小説


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鏡の中のガラスの船 発行(単行本) 1981年3月20日(金) 出版社 講談社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1987年3月15日(日) 出版社 講談社文庫
共著
鏡の中のガラスの船 鏡の中のガラスの船 備考

健さんの輝けるデビュー作。スゴくドキドキしながら読んだ記憶があるのだけど、今となってはストーリーが良く思い出せない。「天使が浮かんでいた」はその後何度も収録されるので、繰り返し読んだけど、これとか水晶の夜とかは、一度読んだきり。

というのも、現時点でまだ未読のiNovel版作品集に収録されているので、それを読むまで控えているのもある。こういうリストを作るんだから読み返せよ、と思うだろうけど、アップデートを念頭に置いて、今現時点での感想を記しているので、そこら辺は正直に。

(単行本再読)

文庫版解説によると「湖に墜ちた流星」の方は、大きく手を入れているらしい。そして、文庫版で群像掲載時の形に戻した、とのこと。最後の方を少し見比べてみただけだけど、なんとなくあっさりと(?)やり過ごしていった感じになっている。

あとがきでも触れられているように、健さんにとってもすでにノスタルジーの中に放り込まれていた闘争の時代を描いた作品で、デビュー作という先入観も有り、幾らか失礼な物言いに聞こえるかも知れないけれど、若いなぁ、と思ってしまった。若い=拙い、とか青臭い、とかいうのではなく、若さゆえの物言いというか、考え方思考の流れ、みたいなモノを感じたのだ。

私がこの文庫本を初めて読んだのは、おそらく二十歳そこそこの頃で、世はまさにバブルの末期で時代そのものが唸りを上げていたような熱を帯びていた。その直中にいた自分達にその実感は全くなかったのだけど、それでも日本は空前の金回りの良さに沸き立っていたのだ。そのバブルを牽引していた世代がまさしく、闘争の時代をくぐり抜けて社会の中心に躍り出てきた人達だった。その筆頭が、例の「島耕作」なのか()

バブルはまるで悪、というような風潮が今はあるけれど、それも振り返って思うことで、それはきっとこの健さんのデビュー作を読んで、私が感じる若さと同じ感覚なんではないかと思う。私の中にも、この若さというモノが横たわっていて、だからこそある種の既視感を持って思い返すわけで、それは二十歳の頃この本の文庫本を読んだ、事によって植え付けられたモノに違いない。そうやって世代の意志のようなモノは、積み重なっていくのだろう。

高校生の頃、面白半分で生徒会活動をやっていて、文化祭のために夏休みに合宿をした時のこと。生徒会顧問(?)はまだ若い先生で、おそらく健さんと同世代だったんだろうと思う。皆冗談半分で結成されたような集まりだったので、合宿の最中に女風呂を覗きに行ったり、そんな事ばっかりやっていた。まとまりもなく、ただ、当たり障りのない仕事をこなすだけで、時間が過ぎ去っていけばいい、というようなそんな感覚だった。

合宿が終わって、私は迎えに来る親を待っていて、その時花壇の端っこに並んで坐ったその若い先生が、ぼそっと言ったのだった。

「昔はこの学校も、バリケードやらなんやらで先陣切って激しくやりやっていた時代があったんだけどなぁ」

その先生から見れば、私たちの無気力無関心が目に余ったのだろう。私はへぇ、としか応えなかったけれど、その頃、別に私たちに真剣味が無かったわけではないと思う。私たちなりに、胸を締めつけられるような何かを抱え、戦い、サバイバルしていた気がする。ただそれは、学校の中では発現しなかっただけで、もうその頃、学校は思春期が向き合う発露としての場とは違う何か、に変質していた気がする。

ただ、私もその後、その先生が感じた無力感のようなモノと似たようなモノを感じて、学校を辞めてしまう。ただ、私はもうお腹いっぱいになった気がしただけで、学校で学ぶべき何物も見いだせなかったのだ。それよりは、自分を取り巻く現実が、どうしようもなく切実だったのだ。しかし、それを若い私は他人に上手く説明することが出来ず、言い訳や目標を無理矢理考え出さなければならなかった。それが間違いだったと言えば、間違いだったと、今になって思う。

単行本は、最近旧本で手に入れたのだけど、そこに小冊子、というか頁ぐらいに印刷されたインタビューが挟まれてあった。おそらく、新刊の時の特典だったのだろう。おお、これは結構レアかも、と思って、今回いざ読み始めると、ちゃっかり中頁がごっそり抜けていた。残念、その間に挟まったA4用紙一枚が私の手に届く前にどっか行っちゃってたのだ。それはいつか、どこかで出会うことをまた楽しみにするとして、しかし、読める部分だけ読むと、貴重な健さんの言葉だな、と思う。

 



壜の中のメッセージ 発行(単行本) 1981年3月10日(火) 出版社 角川書店
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1985年3月10日(日) 出版社 角川文庫
共著
壜の中のメッセージ 壜の中のメッセージ 備考

これがまさしく、私の初めて手にした山川健一。高校生の時。その頃は、タイトル買いが主で、これもポリスの曲がタイトルに着けられていたから買ったのだと思う。その頃の本の読み方は、どれだけ主人公に自分を投影できるか、が一番の目的で、別に等身大の自分でなくても、かっこよく恋愛できたり、バンドで注目を浴びたり、そういう世界を夢見ることが一番の楽しみだった。その中で、この本の登場人物達はみんな、かっこよいというか、ものすごくスタイリッシュに見えた。田舎者の何やっても上手くいかなくて、はったりだけで強がっていた当時の私が最も欲しがっていたものがその、スタイリッシュさだった。だから、文学とか全然わからなかったけれど、そのかっこよさだけで惹かれたんだと思う。

ここに登場する主人公と友人をイメージする時、その頃悪さを教えてくれた二人組の先輩がいて、その姿が重なっていた。自分を投影するはずが、そういう俯瞰する目で読んでいたのは、まだ当時童貞を捨てたばかりだったからかなぁ?スポーツみたいなセックス、なんて全く実感がなかったし、その一方で例の先輩達はしょっちゅう女の子に悪さばかりしていたからなぁ。

(単行本再読)

見城徹さんのネットテレビに健さんがゲストに呼ばれた時、この本が本当に一番最初に出た自分の本だった、という話をしていた。あとがきに、当たり前の話だけど見城さんの名前がちゃっかり載っていて、歴史の深さというか長さというか、そういうのを感じたな。

この本を再読する前、ふと、この本を初めて読んだ頃、なぜあんなに孤独を感じていたんだろうか、ということを考えていた。ただ、孤独というよりは、周囲との違和感というか、当たり前で無い自分というか、そういうことが現実とか周りの特に友人たちの間とのギャップ、みたいなことに苛まれていたような気がする。そういうことをいうと、もし当時を知っている人がいたら、まさか、と思うに違いない。別に覆い隠していたわけでは無いけれど、自分でも自覚という意味でよくわからなかったのだ。それをあとで、あれは孤独を感じる、ということなんだろうな、と自分で思ったわけ。

そういうズレみたいなものが、いつも私の衝動に繋がっていて、この本に出会ったのもおそらくその結果だと思う。つまり、衝動はそのままインスピレーションでもあったわけ。

では今は孤独じゃ無いのか、と云われると、当時よりはずっと一人ではあるけれど、孤独は感じない。それは意識的に一人であるからで、望んだ結果の孤独なのだから、それをネガティブには捕らえていないということ。大人になるということは、欲望を正確に把握することであるのなら、私は立派に大人だろうけれど、それをコントロールできるかどうかは単純に資質の問題だと思う。旺盛な欲望は、それが満たされないことで孤独を呼び起こすのかもしれない、と今はなんとなく思う。

そしてその満たされない欲望塗れだったティーンズの頃に、出会ったこの本に描かれた世界に憧れるのは、当然なんだろうな、と思う。そしてそれは、今でも普遍的に、憧れる世界であるのだろうと、私は思う。



さよならの挨拶を 発行(単行本) 1981年11月20日(金) 出版社 中央公論社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1989年1月20日(金) 出版社 角川文庫
共著
さよならの挨拶を さよならの挨拶を 備考

健さんの著作で何が一番好き?と聞かれたら迷わずこれを挙げる。元々読書というものに縁の遠かった私が、何度か読み返した小説というのは幾つかしかないのだけど、「愛と幻想のファシズム」「希望の国のエクソダス」「銀河英雄伝説」、そしてこの「さよならの挨拶を」だ。読み返した回数から言えばダントツで、何度も何度も読み返したのはこの作品以外あまり見当たらない。

この本を読んでから、女の子に「山川健一っていう作家が好きなんだよね」って言いたい、と思って手当たり次第に健さんの著作を漁るようになる。そういう風に言うと、アアこの人頭がいいんだ、というような印象を持たれるのではないか、というゲスな下心から始まっているだけで、あまり褒められた動機ではないから読み比べてこの人、という感じではないのだけど、この「さよならの挨拶」との距離感というか、面白さを計る基準のような、そういうものを手に入れたような気がしたのだ。

でも、この本を読み返す、あるいは読みたくなるという時は、まさしくの作品に流れているアイソレートした感覚に寄り添いたい時で、あまりアッパーな時ではない。決まってうちひしがれている時に、不図手に取ってしまう、という時が多かった。そして、この作品の結末が暗示しているように、だいたいあまり気持ちのいい解決はしなかった。特に読んだのが二十代前半だったので、今となっては周囲に迷惑を掛けっぱなしの日々を送ることになったのだ。

だから、ものすごく好きな作品であるのだけど、逆に「さよならの挨拶を」から脱却するのを目標に生きてきた所もある。あの破滅的な結末を迎えないために、読みたいけど読まない、という我慢を何度かした。そういう意味では、私の人生の中に深く横たわっている作品なのだ。

ただひとつだけ、これもまた、この作品だけの特徴だけど、唯一どうしてもいただけない部分がある。それが猫殺しの場面だ。とても重要な場面だし、作品の中でなくてはならないエピソードではあるけれど、猫を殺す、というのだけがどうしても受け入れがたかったのだ。それ以外はほぼ完璧に隅から隅まで心に深く突き刺さる作品で、私の中で孤高の存在として未だにあり続けている。

(単行本再読)

初めて読んだのがたぶん二十歳の頃、そして今五十の大台を目前に再読した。その三十年の間に、何度か読み返している。読み返しては・・・、コレは私にとって鬼門だからなぁ。ただ、間違いなくもう一度は読むはずで、その時はもう五十歳は超えている。

今コレを読み返さなくてはいけない理由は、今までとは全く違って、本当に平和なモノだ。だけど、今までのように、そっちの気分に引っ張られるんじゃないか、という不安は常に持っていた。常に、というほどの時間はかからず、読み始めたらあっという間に読んでしまった。それはおそらく、もう何度も読み返しているからだ。

今回、幾らか平和的な目的で、そして大変落ち着いた笑顔の多い毎日の中で読み始めた私は、例えば、姉の敏子は山本美月さんでその上の陽子さんは松下奈緒さんだな、とか、偶々テレビで見かけた顔を当てはめたりしたのだけど、やっぱり、何度読み返しても、同じ様な空気の中に包まれる。そして、コレはちゃんと言っておかないといけないのだけど、私はどうしようもなくその空気に惹かれるのだ。そういって良ければ、そこにしがみついて離れられないのだ。

何度読み返しても、同じ感情が湧いてきて、そして最後の数ページはもう半分記憶しているほどで、でもやはり同じ様な感情に突き落とされて読む。何度読んでも新鮮味は失われない。猫のシーンはやっぱり目を背けたくなるし、「嘘つき」のシーンでは、主人公との落差というか格差というか、共感を常に続けていたはずなのに、そこで距離が出来る。そして、近づこうと加速していく内に一体となってしまう、そういう経験を、今回また味わった。それはまるで、ジェットコースターとかのアトラクションのよう。

更に、今まで読み返した時の状況、感情まで重なって襲いかかってくるのだから、ジェットコースターというよりはお化け屋敷なのか?

