する番組で久米宏さんがゲストで出ていた。そこでこの小説が話題に上っていて、久米さん本人が、これ私が主人公のモデルなんですよ、と仰っていた。その通り、わかりやすいと言えばわかりやすいし、健さん自身もハッキリとは明言していないけれど、匂わすぐらいには言及していた。当時久米さんが乗っていたクルマを知っているのは、作者にお会いしたことはないのになぜだ?という風に笑っていた。

私は当時満濃にある木工の会社に勤めていて、帰りに時々寄る土器川沿いの大きなスーパーの中にある書店で、この本が平積みになっていたのを見て直ぐに買った。なんだか長く、健さんの本には逢ってなかった気がして、ものすごく嬉しかったのだ。長編だけど、あっという間に読み終えたんだった。



ジーンリッチの復讐 発行 2001年9月10日(月) 出版社  メディアファクトリー
      ジーンリッチの復讐 共著
備考

久しぶりのSF風味の長編小説。遺伝子、そして最新宇宙の理論がちりばめられていて、そういうのが大好きな私は夢中で読んだ。ちょうど職場の専務と喧嘩して仕事を辞めた後、失業保険をもらいながら職業訓練校に通っていた時期で、通学のJRの中で読み進めていた。

健さん自身を、元々かなり不純な動機で読み始めたのと一緒で、遺伝子に纏わる話も、宇宙理論も全部、女の子を口説くために勉強する。例えばこの時期、その訓練校の同じ教室にいるお嬢さんに、世界はたった四つの力しかないんやで、という風に言って、ポカンとさせたりしていた。そのおかげ、ではないけれど、私はその学校でCAD級の資格と、新しい職場と、そして何年かぶりに彼女を手に入れたのだった。

この本を読んだあとに直ぐ、何冊か宇宙理論の本を手にしたのだけど、結局読み終わらないうちに私の人生でかつてないほどの多忙な時間がやってきて、彼女もろともそのまままとめて捨ててしまったのだった。惜しいコトしたなぁ。



歓喜の歌 発行(単行本) 2003年3月30日(日) 出版社 幻冬舎
単行本 文庫本 発行(文庫本) 2004年9月30日(木) 出版社 幻冬舎文庫
共著
歓喜の歌 歓喜の歌 備考

おおっぴらに云うことでもないのだけど、私が不祥事を働いて約一年間幽閉されていた間、生活はサバイバルそのものだったけれど、それ以外に考えることもなく、結構シンプルに自分の底、みたいなものを見つめ直していた。その直前、いろいろあって自分の中の不必要なモノを、ほとんど捨ててしまった。捨てなかったのはCDと、ギターと、パソコンと、一部の本だけ。健さんと村上龍と銀河英雄伝説を残して、あとはマンガから雑誌まで何もかも捨ててしまったのだ。パソコンも、本体以外は旧くなったモノは買い換えて、音楽機材も結構売ったり新しいモノに交換したりした。

そのおかげで、今自分の中に置き去りにしてはいけないいくつかのモノがあることを知り、それは中途半端に寄り添うだけではいけないな、と思ったのだった。その手始めに、先ずは健さんの本、と思って買った最初の本。その前の数年間、本を読むのもままならないほど忙しく、塀の中で結構読んだけれど、それでは満足できなかったのだ。

その一方で、その直前健さんに会う機会があって、最も身近に健さんを感じていた頃でもあった。その思いを含めて、自分の不始末で全部を汚してしまった、という思いにうちひしがれて、ひたすらもがいていた。やってしまったことは仕方がないけれど、それによって今までに大切にしてきたあらゆるモノを、自らで傷を付けてしまったという感覚は耐えがたいモノがあり、それに救いを求めることすら罪悪に感じていたのだ。

しかし、泣き言ばかり言っていても先には進めない。なんとか、立ち直るきっかけがないか、と健さんに手紙を書こう、というようなことを考えていた。しかし、何度も書いては消し、書いては消し、して結局は出せなかった。それからしばらく空白の時間が訪れるのだけど、その代わりというのもなんだけど、とにかく健さんの作品は全て読もう、と決意もしたのだ。

発表された当時は、ブログが登場する直前で、ホームページと掲示板が主流だった。もちろん、頻繁にチェックしていたし、時々掲示板に書き込みなんかもしていた。それがその幽閉から帰ってくると、完全にブログに移行していて面食らったモノだ。その後私も本格的にブログをやるようになって、それが少しずつ、私の中に新しい芽を育てていく。ネットの好い所は誰もが平等に、同じ情報に手が届くこと。それまで新刊情報なんて、地方都市にはなかなか届かなかったけれど、どこにいても直ぐに知ることができる。それなのに、数年後になってやっと手に入れるのは、幾らか慢心があったのかな、なんて思う。