私の中でこの作品が健さんの最高峰であるけれど、屹立して独特なのは、濃密な心理描写を、何度も何度もこれでもかというぐらい重ねていくところにある。今はそれが薄れているわけではないけれど、初期の頃は過剰なまでに、心理に落ちていく傾向がある。

おそらくそれが、私を惹きつけて止まない仕掛けなんだと思う。その仕掛けに嵌まってしまって、常に色んなことを考える。共感したり、距離を感じたり。そこに明確な説明がないから余計に、自分のところに引っ張り込んでしまうのだ。

雰囲気や道具立ては後の「安息の地」によく似ているけれど、絶対的に違うのは、その心理描写の過剰さ加減だ。まだ「安息の地」には誰もがわかる、腑に落ちる部分で構成されている。しかしこの作品の孤独さ、他人との距離は、実体験に基づかなければ理解し得ないようなところがある。万人誰もが抱えているようで、それをギリギリまで体感した人ほど、罠にはまるような()、そんな感じがする。

ただ、今回初めて知って驚いたのは、この作品が本当は、前半(I)だけで終わるはずだった、ということだ。あとがきでも触れているように、どうしても、という感じで引っ張られて(II)を書き上げた。私はずっと、この一連の話は、太い一本の坂道のように感じていたのが、途中に踊り場が一カ所あったとは。

いずれにしろ、コレは私の経験の原点だと思う。自分の中に蟠っていたいくつもの感情を、言葉にしてくれた最初に出会った作品で、その感情は、驚くべきことに三十年経っても、未だ隠し持っているのだ()。それは、常にネガティブな方へと解放されるわけではない、とやっとこの歳になって知ることになるのだけど、でも自分にこういう部分がある、というだけで、なぜか私は自分を誇らしく思うのだ。或いは、思えるようになったのだ。



窓にのこった風 発行(単行本) 1982年6月10日(木) 出版社 中央公論社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1989年6月10日(土) 出版社 角川文庫
共著
窓にのこった風 窓にのこった風 備考

「さよならの挨拶を」やこの作品、その他講談社文庫の最初の方は、ほぼ名古屋の栄にあったパルコの中の書店で買った。今もあるのかどうかわからないけれど、テレビ塔の辺りからずっと下っていくと、ちょうど大通りの切れた辺りにあってとりあえず、そこが買い物の締め、みたいな感じで、CDショップとか書店とか見て回っていた。そこで山川健一の棚、もちろん文庫だけど()、を覗いては持っていない本があったらごそっと買っていたのを覚えている。

当時住んでいたのは会社が社宅として借りていたボロボロの日本家屋で、狭く旧い部屋に布団を敷いて、ごろんと寝転がって本を読むのが常だった。ただ当時は、ビールを一日リッター単位で飲んでいたので、本を読むと直ぐに眠くなってなかなか先に進まないのが常だった。

順番はどちらが先だった覚えていないのだけど、「さよならの挨拶を」をスイスイ読み終えたのと対照的に、なんだかこれは難解に思えて読み終えるのに苦労した。今読み返すとそうでもないのかも知れないけれど、とにかく良く分からなかった、という印象だけが残っている。

 

(単行本再読)

上記のように、最初文庫で読んだ時は、なんだかよくわからなかった、という印象だけが残ってストーリーやらなんやらはすっかり忘れていた。それからほぼ三十年たって再読すれば、違った印象が残るんだろうか、ということを思いながらずっと読んでいた。

結論から言えば、わからないことはないし、普通に面白いじゃん、と思った。代わりに、なぜあの頃ピンとこなかったんだろうか?ということばかりが気になった。多少観念的なシーンが先行して、若く拙かった自分にはもっとあからさまなモノが欲しかったのかな、というのはわからないでもないけれど、それにしても、と。

思い当たるとすれば、やはり「さよならの挨拶を」の印象が強すぎたというのが、最も納得のいく結論かな。同じ頃に読んで、その強い輝きに覆い隠されたのかな、と思う。

更に言うなら、覚えていない、といいながら案外人間関係の距離感とか、点と線の話とか、影響受けているじゃない。それにやっぱり、文庫本で読んだ当時の部屋の感じを思い出すんだな。最近よく頭に浮かぶんだけど、佐野元春の歌詞に「すべてのなぜにいつでも答えを求めていたあの頃」というフレーズがあって、私にとっては二十歳前半がそうだったのかなと思う。ただ、哲学的になれなかったのは、ある程度感覚でパパッと答えを押しつけて、深く思索することがなかったのが致命的で、でも、それがその頃は私には必要だったのだ。なぜなら、答えを持っている方が女の子にモテたからだ()。「コレ」はね「アレ」だよ、と云ってしまえば、その頃私の周りにいた女の子は、私を羨望の眼差しで見てくれたのだ。でも、やはり印象に残っているのは、その「答え」に目を輝かせながらも反論していた人達だけだな。あんまりいなかったけどね。



サンタのいる空 発行(単行本) 1983年7月15日(金) 出版社 中央公論社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1990年11月10日(土) 出版社 角川文庫
共著
サンタのいる空 サンタのいる空 備考

短編集。最後に納められている「鋼のように、ガラスのように」は特に印象に残っている。今回ちょっと読み返して、当時は他に片岡義男さんの作品をよく読んでいたな、となぜか思い出した。角川文庫の赤い背表紙のシリーズで、それは高校生の頃から読んでいた。当時流行った軽めのビールみたいに、スルスル読めたのがその理由。

それの延長で、彼が翻訳したビートルズの訳詩集を持っていた。訳詩集は持っていたけど、ビートルズはちゃんと聴いたことがなく、ラジオでエアチェックしていたヒット曲を幾つか知っている、っていう程度だった。

それでもジョン・レノンが悲劇の死を遂げた、というのは幾らかロックをかじった者には、それが重要なニュースであることは理解していた。しかし、やはり実感というモノとはほど遠かった。ビートルズはもはや私の中では過去の人扱いだったのだ。

「鋼のように、ガラスのように」はそのジョンの悲劇を重要なアイテムに用いた作品。読んだのがもう十年近くの月日が経ってからだったので、忘れた頃に急に顔を出した、という感じで印象に残っていたのだ。でも逆に、この作品を読んだから、ジョンの悲劇を忘れない、というような感情が私の中に刻まれる結果にもなった。

ただ、さすがにもう二十年前のこと。てっきりジョンを扱った作品は表題作だと思っていて、アアサンタのいる空、ちょうどその頃だよな、なんて覚えていたのだ。SIONの「冬の街は」という曲の中に、「12月、街はクリスマス気分、あちこちから思い出したようにジョンの声」というフレーズもある。そしてそういう印象だけで、後日、エレクラで曲まで作ってしまうのだ()

つまり、ジョンの悲劇とこの短編集はセットになっていて、未だに12月になると、「鋼のように、ガラスのように」の主人公の女性と共に思い出すのだ。

(単行本再読)

この単行本を読む前、ちょうど「今日もロック・ステディ」を読んで、ジョン・レノンの話題が比較的多く出て来たので、次に読むのはこの本に決めた。現時点で(20183)徐々に健さんの著作で手に入るものは大方購入できている。あとは読むだけ()

かように再読しても、心に残るのは「鋼のように、ガラスのように」。今になって俯瞰して読むと、「天使が浮かんでいた」と共通する実在の人物の死を扱った作品、となる。似た匂いも感じるし、正反対のようにも思える。作品全体が、ある種の狂気に包まれているけれど、この作品の場合は、もどかしい距離感とでもいうべき、壁のようなモノを感じるのだ。それは、ジョンに関する健さんの思いを、他のエッセイなどで読み終えたあとだからそう思うのかもしれない。最初に読んだ時のように、単純に狂気に寄り添い、悲劇にシンパシーを感じるのとはまた別の感慨が胸に残った。

ちょうど、この本を読み終える朝、アメリカの銃規制の問題を取り扱ったニュース番組を見ていて、その中で若い女性が「大人に出来なかったことをわたしたちがやり遂げるのよ」と言っていたのが印象的だった。今の(2018)アメリカはトランプ大統領という存在が、アメリカ社会の暗部を浮き彫りにし、また彼に対してだからこそあからさまにNOが言える、という奇妙な状態にある。そういう意味で、ジョンという存在も、尊敬があるからこそ悲劇を欲する、或いは憎悪の対象になる、というようなことがあるのかもしれない。多面的な価値観が多様性という名でポピュラーになってきた今だからこそ、単純には物事は計れないのだ。

そういう意味では、小説が持つ時代性、というか、例えばディティールの存在がどこまで有用なのかというようなことを、ぼんやりと考えながら読んでいた。昔、太宰治の富嶽百景の朗読会を聴きに行った時、兵児帯、という響きが、文字ではイメージできるのに、音ではなかなか伝わらない、というのを感じた。そして、イヤ待て、そもそも兵児帯ってどんなものなんだ?と気がついて苦笑した。ウルトラマンに出てくる最新の装備を調えた司令室にも、黒電話があるのと同じことだ。もう今の若い人はあれがなにかわからない、或いは逆に新しいと感じるのかもしれない。

それはさておき、やはりディティールの奥にあるものが、不偏であったり、今は忘れ去られた大事な何かだったり、そういうものに触れられるから、敢えて再読するという今のような機会は貴重なのだな、とつくづく思う。



パーク・アベニューの孤独 発行(単行本) 1983年3月7日(月) 出版社 角川書店
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1985年1月10日(木) 出版社 角川文庫
共著
パーク・アベニューの孤独 パーク・アベニューの孤独 備考

角川文庫の初期三作は、三部作になっていて、だから続けて読んだはず。物語は冬の話だけど、読んだのは夏休みの頃で、汚い四畳半の子供頃から使っているベッドに寝っ転がって読んだ自分の姿を良く覚えている。あの頃の読書は、それがデフォルトの格好だった(笑)。「壜の中のメッセージ」は東京が舞台だけど、こちらはニューヨークで、もちろん行ったこともない場所だからテレビで見るイメージしかなかった。その頃のアメリカの景色は、ベストヒットUSAで流れるプロモーション・ビデオの中で見たイメージがほとんどだった。例えば、ストーンズの「友を待つ」とか。イギリスとアメリカの風景の違いとかも曖昧で、そういうざっくりしたイメージだけで、読んでいったんだった。

(単行本再読)

東北の大きな震災以降、ナショナリズムの様相が変化してきて、それと呼応するように海外、特にアジアに関するニュースが盛んに取り上げられるようになった。特に中国や朝鮮半島に関しては、歴史的認識の問題も絡んで、どこか揶揄される標的にされている嫌いがある。

そういう情報に触れる度、思うことがある。バブルの頃の日本も同じように奇異な目で見られ、バッシングを受けていたのだ。日本の常識は世界の非常識、なんていわれて、それが過度なグローバリズムを呼び込む結果になった。そして、バッシングしていた急先鋒は、他ならぬアメリカだったのだ。

つまり、日本はアジアの中で一足先に経済成長を遂げただけで、おそらくは中国や韓国も、同じ道を歩むに違いない、と。つまり、三十年後中国や韓国は、今の日本と同じになるのだろう、と容易に予想が付くのだ。

その時、それを明るい未来、と取るか、希望を失うのか、でおそらく現在の日本に対する認識が露わになる気がする。つまり、いわゆる新興国を見る目はそのまま、日本人としての踏み絵のようなモノだ、と私は思っている。

あとがきによるとこの本が書かれたのが、まさしく日本がバブルに突入する前夜のような時代で、日本がまだオリエンタルでエキゾチック、というような、ミステリアスな感触で欧米から見られていた時代を反映している。日本から海外への移住というモノが、当たり前になりつつあった。そんな時代だ。

一方で、私はまだ社会に出る前で、そういうものか、ぐらいでしか認識していなかった。平たく言えば、よくわからなかったのだ。それでも、今に至るまで自分の中に染みついている価値観のベクトルの根っ子が、そこここで発見できるのだから面白い。それなり、というとへんだけど、やっぱり影響受けていたんだな、と思うのだ。

もちろん、示唆的な言葉にも、わかっているようでわかっていないような、そんな感覚で捉えていたのだけど、それでもなんとかわかろうとして、その後の何年か、何十年かがあるのだから、そういう意味でも小説というモノが持つパワーは計り知れないと思う。

そのことを象徴するように、クレイジーな街でシンプルを求めてあがく、という一見相反するようなストーリーが、結局一番パワーを持っているんだと気づかされて、胸を透く思いになる。現時点で私はもうすぐ(20183)五十歳を迎えるのだが、年々、シンプルになっていく自分に気づいて苦笑するのだが、そういうところにやっぱり、この作品の影響は息づいているかもしれない。

例えば、時を重ねたことによって、飲酒を覚え、そして飲酒から遠ざかり、という両極端を行き来したおかげで、フラットに物事が見られる。おかげで、久しぶりにビールが飲みたくなったな、というのが再読時点の新たな発見だったりするのだった。



綺羅星 発行(単行本) 1983年9月20日(火) 出版社 河出書房新社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1988年4月25日(月) 出版社 集英社文庫
共著
綺羅星 綺羅星 備考

今となっては初期短編集、というべきか。角川文庫とか講談社文庫の方のラインナップは、エッセイもあるので健さんの陽の部分がやんわりと覆っているので、まだ安心して読めるのだけど、集英社文庫のラインナップはなんとなく、陰の部分ばかりに彩られていて、せっかく「ロックス」とかあるのになんとなく印象が薄いのだ。

全く内容には関係ないのだけど、カバーの折り返しの所にデーンと、健さんの顔が登場している。おそらく、健さんの顔を見たのはこれが初めてだったと思う。この本を読んだ前後に、あの北野武初監督作「その男、凶暴につき」を見た。麻薬の売人・橋爪という役を演じていた役者さんが、健さんにどことなく似ていて、しばらく声とかそういうのを重ねていたというか、全く橋爪の顔と声でエッセイとか読んでいた(笑)。

実際に動く健さんの姿は、NHKでそれまでに何度か見たはずなんだけど、とにかくイメージが重なっていて、今でも「その男、凶暴につき」を見ると、健さんが出ている、という風な感覚を思い出してしまう。

(単行本再読)

この作品を再読している途中で、私は検査入院した。丸一日病院にいただけだが、なかなか貴重な体験をした。

テレビはおそらく見ないだろうから、この単行本とギターマガジンを持っていった。検査や何やらでめまぐるしい間はギターマガジンを読み、検査後の待ち時間とか、夕ご飯の後とかにこの作品を読んだ。読み終わるかな、と思ったが結局ギターマガジンの記事を全部読んで、コレは途中までになってしまった。

それでも、中に看護婦(当時だから)というワードが出てくると、なんだか妙に真に迫っていて不思議な感覚がしたな。作品には全く関係ないんだけど。

納められた一連の作品を読んでいると、なんとなく師匠である五木寛之氏の姿が見え隠れするような気がした。五木作品はあまり読んでいないので、内容や文学的素養とかいうのはよくわからないけれど、もっとアイコンとしての師匠の姿、のようなモノかな。その姿を乗り越えていくような、健さんの意思というのか。

まず、表題作「綺羅星」で師匠を超えるんだ、という宣言をして、他の二作で、五木氏の作品を敢えてモチーフにして自分の世界を構築する、みたいな気がしたんだけど、本当のところはどうなんだろう。

その真偽はともかく、健さんの作品にしてはちょっと異色の作品群、というような印象を受けた。最も私の中のイメージでしかないんだけど、健さんはここに収められた作品よりは、もっと派手で洗練されている作品を物す、と私は思っている。ある種のスピード感というか、レブメーターがあって、そのシフトアップに私は酔っている、或いは求めている、という気がするのだ。それにしては、なんだか別の作者の作品を読んでいるみたい。

でも面白くないか、というとそうではなく、最も健さんらしい「月夜の風」なんてドキドキしたなぁ、色んな意味で()。そして案外、その健さんらしくない部分、舞台とか、展開とか、そういうところに私が曾ていた場所、みたいなモノが垣間見れて、それがなんだか不思議な感覚の大きな要因だった。「四季」なんて、健さんにしてはずいぶん牧歌的なんだけど、若い頃の私と主人公が重なる感じがして、なんだか見透かされているような気がした。

前にブログで、健さんに私のような地方の工員の話と書かれたらもう太刀打ち出来ない、っていう風に表現したんだけど、既に書かれていたのかもしれないな、なんて。



ライダーズ・ハイ 発行(単行本) 1984年5月25日(金) 出版社 中央公論社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1987年2月10日(火) 出版社 角川文庫
共著
ライダーズ・ハイ ライダーズ・ハイ 備考

高校生の頃、免許を手に入れることが出来る年齢になってもモーターサイクルへの興味とか憧れは、全然なかった。周囲に原付の免許を学校に黙って取るヤツは居たけれど、羨ましいとも何とも思わなかった。ただ、私も18歳になると学校に内緒で原付免許を取るのだけど、それはバイト先に毎日通うのがしんどかったからに過ぎない。高校生なのに深夜三時まで働いていて、そこからなだらかにつづく上り坂を、日が開けるのを見ながら帰るのは、疲れているし眠いしで、自転車では限界があったのだ。

それが、その直ぐ後に高校を中退して親戚を頼って尼崎に出た頃から急に、ちゃんとしたバイクが欲しくなる。その直前、先輩から買ったジェンマを黒に塗り替えるために、おおざっぱに分解して、エンジンというものとの距離が近くなったのがきっかけだった。ちょうど八耐が盛り上がっていた時期でもあって、ただのスクーターでは物足りず、ゼロハンスポーツと呼ばれるミッション付き原付に乗るようになったのだった。

二十台半ばでやっと車の免許を取るまでずっとゼロハンと付き合ってきたけど、結局私は酷いおとっちゃまで、コーナーを攻めるとかそういうスピードに魅せられるのではなく、原付で何処まで遠くに行けるか、とかそういうのんびりタイプの趣向が強いことに気がつく。それは今でも変わらない。

だから、健さんのバンク小説も、半分ほども実感できないまま、ただ憧れの中に収まってしまっている。それでも、例のゼロハンでカチャカチャやっている時は、小説の中の主人公と変わらないスピリットを持っている気分で、のろまだけど風を感じていると、夢想できるのが嬉しかった。

そういう風に、私の中の好奇心や興味はほぼ全て、健さんと共にある、といっても過言ではない。

 

(単行本再読)

思春期を迎えると誰でもそうかもしれないけれど、私も二十代の前半ぐらいまでは昼間の明るい太陽の下よりも、月も出ていないような夜の闇にシンパシーを感じていた。夜を徹して深夜ラジオなんか聞いて、外が白んでくるとこの上も無く寂しくなったモノだった。夜は感情を高ぶらせる何か魔法が働いていて、そういう時に女の子に手紙を書いたりすると後で大変なことになる。私のように多少高慢な性格をしていると、それがボディーブローのように人生の脇腹をずっと叩き続け、ついにはどこかで顔から火が出て焼け死んでしまうのだ()

同様に、晴れよりも曇りや、雨粒が落ちてくる下で傘の中に逃げ込んでいる方がずっと心地よかったりもしたのだ。それがいつ頃からだろうか、燦々と輝く太陽を欲し、その下で誰に憚ることなく胸をはって生きていきたい、と思うようになったのは?

思い当たるのは、バイクに乗るようになってからではないかな、と。バイクに乗ると雨は大敵で、暗闇は快楽よりも恐怖が先行する。一度、真っ暗闇の山道をゆるゆるとスクーターで走っていると、突然エンジンが止まって、慌てた私はそのまま田圃に突っ込んでしまったことがある。幸い、段差や縁石の類いがなく、スピードも出ていなかったので、すぐに止まったけれど、エンジンが火を落とし、ヘッドライトが消えた中にポツンと佇む自分を省みて、なんだかひどく寂しい気持ちになったのだった。

バイクは剥き出しの自分をそこに重ねて、暴れる感情をコントロールする道具だ。だから、バイクをメインに据えたこの短編集は、健さんには珍しくハードボイルドな雰囲気が漂っている。ハードボイルドなんて、今は半分死語だけど、しかし、鋼の魂をクールにコントロールするという世界が好まれていた時代は確かにあったのだ。それが、おそらく、この作品が描かれた時代だったのだと思う。

現代は、クルマでさえもハイブリッドに物静かな道具の時代なってしまった。機械に感情を託す、なんてことがナンセンスにさえ見えてしまう。寂しい時代だな、と思うけれど、ただ、この短編集の最後の「金曜日の悪い夢」はどこかでそんな時代を見透かしているような気もする。私が曾て求めていた世界観は、その作品の中にあった。

「気づかなければ良かった」というキーワードは、現代にも通用する、不可逆の不幸を如実に表現している。それは時代の流れ、時の移ろいを俯瞰してしまうペシミスティックな視点ではあるのだけど、そこにガンジガラメになってしまうと、硬直からは何も産まない。今はまさにそれが時代の中心にある。

これを読んでいる最中にある出来事があり、仄かに私の中に変化があった。それが案外、「気づかなければ良かった」を乗り越える、何かなのかな、と少し思えたのだ。気づいた結果よりも、その過程に何が潜んでいるか、というようなこと。私はそれにまさしく「気づいた」おかげで、長いトンネルから抜けて、新しい場所に辿り着いたような気がしたのだ。ただ、新しい場所なのか、元に戻ったのかは、未だ判然とはしない。



コーナーの向こう側へ 発行(単行本) 1984年7月30日(月) 出版社 三推社・講談社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1987年9月15日(火) 出版社 講談社文庫
共著
コーナーの向こう側へ コーナーの向こう側へ 備考

長編バイク小説。おそらく、健さんの作品の中で、最も長いバイク小説ではないだろうか?短編集は幾つかあったはずだけど。

これもまた、読んでから二十数年の時を経て、単行本を手に入れた。私は時々ブックオフをハシゴするのだけど、だいたい読みたくなる本、集めようと思い立つ作家は、世間の流行とは外れていることが多いので、まず旧本屋を見て回るのが恒例になっている。太宰治とか、谷崎とかの文豪さん達は軒並み古本で賄っている。

健さんの小説はもうほぼ読み切っているので、健さんを古本屋で探すことはまずない。新刊は見つけたら必ず買うし。でも何かの折、ちょっと試しに、なんて「や」の棚を探してみると、本当に時々、健さんの本を見つけてしまう。それは文庫ですでに読んでいるモノの単行本だったりするのだけど、なんとなく買ってしまう。自分にコレクター体質がないわけではない、と自覚はしているけれど、なんとなく忸怩たるモノも感じる。買ったら読まなきゃならないし、一度読んだモノを読み返す気になるのも、健さんだからというところもあったりする。

しかし、そうやっていざ、改めて読み返すと面白い発見があるモノで、それこそ十何年ぶりにあの頃の自分に出会ったりもする。同じ本を二冊買ったりはしないけど、それでも単行本の棚をつい覗いてしまうのは、そういう淡い期待が顔を出すからなのだ。



水晶の夜 発行(単行本) 1984年10月30日(火) 出版社 新潮社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1988年6月25日(土) 出版社 集英社文庫
共著
水晶の夜 水晶の夜 備考

長編作、でも、「綺羅星」の時語ったように、陰の部分の印象が強くて、なんとなく覚えているようで覚えていない。「真夏のニール」とごっちゃになっている感じ。そんなに陽気な作品って好きではないのだけど、もっと深い所に嵌まっちゃっているからかなぁ。

現時点(2016)で未読の作品集「Angels」に収録されているので、またアップデートします。

 

(単行本再読)

そうか、この物語を私は生涯に三度読むことになるのか()。それはさておき、それぞれの項目でも話しているとおり、集英社刊の文庫本はどれも、かなり昔に読んだので、すっかり忘れている。当然、再読の度、思い出しながら読むことになるのだけど、主人公やストーリーだけでなく、初めて読んだ頃の光景や心持ちなんてモノもレイドバックしてくるのが面白い。

加えて、集英社刊の一連の作品はどこか暗い印象が残ってる。この度、再読してその原因が少しだけわかったような気がする。

例えば、文中に出てくる「大きな黒い穴」とか、そこへ「滑り落ちていく」とか、その感覚が、まさしく私の二十代前半の心持ちにシンクロしていたことを思いだした。もちろん、今となってはあまり思い出したくない結果を招いたことの方が多い頃で、その心情を、言葉たちが裏打ちしていたんだな、と気づいたのだ。他には、村上龍の限りなく透明に近いブルーに出て来た「黒い鳥」とかのイメージ。