黒革と金の鈴 発行 2003年7月29日(火) 出版社  メディアパル
      黒革と金の鈴 共著
備考

これと「歓喜の歌」は発売されるのをホームページで知って、という流れは一緒なんだけど、なぜか先にこれだけ買って、読まずに、というか読めずにずっと置いておいた。不祥事直後はとにかく時間だけは腐るほどあったので、檻の中で読んだのだった。時系列は間違っているかも知れないけど、金融に視点が移る「歓喜の歌」以降と、その前の官能を引きずったネットを舞台にしたモノ、との端境期の作品じゃないのかな。

ホームページやブログなどで、新しいネットの活用を模索している時代で、メルマガとか、いろいろと健さんは多種多様な使い方をやっていた。正直言って、健さんに限らず、その一連のサービス全部には付いていけず、一度立ち止まるとたちどころに置いて行かれてしまう時代だった。それがちょうど、土日も休まず働いてた時期と重なって、プライベートなパソコンって結局メールぐらいしか使わなかったような毎日を送っていたので、あっという間に健さんの情報発信からも取り残されて行ってしまう。

せっかく新刊情報とか、近況とか入手しやすくなったのに、全く活用できないまま、時間が過ぎていった。今となっては、何やってたんだろ?っていうほど、無駄な時間になってしまったけれど、その経験があるから今は、適度な距離というモノが計れるようになった気がする。前にブログで話したけれど、アウトプットばかりで干涸らびてしまった、と思っていた時間が、実は経験として自分の中にインプットされていた、というようなね、今になってやっとリカバリーできるようになったというか。そういう事情も含めて、最も健さんと疎遠になりかけていた頃に発売された作品。



夜の果物、金の菓子 発行 2006年3月27日(月) 出版社  幻冬舎
      夜の果物、金の菓子 共著
備考

世の中はバブル後の後始末がなかなか進まず、全ての話題が経済に纏わることばかり。その中に登場した何人かの起業家が、ある者はバッシングされ、ある者は矢面に立たされ、と出る杭は打たれる日本の風習に翻弄されておりました。

その中のある事件をモチーフにした作品。これも不祥事から帰ってきてから直ぐに読んだ本で、今見るとなんか裏表紙に変なシールが貼ってある。留置場で読んだ記憶はないんだけど、読もうと思って入れるだけ入れたのだっけ?記憶は曖昧だけど、そういう殺伐とした気分が残ったまま読んでいたので、なんだか素直に読めないというか。特に金融のことになるとその頃はからっきしダメだったし、例のバッシングとか事件とか、蚊帳の外、と思っていたのでピンとこなかったんだな。捕まった人にはシンパシーを感じていたけど、同じ境遇として(笑)。



ここがロドスだ、ここで跳べ! 発行 2010年6月24日(木) 出版社  アメーバブックス
      ここがロドスだ、ここで跳べ! 共著
備考

新聞連載の小説。残念ながら私の地元の新聞では掲載されなかったので、書籍化されてやっと読むことが出来た。その頃はブログで横並びに繋がることが出来る時代になっていて、私のエレクラ・ブログも、健さんの話で繋がる方も何人かいて、さらにはこの感想文などをアップしたりしたのだ。それが健さんに伝わり、ブログで紹介してもらい、かなり舞い上がった()。その時の感想文はこちら。今ブログを読み返してみるとエラそうなコトを書いているモノだ。

まぁ、読んでもらうようにはしたのだけど、ありがとう、程度で終わると思っていた。ただ、文体が独特で、と言ってもらったのに、私はいたく感激し、それこそが一番の褒め言葉だな、と思って今でも変わらない語り口で、ブログ他、語っております。



人生の約束 発行 2015年11月25日(水) 出版社  幻冬舎文庫
      人生の約束 共著
備考

事実上書籍としては今のところ(2016年時点)最新の文庫本。同名の映画のノベライズ。映画は見てない。でも、久しぶりに健さんの本を書店で探す、という体験は私をウキウキさせた。いつも行く多度津の宮脇書店は、本なら何でも揃う(注文すればね)というキャッチフレーズのわりに、在庫にも限界があり、店舗によって偏りが酷い。なのに、ちゃんと新刊のコーナーに平積みで置いてあるのを見て、アアこの感動は何年ぶりだろう、なんて思ったよ。

健さんの作品にはずっと長い間付き合い続けているからかも知れないけれど、何を読んでもどんな作品でも躓くことが少ない。時々意味を理解しようと頭を捻ったり、戦争物とか古典モノだと漢字の読みや意味を調べるために度々中断する。あるいは文体そのものにどうしても違和感を感じて直ぐ眠くなるとか。健さんに関してはそれが極めて少なく、だから、かなり外れのない安全パイのような感じで読んでしまう。

それがいいことか悪いことかわからないけど、例えばこの作品のように映画のノベライズも、映画に執着があれば別だけど、作品単体として楽しめるかどうかは、健さんだからこそ、という要素が不可欠だったような気がする。健さんが描く人物像、舞台の情景などが、ちゃんと健さん節になっているので、ノベライズであることを忘れられた。メディアミックスの時代に逆行するようだけど、やっぱり表現ってものはそうでないと、なんてエラそうに思ったのでした。