そしてまた、この作品は徐々にストーリーがスピードアップしていく。裏返せば序盤は、じっくりと注意深く話は進んでいく。なかなか先に進まないのだ。そこで語られるやや厭世的な不満が、薄い層だが確実に一枚一枚、積み重なっていく。そして、それ自身の重みで徐々に熱を持ち燻っていくのだ。

ただ、舞台が近未来、というお膳立てなので明確に何が、どうなって、というモノは曖昧だ。すでに状況が設定されていてあまり説明じみたモノはない。だからこそ、心情的な圧迫感だけが読んでいる方に滞留し続ける。

おそらくまだ何もかもが拙かった私には、その圧迫感だけにシンクロしていたのだろう。ある意味、縋っていた部分もあったかもしれない。

今になって読むと、その状況の曖昧さもあって、何か切実なモノ、という印象は薄れている。近未来の話なのに、インターネットというツールが出てこないせいで、どこか迂遠なやり方に拘泥している気もする。しかし、当時は確実に、それでもヒリヒリと身を焦がすような切実さがあったのだ。リアルというと少し違う気もするけれど、でも当時だから納得できる焦燥感のようなものは確実にあったのだ。

その辺のリアリティの齟齬みたいなモノは、このストーリーが学生運動の結末みたいなモノをベースにしているところに原因がある。それは確かに、私のような年代(健さんより十五歳下)には過去の話かもしれない。

でも、これを読んでいる最中に、衆議院が解散になり、希望の党が産まれ、瓦解した民進党から立憲民主党が産まれたたりしている。コレを書いている最中にも選挙カーが候補者の名前を連呼しながら走りすぎていった。闘争の時代は終わったはずなのに、私たちの胸の底に横たわっている不安の種は消えてはいないのだ。だから、全くもって「水晶の夜」が曾てのフィクションだとも思えないのだ。

多少おこがましいことを云えば、この話を最初に読んだ頃に比べて私には、幾らか読書が身についているし、おかげで蔵書も積み重なっている。今の健さんなら、もっと違う感じで書くんだろうな、というぐらいのことがなんとなくわかるような気がする。その分、表紙にある「新鋭」という言葉が光っている作品だな。



星とレゲエの島 発行 1985年7月25日(木) 出版社  角川文庫
      星とレゲエの島 共著
備考

私は二十歳を超えるまで東京に行ったことがなかった。ニューヨークの姿もテレビの向こうの世界で、だからジャマイカ、といわれてもまったくピンとこなかった。そもそも、ジャマイカのイメージから知識まで、ほぼ全て健さんの著作に寄っているのだから、未だに高校生の頃とは変わっていない気がする。レゲエミュージックも知識として、たまにFMから流れるものぐらいしか聴いたことがなくて、つまり、全く未知の世界をこの本で旅していたことになる。表紙、それから冒頭の数ページの写真が、読み進める時の私の最も大事なアイコンになっていて、青い空と白い砂浜、そればかりが印象に残った。ただ、その後、南国はほとんどジャマイカのイメージに統一されてしまい、沖縄も未だ行ったことがないけど、ジャマイカとさほど変わりがない()



サザンクロス物語 発行(単行本) 1985年10月1日(火) 出版社 三推社・講談社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1988年3月15日(火) 出版社 講談社文庫
共著
サザンクロス物語 サザンクロス物語 備考

SFは少し不思議、とは、クドカン作のドラマの台詞だけど、80年代に流行ったアーシーなSFとでもいう風な物語。これと「水晶の夜」が健さんの中の代表的な近未来モノ?

正直に言うと、この度これを書くために手にするまで、ストーリーとか全く忘れていた。なのに、オーストラリア、エアーズロック、というキーワードでいっぺんに、読んだ当時のあの空気が甦ってきた。幼少の頃からウルトラマン~宇宙戦艦ヤマトと続く外宇宙へ抜けていくストーリーに親しんでいた私は、当然の如くSFに偏見がない、というより恋愛小説よりはずっと、触手が伸びる。それが読書に親しみ始めた頃の当時の私の嗜好。といっても読んだのは、幾らか落ち着いた20代中盤。でも、ザザッと読み進めていって、面白かったな、という印象。

さて、厳密に言えばこれがSFか、というとまたいろいろ語弊があるかも知れないけれど、そういうテイスト、というぐらいに濁しておこうか。空想科学、となる原理主義よりは、まさしくSFは少し不思議、という程度でイイと思う。

(単行本再読)

物語のシフトアップの仕方が「水晶の夜」とは逆で、前半はパンパンパンパン走って行くのが、オーストラリアに着いてからはじっくりと終末へと流れていく。それは自然と、バイクが頻繁に出てくるシーンと符合していて、種類もスピードも際限がないほどの前半と、バイクを降りた後半に分かれる。コレがバイク雑誌に連載されたのを今回初めて知ったのだけど、なるほど、とね。健さんのエンジン遍歴は、バイクからクルマへと歳を経るごとにシフトしていく。初期はもちろんバイクに乗って作品も走っているのだけど、その為にこの作品がバイクと共にあったわけでも成さそう。

それよりも、前記のように、この作品をSFっぽい、と感じた部分が、後のいわゆるニューエイジ思想、例えば「ヒーリング・ハイ」の時期に繋がる布石、なのかもしれない、なんて読んでいた。ヘミシンク以降、健さんの発言から変性意識の類いは息を潜めているのだけど、そこに至る端緒がもうこの時期顔を出している。すでに「ヒーリング・ハイ」で告白していた体験を経ていたのかどうか、ちょっと定かではないのだけど、おそらくはどこかでイメージというか、ぼんやりした影が差していたのだと思う。

ただ、それは返す返す、私がSFと感じたように、当時は別に突飛なことを言っているな、という感じでもなかった。ノストラダムスはまだ厳然と信じられていたし、UFO特集や終末思想と陰謀説なんかは、普通の雑誌でも載せられていた時代だ。だから、変な言い方だけど、この結末をどこかポジティブに受け止める風潮があったのだ。

それでも今回再読して、アレ?と思って文庫本を開いていたら、案の定エンディングが変わっていて、健さん自身、物語の方向性が逆方向に舵を切った、というような物になっていた。どちらがどう、とは言えないけれど、この単行本の方もある意味、ポジティブなのかなと思うのだ。

すると、若かりしあの頃、という風に八十年代からバブル崩壊直前までを振り返ると、心ある者は未来を憂い、且つ絶望していた、という共通認識があったのだ、と気づく。まずそこから始まっているのだ。それが結局、二十一世紀を迎えてノストラダムスをはじめとするこのままだと世界が終わってしまう、という言葉がただの脅し文句にしか過ぎなかったことに唖然とし、そのことに突き動かされて価値観や倫理の荒野を作ってしまった私たちの世代は、また違う意味での憂いを抱えしてまったのだと思う。

急速にそのツケを支払うために、時代は急速に目に見える形で力を持ち始めている。それはまさしく力であり、しかも力で荒野を緑の大地に変えるのではなく、荒野から目を背けるために目をつぶす、みたいな。それは皆、なんとかしなくてはいけない、という善意から始まっているから更に質が悪いのだ。

私がクルマの免許を取る前に、人間がコントロールできるシステム、或いはテクノロジーはバイクを越えないんじゃないか、と思っていた時期があって、それが意外に、今だからこそこれを読んで思い返すこと、としてぼんやり浮かんだのは何とも皮肉だな。

そして、あの若かりし頃、心ある者を牽引していた一人、佐野元春の「Shame」という曲の歌詞が、さりげなく挟まれていたりする。それは明記されてはいないけれど、まぁ、二人は知り合いだったわけで、リスペクトし合った結果の産物だろうと思うのだけど、ただ、それは少なくとも、あの頃の僕たちには必要な言葉だったのだ。



ロックス 発行(単行本) 1986年5月10日(土) 出版社 集英社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1988年8月25日(木) 出版社 集英社文庫
共著
ロックス ロックス 備考

実体験を元にしたタイトル通りのロック小説。もちろん私も中学の時からバンドをやっていたし、それ以降もずっと音楽とはいろんな距離を保ちながらも親しんできた。だからといって、こういう文章から音楽が溢れ出てくるようなものにシンパシーを感じるか、というと難しい所。ストーリーとしてはその頃わりとあった、ジュブナイルモノのような単純なサクセス・ストーリーではないし、何より実際に同名のアルバムを作って虚実ない交ぜ、というスタイルも斬新だった。

例えばマンガの「To-y」は芸能界モノ、音楽モノであっても、敢えて音を表現しなかった所で読者の共感を呼んだ。後にビデオになって実際に喋ったり音が付いてみんながっかりした。余談ですけど、現時点(2016年)で未発売ですが何十周年か記念で作られたフィギュアは、全く似てなくてがっかりした。

だから、変な言い方だけど、健さん自身の物語として読むと面白い。バンドもの、音楽モノ、としてみると何か距離を感じる、というのが私の正直な感想。それは、読んだ当時、まだストーンズやブルースの良さが良く分からなかった、というの影響しているかも知れない。だから今読み返すと、何か新しい変化があるかも知れない。

とはいえ、健さんの作品の中では、重要な位置を占める作品だし、そうは言っても愉しんで読んだのは間違いない。出来ればアルバムも聴きたいけれど、残念ながら未だ手に入れてはいない。CDになっているのだろうか?これをモノしている2016年は、健さんの著作が一気に電子書籍になった年で、まぁ、これもそれに便乗して作っているのだけど、出来ればCDも再発して欲しいなぁ。

(単行本再読)

文庫本の方を読んだのが、まだ高校生の頃だったか、その後だったか、ハッキリとは覚えていないのだけど、少なくともその頃、これが東京のエンターテイメントの真実、リアルな姿だと思っていた。言い換えれば、この世の中にはまさに言葉通りのセックス、ドラッグ&ロックンロールの世界が確かにあって、それはまだ見ぬ東京には存在しているのだと思っていた。

その認識は、おそらく半分以上幻想だったのだろうけれど、全くの嘘でもなかったのだろう。今となっては私には確認できない。ただ、それが初めて読んだ頃の私にも、そして再読して少なくとも人生の波風に幾らか渡ってきた私にも、それは私のリアルではない、ということはハッキリしている。

エンターテイメントの宿命ではあるけれど、例えばアーティストの姿を見るのは、長い長い人生の中の一瞬であり、そこで見た印象なり、体験なりを元に、アーティストの為人を自分勝手に構築してしまう。特に今のようにネットもなかった頃には、幻想の方が幾分肥大していく傾向にはあっただろう。私はなぜか、そういう所はハッキリとは自覚してなくても、なんとなく感じていて、だからこそ幻想に希望が持てたし、現実にうんざりしていた。

例えば、作中で鏡に向けて花束を投げつけるシーンがある。そのシーンだけを切り取れば、エモーショナルな場面だ。しかしその一瞬の爽快さを過ぎたときに、掃除のおばちゃんが来て、割れた鏡とか、舞い散った花びらとか片付けて、なんてことを想像してしまうのだ。例えば、その時主人公も指を切ったとして、バンドエイドを貼ったらその箱には例の妙にリアルな子供が笑っている絵柄が付いていて、とおよそロックや、エンターテインメントとは無縁の姿をレイヤーしてしまうのだ。

リアリティを追求すればするほど、くだらない現実がベッタリと貼り付いていて、そこから逃れられないことを、ハッキリと自覚したのは、二十歳の頃。どこかで書いたかも知れないけど、香川から当時住んでいた尼崎へベースを担いで新幹線に乗った。でっかいケースを肩に担いで歩いていると、とにかく疲れる。おまけに自由席を探していると、出張帰りかなんかのサラリーマンの煩わしそうな視線に辟易させられる。どうしようもなくしんどいなぁ、と肩を落としたとき、ああどんなに好きなことでも、それが義務とか仕事になった瞬間、オレは疲れる、面倒くさい、と思っている自分にハッとしたのだ。

その時から、夢の世界と現実の間に明確なラインが引かれて、私はそのラインに怖じ気づいたんだと思う。今も同じように、幾分下世話なその認識を捨て切れてはいないけれど、夢の世界と現実の間に、そんなに大きな隔たりは無いのではないかという方にシフトしている。つまり、夢に夢見ることは辞めた代わりに、現実に絶望もしなくなった。

それは多少宗教がかってはいるけれど、夢の世界、というレッテルの貼られたパラダイスはこの地球上にはどこにも存在しては居らず、今自分が立っている場所の心の持ちようなのではないか、というところに落ち着かざるを得なくなっているからなのだろうと思う。それをまた、時代というモノが、誰の思惑か知らないけれど、ちゃんと用意しているというか、そういう未来が用意されていたというか、そんな気がするのだ。

元々そういう人間だから、私は今の生活を平気で続けられているのだろう。つまり、昔から自分が居心地のいい場所、というモノだけはハッキリと見えていたのだ。それはきっと、現実との間に齟齬を産むはずだから、と思っていろいろと夢を見たり、自分に試練を強いてきたけど無駄だった。結局、今の穀潰し生活があるのだから、私は夢を実現してしまったのだ。夢が現実になってしまったのだ。それが、世間にどう思われようと関係ないや、というところが、結局全くエンターテイメントではないけれど、イヤにロックしているように聞こえるのね()

 



雨の日のショート・ストッパーズ 発行(単行本) 1986年6月10日(火) 出版社 講談社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1990年6月15日(金) 出版社 講談社文庫
共著
雨の日のショート・ストッパーズ 雨の日のショート・ストッパーズ 備考

当時の健さんのイメージは、まさしく都会の人、ロックの人、というモノが私の中に刻まれていて、それが野球、というモノにしっくりこなくて戸惑った。元々私は生粋の文化系で、体育会系を憎んでさえいたから、野球とはその最右翼、おっさんの愉しむモノだと思っていた。まぁ、話自体は、人間を描いているわけで、別に野球の話ではないのだけど。

これに限らず、健さんのあとがきには、今どこそこでこれを書いている、というのが多くて、私はそれに憧れて随分と真似をしている()。このあとがきは、キースと会ってカリブ海に浮かぶ島で書いたそうだ。ずっと後になって健さんと逢った時、握手してください、と頼んでしてもらった時、アアこの手がミックやキースと触れ合ったんだな、とそんな風に思ったんだった。

 

(単行本再読)

健さんの作品に出会う前、好んで読んでいたのは片岡義男だった。それもなるべく薄いヤツを選んで、そうでなければ短編集を読んでいた。なぜそうしていたのかはわからないけれど、あの独特のサラッとした感じが心地よかったのだと思う。長編のようにじっくり読む、ということがまだ中学か高校生の私には億劫だったに違いない。

久しぶりに読んで、一遍一遍がこんなに短かったっけ?と思うことしきりで、しかし、前出のようにサラッと読む心地よさにホッとしたのだ。

短い話は独立しているけれど、全体を通して水のイメージが浮かぶ。雨、海、コップの中の水、アルコール。流体で透き通るモノがストーリーの中のアイテムとしながら、ストーリー自体を覆っている。その表面を読者である私がスイスイとアメンボのように走り抜けているような感覚が、結局心地よさの正体なのだ。

どんな透明な液体でも、混ぜ合わされれば幾らか濁る。そういうものが徐々に溜まっていき、やがてスコールが過ぎた後のような青いカリブの海へと抜けていく。思わず、気持ちいい、と叫んでしまいたくなる、というのはさすがに大げさか()

初期の健さんの作品の都会的で、オシャレで、かっこよくて、というイメージは全てこの短編集に詰まっている。これがいい意味でも悪い意味でも、私の中の都会=東京のイメージを誤解させてしまったのだけど、それに憧れ、寄り添い、という時代が、確実に私にもあったんだな、ということを読みながら思った。特に、バイクのタンクバッグ、という小物が登場した時、そうそうそれそれ、それに憧れて私はゼロハンスポーツに手を出したんだ、とね。今はもう物置みたいな車に乗っているけど。

ただ、それは私に限らず、おそらくこの日本という世相が通り過ぎていった過程なのかもしれない、とちょっと思ったりもする。高度成長からバブルへと逆上せ上がり、やがて我に返って不毛の荒野をトボトボ歩く、そんな感じで。それをどこかノスタルジックではなく、穏やかに受け止められるようになったのは、大人になった証拠なのかな、と柄にもなく云ってみたりして()

 



クロアシカ・バーの悲劇 発行(単行本) 1986年11月5日(水) 出版社 講談社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1989年5月15日(月) 出版社 講談社文庫
共著
クロアシカ・バーの悲劇 クロアシカ・バーの悲劇 備考

実験小説集、というのがおそらく最もしっくりくる短編集。前衛的、とかいう風に語るには、私は全く文学のことなどわかっていないので、評価するとかしない以前の問題で、何かやっているな、って感じで読み進めていった。それでもちゃんと読める所が、ギリギリやっぱり文学に留まっている健さんらしいんだと思う。

健さんと逢った唯一の機会が、ストーンズが2006年に来日したあとのオフ会だったんだけど、その時に、健さんの作品で何が一番好きか、というのを、健さんの目の前で披露する、ということになった。私は迷わず、「さよならの挨拶を」を上げたんだけど、どなたかがこの「クロアシカ・バーの悲劇」を上げていらっしゃった。かなり強く、これは最高だ、と推してらっしゃったので、ヘエそういう人もいるんだな、となぜか今でも覚えている。その方の顔は覚えてないんだけど()。もしこれを見ていたら一度連絡ください、なんて。

 

(単行本再読)

上記のように、このタイトルを見ると、健さんと逢ったオフ会のことを思い出す。最初に文庫を読んだ当時、そしてそのオフ会の頃も、実験小説という物がよくわからなかった。そういう体裁にモノが、余り好きでなかったと云うほど読んではいなかったけれど、文学に限らず映画や音楽でも、前衛的と謳っているモノにはどこか壁のような違和感を感じていたのだ。

しかし、歳を重ねて、幾らか読書の機会も増えた。そのおかげなのか、今は普通の小説よりもずっと、ここに収められている小説の方が面白い。なんだかワクワクする感じ。そう感じられるようになった自分を、幾らか誇らしく思ったのだった。

健さんのこの時期の物語は、主人公はおしなべて女の子の奴隷だ。それは実際的に顎で使われる、というわけではなく、どこか引け目を感じている、というような距離感で、例えば、女の子が一時間遅れてきても、途中で帰ったりクドクドとそのことを説教したりはしない。それが前にブログで話したことがある健さんはどこまでも優しい、論のひとつの根拠ではあるんだけど、なんとなく、あぁあの頃って女の子は私を待たせる存在だったなぁ、なんてことも思い出したりしたのだ。フェミニスト、よりは、スクラッチで付き合いたいと思っている方だけど、やっぱりこの娘、と決めたからにどこまでもすがりついてしまう若い頃もあったのさ()

そして、今この小説を読み返している最中に、再びあの健さんとのオフ会と似たようなシチュエーションが、私に迫っている。昨日はその興奮で眠れなかったのだ()。今となっても、こういうサイトを開いて、ひたすら健さんを深く知ろうとしているのも、きっかけはあの日あの時、健さんと直接逢ったからで、やはり今度の機会も私に新たな未来を予感させるのか?様々な期待と不安を胸に、この本を再読した。願わくば、台風が逸れてくれる事を。



追憶のルート19 発行(単行本) 1987年4月15日(水) 出版社 三推社・講談社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1989年9月15日(金) 出版社 講談社文庫
共著
追憶のルート19 追憶のルート19 備考

ちょうどこの本を買って読んでいた頃、国道19号線沿いにある街に住んでいた。ただ、当時の私は原付免許しか持っていなくて、もっぱら移動は電車か、同僚の車に乗せてもらうのが常だった。

19号線は本州の中程を貫いていて、名山と呼ばれるような山々の連なりを、谷間を縫うように走っている国道だ。冬になるとその山々にあるスキー場に向かう、あるいは帰ってくるバスやら車やらで必ず渋滞して、全くウインタースポーツに関係のない、私や当時組んでいたバンドのベーシストはのろのろ運転の中音楽の話ばかりしながら、悪態を吐いていたモノだ。

その頃は、SHADY DOOLSというバンドに入れ込んでいて、彼等の曲に「ルート16」というのがあって、どちらかというとそちらにシンパシーを感じていた。その後その谷間の町から離れて香川に帰ってきた直後、高校の頃悪いちょっかいばかり掛けていた女の子と再会したことがあった。東京の大学に行っていた彼女は、その16号線周辺に住んでいる、と話していた。その再会の時、彼女は私の前にクルマで現れた。何処かポヤンとしていて、その時も助手席の私に胸とか鷲掴みにされながらも、やめてよーと口では言いながら何もできないでいるような女の子だった。そんな女の子がクルマを運転しているのが癪で、よっしゃいっちょ車の免許を取ってやろう、と奮起したのだ。初めて教習車の運転席に載って教習所のコースを走り出して、こんな面白いモノがこの世の中にあったのか、と思ってそれ以来、バイクをすっぱりやめて車の運転に熱中する。その後、いろんな女の子といろんな所にクルマで行ったけれど、一度としてハンドルを渡したことはない。

(単行本再読)

あとがきに書かれているように、愛とセックスをテーマにした短編集。愛とセックスをテーマにすると悲劇的にも楽天的にもなる、不思議なモノだ。そしてその何れにも、どこか物寂しい感覚が伴う。ちょうどこの本を読み得る前日、風呂の中で私は、さすがの私でもここで披露するには躊躇する台詞を吐いたのだが、それは私のセックス観が、アアここまで来てしまったのか、という諦めのような言葉だった。

女性に恋い焦がれるという行為が、純粋な恋愛である時期は十代の頃に既に失われたような気がするけれど、単純にセックスしたいだけではないか?と自覚するのは三十代に入ってからだった。まぁ、普通はその年代になると子供の一人も抱えて、恋愛だのセックスだの、考える暇すらないのだから、その意味で私が考えることなど人生にとっては余計なことかもしれないけれど、でも、そのことに気づいてから私は私自身をもっと注意深く探るようになった気がする。その種が、案外この本を読んでいたことによって、蒔かれていたのかもしれない、なんて思ったのだ。

中学生の、それこそ恋愛の「レ」の字も知らない頃から読んでいたのだから、健さんの言葉に人生訓のような部分で多大な影響を受けているのは、当たり前なのだろうけれど、こうやって読み返すと、その一部始終をトレースするような気がして奇妙な感覚だ。

表題作は、まさにバイク小説なのだけど、ちょうどタイミング良く、岡山の備前焼作家の方々と会う機会があった。その佇まい、拘りのようなモノを、私はこの作品の中のバイクを通して重ね合わしていた。

昔尼崎にいた頃、バイト先の男たちは皆バイクに乗っていて、そのうちの一番歳の近かった先輩が、ある日急に単気筒のエンジンに目覚めたのだ。確かSRという名前だったと思うのだけど、その独特のどこかレトロなスタイリングのバイクは、まさしくそれ自身を愛する人々のコミュニティーがあって、彼もそこに急速に惹かれていったのだ。

その過程をつぶさに見ていた私は、同時に、そのある種ニッチな世界の中にある他者を寄せ付けないほどの拘り、というようなモノの雛形を自分の中に据え付けたような気がする。バブルへと加速する最中の、熱狂の時代が為せる業ではあったのかもしれないけれど、人はそこまで、拘りの中に没頭できるのだ、という感慨は、私にとって初体験であり、貴重な体験だった。

備前焼作家の方々は、そこから未来へ向けて開かれた何かを模索しつつ、拘りの部分の継承をしっかりと胸に刻んでいた。その眼差しは、痛快であり、さらにはそこに対する憧れのようなモノを私は感じたのだ。

そんな事を、ふと、表題作を読みながら思い出していた。それは、作品の舞台が私が曾て住んでいた場所を微妙にかすめていた、というノスタルジーが理由なのかもしれない。



チョコレートの休暇 発行(単行本) 1988年5月17日(火) 出版社 東京書籍
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1991年6月15日(土) 出版社 講談社文庫
共著
チョコレートの休暇 チョコレートの休暇 備考

「さよならの挨拶を」の時、何度も読み返した作品はそうない、と話したけれど、一冊がっつりというわけではないけれど、この本を読んだ直ぐあと、他の何冊かをパラパラと何度か見返した、という経験をした。というのも、この表題作の中に、どこかで読んだことのあるような、そう言ってよければコピペしたような文章に出くわしたのだ。この一節、確か健さんの前の作品で読んだことあるような、との思いに取り憑かれて、その部分を探したというわけ。

おそらく「クロアシカバーの悲劇」辺りだろう、と記憶を頼りに探してみたけれど、結局見つからず。デジャヴみたいなものだろうか?と首を傾げながらも、また別のどこかに、と行ったり来たり。やっぱり見つけられなかったのだけど、あんな体験は後にも先にも一度きりだったな。

と思っていたら、このテキストを書く時に、ページを開いてみて、「どこか狂った川の畔で」というタイトルを見て、おや、これもどこかで見たことがあるぞ、最近?それとも少し前?その最初のデジャヴ体験の時は、まだ私の持っている健さんの本もたかが知れていたけれど、今はもう膨大でさすがに探す気にはなれなかった。

その後、「iNovel 山川健一作品集 Rocks」に収録されているのを見つけました。

(単行本再読)

健さんの作品に出てくる女性は皆、胸が小さい()。細身の身体なんだな。それはさておき、別のところでも話したけれど、以前健さんにお目にかかった時、「おまえはロマンチストだなぁ」という言葉を頂き、それをずっと今でも胸に抱いている。それが自分のアイデンティティーかもしれないと受け入れつつ、どこか拠り所にもしている、特に小説を書く時には開き直ってどこまでロマンチストになれるか、自分で自分を試しているようなところもある。

この短編集は、その健さんにしてはロマンチストな部分から、重いテーマのモノまで、バラエティに富んでいる。ここまで振れ幅が大きいのも健さんの魅力のひとつかもしれない。

その中でも最も長編の「ロニー・キャットの船」は、とにかく重い。コレは全くの私見ではあるけれど、健さんにしては情景描写が細かい。だから話がなかなか進まない。健さんはスピード感というよりもテンポの良さが文章にはあって、そこが私がもっとも惹かれる部分でもあるのだけど、そのテンポ感がどうしようもなくヘヴィなのだ。

そして最後のあの結末。コレはどこかサイケデリックな感触があって、私はそれを後になって音楽でのみ体験した世代だけど、その歴史の中でも結局は破滅というゴールに収束しているような気がしている。そうすると、まさしくコレは、サイケデリックなのだと、妙な納得をしてしまった。同じヘヴィな話でも「さよならの挨拶を」はもっと、ロックだ。その感覚の違いが、心に残った一遍だったな。



真夏のニール 発行(単行本) 1988年8月10日(水) 出版社 集英社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1991年7月25日(木) 出版社 集英社文庫
共著
真夏のニール 真夏のニール 備考

「サザンクロス物語」に続くSF作品。舞台は未来でも、テーマは恋愛。だから恋愛小説、と括った方がいいのかも知れない。ただ、SFの厄介な所は、まず時代背景や状況説明に文章を割かなくてはいけなくて、現代物よりはずっとイメージングが必要になる。アニメ世代の弊害は、それを視覚で補ってしまおうとする所で、結局今原作モノのアニメが全盛なのは、その辺のわかりやすさにあると思う。

きらきらとガラスが舞い落ちてくるシーンというのを覚えているのだけど、今パラパラと読み返した限りでは見つからなかった。だから別の作品、案外「綺羅星」のワンシーンかも知れない()。でも、ドーム状の何かとそのガラスが舞い落ちる印象だけが、この作品のイメージとして強く残っている。

(単行本再読)

すべて読み終えても、結局ガラスがキラキラ落ちてくるシーンは出てこなかった()。綺羅星にもなかったから、水晶の夜だったかもしれない。

奇しくも、最初のレビューでアニメのことに言及しているけれど、ラストシーンの一場面は、そのまんまエヴァンゲリオンの劇場版だな、と思った。もちろん、健さんの方が先で、そしてエヴァンゲリオンとは結末が違っている。心の壁を解き放ってひとつになるのがこの「真夏のニール」で、やはり他人の恐怖を受け入れてこその世界を望むのが「エヴァンゲリオン」。違っている、といっても同じルートを辿っているわけではないので、共通項はいっぱいある。

エヴァンゲリオンを見た時、ボクらの抱える終末論は、遂にここまで来たか、と思ったものだった。魂の解放が、すなわち欲望の果てと同義で、それを超えた時正義も不正義もなく、個人の遺志が鍵になる。人類のエゴを最大限否定し続けた昭和の終末論が、煮詰まって遂にひっくり返ってすべてを肯定したような気がした。

最初は難解なアニメ、という触れ込みでその魅力を語られたが、よく分からないものに惹きつけられるのはあくまで入り口であって、本来はもっと、こういうのが見たかった、という欲望をこれでもかというぐらいに見せつけて唖然とさせるところに、エヴァンゲリオンの秘密はあったと思っている。

それでも、アニメにあまり執着しなかった私が見ると、何がなんだかよくわからず、でも気になるな、というのが正直な感想だった。そして、テレビで劇場版が放映された時、二度目の鑑賞のはずなのに衝撃を受けたのだ。その理由は、全く関係ないのでここでは端折るけど、それからその未知の部分を埋めようと、例に違わず幾つかの解説本を読んだ。

正確には二冊だが、一冊は謎を羅列しただけの表層的なものだったけれど、もう一冊は、もっと表現の意味づけに拘って、そこから多少哲学的、或いは心理学的論理を当てはめていったもので、ひじょうにわかりやすく且つ納得のいくものだった。おかげで、エヴァを見る度に、その本を片手に何度も読み返したのだ。

それはある意味、私の中に哲学の論理的思考、みたいなものを植え付けて、それが後に、いろいろな物事を考えるひとつの筋道を与えてくれた。私が今持っている宗教観や、文化や表現なのどの考察は、その解説本が元になっている、といっても言い過ぎではない。

そして、判ったような気になっているだけかもしれないが、今だからこそ、この「真夏のニール」もそこに横たわる健さんの意思や意識が伝わってくるのだ。最初読んだ時よりはもうちょっと俯瞰して読める、という時間的余裕もそれを助けてくれる。

やはりコレは、健さんの作品だよな、と改めてそう思ったのだ。

へんな感想かもしれないけれど、私の正直な感想はそれだ。エヴァンゲリオンに限らず、多少知恵のあるものが未来や将来に絶望しないわけにはいかない。それに抗うように希望を見せるのは、あまりにも安直で、かといって厭世的になるのは悲しすぎる。それを突破するのに、意志の力を信じる、というのがまさに健さんらしいよな、と思うのだ。そこがまた、この主人公と、シンジ君を分ける大きなポイントであり、結末の爽快さの違いなのだ。

エヴァンゲリオンを乗り越えて、表現はずいぶんと荒野を進んできた。この時代に読む、真夏のニールはまた、意味深いと私は思う。



ティガーの朝食 発行(単行本) 1989年5月30日(火) 出版社 講談社
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1991年10月10日(木) 出版社 角川文庫
共著
ティガーの朝食 ティガーの朝食 備考

離れて暮らす妻と二歳の子供との交流を描いた作品。以前、エレクラの初代ボーカリストが、小説を読む時に作者の顔がわかっていると、どうしても主人公をその顔で思い描いて読んでしまう、という話をしていた。私の場合、わりと主人公は自分の中に思い描く自分をイメージしているので、アアそんなもんか、と思うけれど、案外健さんの作品は同じことをしているのかも知れない、と思ったりする。

というのも、この本を前後して読んだ、健さんのエッセイに出てくる友人の話、バンドの話、健さん自身の現実、そして体験した話、そういったモノがわりと小説の中にトレースされていることが多いな、と感じていたから。そしてこの「ティガーの朝食」辺りでは、これって健さんのドキュメンタリーじゃないの?的な感覚で読むようになった。もちろん、それは作家誰しもがあることで、そしてそれは上手にカリカチュアされているモノだし、その辺を愉しむのが本を読むってことなんだろうけど。

その後、健さんと逢ったストーンズのオフ会で、健さんがこんな風に仰った。「今回のチケット取るのも大変で、いろんな女の子に頼まれたり、娘にも頼まれたんだよ」と。それを聞いた時、思わず「エエ、あのティガーに出てきた女の子がそんなに大きくなったんですか」って私の口を突いて出てしまった。すると健さんは、よくそんな旧いこと覚えているなぁ、って苦笑してらした。

(単行本再読)

ちょうどこの本を読み終える前日、一ヶ月ほどかかった小説を書き終えた。もちろん、それはまったく何のお金にもならない作品だが、様々な事情から希望や夢が乗っかっていて、それだけに集中し充実した創作となった。

それを書き終えて、なんだかぽっかりと空いた時間に唖然として、気がついたらこの本を一気に読み終えた。三時間ちょっとで一冊、は私にとっては超高速である。

もちろん以前一度読んでいる、というアドバンテージがあり、加えてある程度の感覚が私の中に残っている作品でもある。それは文庫本の方の感想で書いたとおりのエピソードがあるからだ。

それが今回、輪をかけて、懐かしさに耽ることになったのは、幾らか自分の中に冒頭述べたような寂寥感が漂っていたせいかもしれない。おそらくモチーフとなったであろう、健さんの娘さんや家、ワープロ、野球。それらの者がさすがの年月を経て、ノスタルジーの中に押し込まれてしまっているのだ。

ただ、それはリニアな時間というシステムの中で、当然のように未来にも繋がっているのだ。例えば、この作品の主人公が健さん自身をモチーフにしているのであれば、健さんの娘さんはやがて、この作品の頃と同じ年齢の孫をもたらす日も来るということなのだ。

健さんが孫と戯れるシーン!

私はその姿を、恐る恐る、まさしく怖いもの見たさの感情を伴って、一度見てみたいと思う。しかし、この作品から時を経て、時代はますます生きていくのにハードなハードルを抱えている。私は早々とそのハードルに恐れを成し、人生からドロップアウトしてしまった人間だが、周りには小さな子供も何人かいる。結局、私の手を引き、名前を呼んでくれるのは、その子供達だけだったりするのだから、何が人生の正解はわからないのだ。



蜂の王様 発行(単行本) 1989年5月30日(火) 出版社 角川書店
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1991年6月10日(月) 出版社 角川文庫
共著
蜂の王様 蜂の王様 備考

最初に読んだのは文庫版で、二十代前半の頃。その後、単行本を厄年になって見つけて読み返した。単行本を買った時の様子はブログにも書いてあるので、そちらを参照

ブログでも何度か話したけど、私が初めてバンドでステージに立ったのは中学三年の時で、その時に演奏したのがRCサクセションの「トランジスタラジオ」とアルフィーの「メリーアン」だった。RCはともかく、アルフィーはその頃流行っていたのと、本当はジャーニーの「セパレイト・ウエイズ」をやるはずだったんだけど、もうひとつのバンドが同じ曲をやる、オマケに他の曲には変更できない、というので、似たようなアレンジの曲、というので選んだのが「メリーアン」だった。

そのアルフィーの高見沢さんを主人公にした小説。実在のしかもテレビでしょっちゅう見かけるアーティストを主人公に小説を書くというのは、結構な挑戦だなと思う。あくまでもフィクション、とわかっていながら、ついテレビでアルフィーの三人が出ていると、ステージ袖で高見沢さんは坂崎さんを殴っているんだな、とつい思ってしまう()

斯様にこの小説を読んでから、アルフィーを見る目が変わってしまった。先日も、BSのビートルズ特集に高見沢さんと坂崎さんが出ていて、大学時代はこんな事があって、なんて楽しそうに喋っていたけれど、やっぱり坂崎さんの目が笑っていない、とか、本当は仲悪いのに、とか思ってしまうほど、ずっと尾を引いている。本人達が望んだ作品だとはわかっていても、健さんは罪なことを・・・()



ブランク・セヴンティーズ 発行 1989年12月10日(日) 出版社  集英社
      ブランク・セヴンティーズ 共著
備考

空白の70年代と名付けられた短編集。ジェネレーション・Xだとか、失われた十年とか、とかく希望のない時代をひとくくりにして名札を着けたがるモノだけど、その時代の直中にいる間は何が何だかわからない間に過ぎていくモノだ。そのせいか、私の中で私の同時代の世代に対する嫌悪感は、相当に熟成されて育っている。簡単に言えば、今の日本をダメにしたのは60年代後半から70年にかけて生まれたやつらのせいだと思っている。おしなべてそいつ等は無能で、その中にもちろん、私も入っている。

健さんが俯瞰する70年代は、それでも振り返れば闘争に始まり、思想に溢れ、最終的に金の力で物事を進めるお膳立ての叶った時代ではなかったか。そう簡単に集約する中に、様々な出来事があり、それがフラグメントとして発光して今を照らしている。一度平成という区切りでケリを付けたかに見えて、昭和が形作ったツケは今に回っている。

そのギリギリ、残滓のような私たちの世代は、校内暴力が敵に敗れて内向きにその矛先を向け、今のいじめが横溢する教室のサバイバルの礎を作った。そのせいで、むやみやたらにイデオロギーや思想よりも単純な力を望んで、もう暴力に怯えない毎日を手に入れたいとだけ望んでいる。それまでに綿々と築かれていた時代の架け橋を、めんどくさからの一言で次々に叩き壊し、結局荒れ野しか残さずさっさと逃げ出してしまった。そのツケは全部、今の若い人達に回しているのに、誰も反省も何もせずに、ただ他者に非難を浴びせることに汲々としている。

ここで自分の愚痴を言っても仕方がないけれど、いい機会だからコソっと、自分の世代に対する嫌悪感をステイトメントしておく。きっと、健さんも同じ様な思いでこの短編集をまとめたのではないか、とちょっと思っている。



セイブ・ザ・ランド 発行 1989年12月24日(日) 出版社 講談社
      セイブ・ザ・ランド 共著
備考

健さんにとっては重要な作品。現在に至るまでずっと響いている、健さんの価値観の通奏低音のような存在の作品。なのに、最近まで読んでなかった。正直言うと、ちょっと敬遠していたのだ。例えば、原発の問題とか、自民党のやり方とか、必ずしも健さんと同じ考え方の元にあるわけではない、というのがその原因。

様々な社会問題へアクセスする扉は、私の場合はいつも健さんが開いてくれる。その扉を潜って部屋の中に入って見回して、そこを通り過ぎたあとに、健さんが導き出した答えと同じ結末に至るとは限らない。もちろんその距離感を感じた時は、少し悲しい気分になる。でも、おそらく健さんも、それを望んではいないのだろう、それぞれの答えを出すことこそを望んでくれているはずだ、ということで落ち着いている。もちろん、健さんの価値観に対する尊敬が微塵も欠けることはないのだ。

これはiNovelRocks」に1999年版、と改良されて再録されている。先にその「Rocks」を手に入れてそのことを知って、やはり原典を先に読んでおかなければ、と慌てて手に入れて読んだのだ。そういう面倒くさい所が私にはあるので、健さん全制覇にも時間が掛かってしまう。

同時に、健さんのソロアルバムとして、同名のCDも出ている。これも結構苦労して手に入れた。実は小説よりも、健さんのCDを再発して欲しいと願うファンも多いのではないか、と思う。現在小説よりも、健さんのCDは入手困難を極めている。もし再発、となってもおそらくは配信という形をとるかも知れない。私はどうもその手のやり方が苦手なのだが、健さんがそうするなら何とかしてしまうだろう。

いずれにしろ、健さんは常に私の動機を演出してくれる、貴重な存在なのだ。



凍えた薔薇(甘い蜜) 発行(単行本) 1991年9月20日(金) 出版社 ミリオン出版
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1997年6月25日(水) 出版社 幻冬舎アウトロー文庫
共著
凍えた薔薇 甘い蜜 備考 文庫化の際に「甘い蜜」と改題

健さんが「スパンキング・ラブ」を書いた頃から、世の中はエロブームに沸き立っていて、その辺はスパンキング・ラブの解説を参考にしてもらうとして、男の読み物は老舗のエロ本もあったけど、時代を引っ張っていったのは「宝島」だった。同時に女性誌、「ノンノ」とか「アンアン」とかでも、セックス特集を組んだりしていたこと。これが平成の第一次エロブームの特徴(ちなみに第二次はインターネットブーム)。

それを象徴するように、官能誌以外に発表された官能小説を集めたのがこの短編集。エロ本とか大好きなのに女性器の名称を標準語でさらっと言うのに、私は抵抗があって、今は訳あって随分慣れたけど、当時は自分で口にするのも恥ずかしかった。奈乃で、官能小説とは言え、健さんの文章の中に出てくると、ドキッとさせられたのだ。ちなみに「ロックス」で女の子が自慰をしている、という場面があっただけで健さん不潔!、というのは大げさだとしても、アア大人の世界だ、という風に思ったのは事実。元々淫乱な女の子は嫌いではないけれど、恥じらいのある淫乱でないと萌えない、というのがなかなか当の女の子に理解されず、それはきっとアダルトビデオの影響かな、と思ったりする。いや、アダルト業界を私は死ぬ気で応援しているのだけど。

ただ、表現の限界を突破する先鞭に、いつもこういうセックスや、エロ・カルチャーを矢面に立たせるのは私はあまり好きではなく、純粋な欲望の表現としてもっと、普遍的であって欲しいと思う。見たい願望と同じ質と量で、見せたい願望があるという部分を、もっと普通に受け入れて欲しいモノだ、といつも思っている。表現の砦を死守するには、異端視されているアダルト業界を救う以外に方法はないとも思っている。



ジゴロたちの航海(ジゴロ) 発行(単行本) 1992年4月5日(日) 出版社 KKベストセラーズ
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1997年11月25日(火) 出版社 幻冬舎アウトロー文庫
共著
ジゴロたちの航海 ジゴロ 備考 文庫化の際に「ジゴロ」と改題

岐阜にいる頃はちょうどバブルの晩年で、弾けるのを見届けてからそこを離れた。当時バブルとはどういうモノかというと、私のような若輩者にもボーナスが年に三回出て、しかもカードやらなんやらで借金して遊べた時代なのだ。金余り、とか云ってもピンとこず、空前の好景気と言われても貧乏感は相変わらず横たわっていて、もっと金が欲しいとは思わなかったけれど、もっと楽しい日々が来ればいいという願望は強かった。

岐阜と香川では距離がある、というのもあって、年末以外に帰省することはあまりなく、それも岐阜にいてもすることがないので仕方なく帰る、という感じだった。この本が発売されたのが1992年のゴールデンウィーク前で、その時はいろいろと周囲と疎遠になっていた頃でもあり、なんとなく帰省したのだった。

香川に帰省しても、こっちでも特にすることはなく、ちょうど尾崎豊が亡くなった直後で、テレビはそればっかりだし、遊びに行こうにも足は無し。一緒に遊ぶ友人もいない。オマケに岐阜に行っている間に実家は引っ越しをしたので、地元感も無し。とにかく退屈を極めていた。

だから、行き帰りの電車の中、そして香川の今いる畳の部屋でとにかくこの本を読むことだけが唯一の楽しみだった。健さんの名前を見つければ片っ端から買っていた時代だったけど、その中で新聞に新刊が出るという予告が載って、狂喜乱舞したモノだ。近くの書店に注文して手に入れたはず。

ただ、その後、私はいろいろと後ろ足で砂をかけるような悪さをして岐阜を離れることになり、いろいろと複雑な思いを抱えていた時期に読んだので、表紙を見るとその頃のあまり浮き立たない感情が甦ってきてしまう。それは全く健さんのせいではないのに、申し訳ない結果にしてしまった。

文庫になってこれがアウトロー文庫の方に入って、そのイメージのギャップに多少戸惑う。男たちの栄枯盛衰の話のはずで、ジゴロとは銘打っているけれど、もっとすがすがしいモノが通底している話のはずなのに。いや、私の思い違いかな。

健さん自身、確かこの頃に会社を興して、というような実体験が重なっていて、読んでいるこちらもなんとなくそういう意識で読んだような。でも、健さんの作品は、主人公と美しい女性と、善き相棒が出てくるとグッと面白くなる。単純に私がそういう話が好きだ、というか憧れるからなのかも知れないけど。



スパンキング・ラヴ 発行(単行本) 1992年7月20日(月) 出版社 ミリオン出版
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1995年9月15日(金) 出版社 講談社文庫
共著
スパンキング・ラヴ スパンキング・ラヴ 備考

この作品が発表された頃、私の腰は脂がのっていてそれはもうかなり忙しなく動いていた。それに見合うお嬢さんと知り合い、アグレッシブな世界に踏み出す機会が増えたのが一番の理由。そんな自分に寄り添うように、世間はヘアヌード全盛、時代はエロスを求めて蠢きだしていた。あのカルチャーマガジン、バンドブームの牽引役だった宝島が、気がつくとヌードグラビア満載のエロ本に変貌していたし、活字媒体がネットに駆逐される直前のあだ花のように、新たな解放を求めていた時代だった。

その時流に健さんも参入、というより、かなり先鞭を付けた感じで、それがこの「スパンキング・ラブ」だった。掲載誌があの、裸のお嬢さんを吊ったり転がしたり外に出したりする老舗のS&Mスナイパーだった。そういう世界に興味がない、ワケではなかったけれど、ちゃんと買ったのはその頃が初めて。話には聞いていたけど、あの世界観は独特なものがあったなぁ。

健さんを初めとして、元々半分官能小説を書いていたような作家さんが、雪崩を打ってポルノの世界に参入してきて、この「スパンキング・ラブ」は映画にもなった。確か主演俳優は、筧利夫さんだった気がする。衛星放送で見たけど、かなり小説とは違っていて、なんだか想像していたのと違うな、って思った。

確かにそれまでの健さんの作品とは、かなり趣が違うようだけど、でも私はこっちの方がずっと好きだった。ロック小説、というような言い方をされて、親和性で言えば、ロックやモーターサイクルと、セックスは切っても切り離せない。そういう価値観を私に植え付けたのが元々健さんなんだから、例えば「クロアシカバーの悲劇」のような実験的なモノよりは、官能小説の方がずっとしっくりきた気がしたのね。



マシンの見る夢 発行 1992年9月25日(金) 出版社  講談社
      マシンの見る夢 共著
備考

文庫本はともかく、健さんの単行本の多くは、ごく最近になって手に入れたものが多い。つまり、最近になって初めて読んだ作品が多い、ってコトだ。全くそれでこんな健さんの著作を網羅することを目指しリストを作り上げようとしているのだから、畏れ多いこと甚だしいのだけど。

その中にあって、単行本として持っているモノの中で結構昔から持っていたのがこれ。それでも発売当時ではなく、やはり旧本屋で見つけたのだと思う。余談だけど、二十代前半の頃は、古本屋へはエロ本を買いに行くのが主な目的で、マンガ以外にあまり買った覚えがない。今はまったく逆で、マンガを見ることはあまりなくなった。エロ本なんてどこも置いてない。置いていても明るすぎて近づけない()

それはさておき、バイク小説の長編。健さんの小説には、あからさまにストーンズが出てくることはないけれど、なぜかバイク小説にはそこはかとなく、ストーンズが横たわっている気がする。初期にバイク小説が多いからかも知れない。その後健さんにとってのストーンズは当たり前になっていて、あまり表には出なくなってしまう。多少残念な気がするけれど。



ママ・アフリカ 発行 1993年1月30日(土) 出版社  角川書店
      ママ・アフリカ 共著
備考

健さんの初期作品に当たるアフリカもの、ジャマイカもの、は当時の事情により最近になるまで読む機会がなかった。単純に、ネットとかない時代だったので情報がなかった、というだけなのだけど、そういう意味ではネットで何でも手に入る時代というのは、やはり世界を変えたのだと思う。

これを読む前に水曜どうでしょうがアフリカに行っていて、全く世界観は違うけれど、映像がダブって見えていた。

それよりずっと後、鳥が言語的コミュニケーションをとっている、という実験結果を新聞か何かで読んだ。その時ふと、動物は言葉を持たないということを理由に下等などと云っているけれど、それより言葉でなくては意思の疎通ができない人間の方が実は下等なのではないか、というようなことを思った。言葉を越えた意思の疎通を獲得した動物たちの方がずっと進化をしているのかも知れない、なんてことを考えると、なんとなく宇宙の意志と交わし合うスピリチャルなもののイメージがクッキリと浮かび上がってくる気がする。

デジタルなものだってコマンド打たなきゃ、何も始まらないんだものね。



僕らは嵐の中で生まれた 第一部 初めての別れ 発行 1993年4月2日(金) 出版社  東京書籍
      僕らは嵐の中で生まれた 第一部 初めての別れ 共著
備考

健さんの自伝的小説。若い頃の健さんのエピソードは、すでにエッセイなどで多く語られていたのを、時系列順にまとめたという感じで、なんだか初めての小説を読んでいる、という気はしなかった。

私はこのホームページの別のところで拙い長い話を上げたりしているけれど、いつも迷うのが登場人物の名前。簡単なようで、名前一つで印象とかその後のストーリーまでもが変わっていくような気がするので、名前を付けずに話を始めることが多い。なるべくならそのままで生きたいけれど、どうしても出さないとわかりにくくなってしまう場合も多々ある。そういう時になってやっと、仕方なしに、名前を考えるのだ。一応、読んでいる人が登場人物に感情移入しやすいように、という言い訳を用意しているけれど、実は本当に名前を付けるのが苦手なのだ。

この作品の場合、健さん自身の名前を付けなくてはいけない。川口謙一郎となっている。健さんの自伝、と知らなければ、そのまますんなり受け入れるのだろうけれど、なるほどそう来たか、という感じで見てしまう。全く内容には関係の無い話ではあるのだけど、でもわりと、とっかかり、という意味で引っかかるような私のような者も居る、ということ。

ただし、何度も言うように内容とは関係ないので、面白さとは別の話だと入っておく。



ふつつかな愛人達 発行 1993年6月1日(火) 出版社  アルトマン出版
      ふつつかな愛人達 共著
備考

官能小説に手を染めて以降、健さんの中ではもしかして明確に線引きが為されているのかも知れないけれど、その辺の愛乃形、のようなモノの輪郭が曖昧になってきたような気がする。恋愛小説が一筋縄ではいかなくなったような感じで、それは別に健さんだけに限ったことではなく、多少誇張して言えば、世間がそんな不毛の時代に突入したのだ。

その谷底が援助交際の時代で、そこから一気にネットが生活に侵食し、愛の輪郭を曖昧にしたままそのものズバリの世界になし崩しに移行してしまう。そりゃ、誰もが恋愛に怖じ気づくというか、奥手にはなるわな、と思わないでもない。

個人的には、恋愛はセックスから始まる、あるいは交際の始まりは初めてセックスした日から、と思っているので、私の中ではもっとあからさまに恋愛=セックス、という図式が成り立ってしまっている。それはかなりトラブルの種を内包しているのはわかるけど、逆に、セックスに寛容になればこの世の中のトラブルの半分は解決するんじゃないか、とも思っている。

昔エレクラで、恋愛にもバックアップを、という曲を作ったけど、おそらくそれに最も抵抗するのは、男性の方では無いかと思う。その最右翼が、結構健さんの価値観だったりするのではないかと邪推してみたりとか。



JOY 発行 1993年6月10日(木) 出版社  近代文藝社
      JOY 共著
備考

短編集。岐阜時代に健さんの著作を集め出してから、常に探してはいるモノの、やはり波がある。まとめて手に入るだけをかき集めるようなタイミングが、今までに何度かあった。その一番最近のピークが、この際全部と意気込んで、一年かけてネットで集めた2013年のこと。その時は、かなり旧いモノにまで手を伸ばし、結構な出費を覚悟して揃えた。それでも全部というわけにはいかなかったけど。

別に健さんに限らず、例えばエレクラをやり始めた頃などは、全く他のバンドの曲とか聴く気にならず、CDを全く買わない日々が続いたり、そういう波が所々にある。健さんの著作を集める時期以外は、すなわち少し疎遠になっている時期でもあって、理由はいろいろあるけれど、簡単に言えば情報が届かなかったことが大きいのだ。

だからネットに繋ぐまで、知らない作品がたくさんあったのだ。それでもひとまとめに健さんの著作リストのようなモノで、完全なモノがあまりなく、なるべく多岐にわたって網羅できるようなリストを作ろう、というのがそもそもこういうページを立ち上げた趣旨だったってこと。

ちょっと話が逸れたけど、そうやってネットで集めると、届いてみてびっくり、ということもたまにある。例えばこの本には表紙の裏に、謹呈、と書かれた帯が挟んであった。おそらく関係者に配ったモノの一冊ではないかと推察するけれど、せっかくもらった本を旧本に出すなんて、と思ったのだ。全く内容には関係ない話だけど。



カナリア 発行(単行本) 1993年8月1日(日) 出版社 ミリオン出版
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1997年4月25日(金) 出版社 幻冬舎アウトロー文庫
共著
カナリア カナリア 備考

健さんの官能小説第二弾。昔不祥事で幽閉されていた頃、ある人にもうエロ本とか飽きたから、何かもっと他にエッチな小説とかない?と尋ねられ、私は村上龍を奨めた。ちなみにその頃、私は官能小説ばかり読んでいて、尋ねてきた人はそういうのを望んでいたかも知れない。でも、見たところ頭の良さそうな人だったので、エッチな場面以外でも面白いですから、と村上龍を選んだのだ。普通の人、つまりエロ目的でないならまず「69」から入るように進言するのだけど、それは置いておいて「コックサッカーブルース」とか奨めたのだった。

村上龍は普通にさらっとSMシーンを挟み込んで、そこに熱はない。思うに村上龍の場合は、嗜虐に傾いているのだと思う。支配する側に熱があっては、される側の悦びは半減する。一方で、健さんの場合は、羞恥に重きを置いている。どちらかというと支配される側に感情移入する。

支配する側も、支配される側も、その欲求を裏打ちしているのは快楽だ。変な言い方だけど、村上龍と健さんの作品を併読すると、両者の快楽の様が表裏一体に思えて面白い気がする。それは言い方を変えれば、責任を背負うか放棄するかの二者択一で、セクシャルな意味に限らず、人間の根本的な欲に繋がっているのだなと思う。

文庫本の表紙は、なんだか如何にも、っていう感じに仕上がっているけれど、単行本の方の表紙、そして挿絵は秀逸で、あまり好きな表現じゃないけど、ドエロ()。でも決して下品じゃないのが、健さんの文章にマッチしていて本当に官能的。いわゆる官能小説も、もうちょっと洗練してくれたらなぁ、とこういう作品を読むと思う。



カーズ 発行 1993年10月25日(月) 出版社  実業之日本社
      カーズ 共著
備考

車に纏わる短編集。こういう表現が正しいのかどうか、あまり車に詳しくない私にはわからないけれど、いわゆる旧車、と呼ばれるモノを一台ずつピックアップしてテーマにしている。これも読んだのはごく最近で、だからなのか、以前はバイクや車の名前が出てきても、イマイチピンとこなかったけれど、今なら直ぐにネットで調べて画像を見て確認できたりする。ついでに私はプラモデルも作っているので、ここに出てくるクルマをプラモで、とかカタログ的に見たりとか。

全く作品の趣旨からは外れるのだけど、作品の中にフランス詩人を大学時代に先行していた男が登場する。幾つかその一節を口走るのだけど、それを読んだのをきっかけに、私はボードレールやらリルケやら、詩集を読み始めた。というのも、毎年年間何十冊、という読書目標を立てていて、詩集だったら結構スルスル読めて冊数稼げるんじゃね?と単純に考えたからだ。

もちろんそういう不純な動機だから、読むだけ読んで、良く分からずに数だけこなし、という惨憺たる結果に終わった。表現とか、何か胸に来るモノを期待していたけれど、やはり何も残るものはなかった。それは全く、私の感受性の欠落によるモノに過ぎないのだけど、自分の不勉強さにも呆れたよ。



安息の地 発行(単行本) 1994年9月9日(金) 出版社 幻冬舎
単行本 文庫本 発行(文庫本) 1997年12月25日(木) 出版社 幻冬舎文庫
共著
安息の地 安息の地 備考

実際に起こった事件を元に、入念な取材を経て書かれた長編小説。その頃の苦労は特に車に纏わるエッセイに書かれていて、あまりに長い取材期間を経たために金に困ってポルシェ911を手放した、という逸話が残る作品。

家庭内暴力を扱った作品としては、テイストが「さよならの挨拶を」に似ている。感じている疎外感は一緒でも、結末が似ているようで違う。その結末、最後に主人公は「すまない、許してくれ」と口走る。そのことについて、エレクラの初代ボーカリストと随分と議論になった。詳しくは覚えていないのだけど、今まで散々馬鹿にしてあからさまに牙を剥いてきた相手に、反撃されたとはいえ、なぜ断末魔に許しを請うたのか?それが人間の業なのか、そうではなくもっと別の意味があるのか、そんな事を話し合った気がする。

あまりおおっぴらに出来る話ではないが、隠しても仕方がないので言うと、一度不祥事を働いて長い長い裁判の途中、保釈という形で家に帰ってきた直後、なぜかこの本を読んだ。まぁ、主人公の父の裁判中の姿を読み返しておきたかった、という意図があったのだけど、なんだか逆に余計に攻められているように思えて情けなかったな。

 

(文庫・再読)

新刊で読んでから半世紀近くしてまた、読んだ。その間に、私は随分と人生経験を積んでしまったものだ、と思ったね()。いろいろと思うことはあっても、それを集約すると、そういう感想になる。なぜなら、身につまされるというか、読むのがしんどくてね。健さんの作品は、エンターテインメント小説、なんて言われるぐらいだから、どこか勢いに押されて読むことが出来る快感のようなものがある。それはとりもなおさず、健さん自身の業(ワザ)、なんだと思う。しかし、勢いはそのままに、向かうべき先がどんどん閉塞していく。押されるよりは、追い込まれる、引きずり込まれるブラックホールみたいな感覚。

それは、似たような感覚で「さよならの挨拶を」にもあった。少なくとも初めて「さよならの挨拶を」を読んだ時には、切実なほど身体に突き刺さるものがあったからで、それは言葉を換えれば、強い共感、ということになるのだろう。

そこに年齢的なモノも多分に加味されていて、例えば、経験的なものに加えて涙もろくなってくる年齢()というのもあるのか、「暗く深い脱出不可能な穴」を読んだ時に、「痛いよう、痛いよう」というそれだけのフレーズに居たたまれなくなったことがある。それと同じ感覚を、クライマックスの場面で感じた。

上記のように、最初に読んだ時に「許してくれ」という台詞で議論した、というところも、なんとなく今なら分かるような気がするというか、この場合、どっちの感情も分かるようになっていた自分に気づいた。あえて感情移入すると言えば、やはり息子の方になるんだろうけど、私の場合突き放す形で父親を葬ってしまったからなぁ。それも含めて、ここに流れている話の波の中に、ずっぼり流されてしまったよ。

余談だけど、これを読んだついこの間、見城徹氏のWEBテレビに健さんがゲストに出ていて、この本に触れていた。見城氏曰く、もう山川健一自身はいいから、ということでノンフィクション・ノベルになったらしい。それで、タイトルも見城氏の意見で今のものになったということ。ついでに言うと、文庫版に着いている解説も、なかなか的を射ていて、ここに書こうかなと思っていた感想をしっかり述べられていた。健さんの文庫本って、案外解説も印象に残るものがあるのだ。

 



窓の外を眺めながら、部屋のなかに座っている。 発行 1995年7月25日(火) 出版社  実業之日本社
      窓の外を眺めながら、部屋のなかに座っている。 共著
備考

このタイトルを見ると、少なくとも文章のリズムや言葉の選び方を、私が健さんから強く影響されているのがわかる()。アンソロジーで発表された作品を含む、短編集。最近手に入れたのだけど、そういうアンソロジーモノは全部揃えていたと思っていたのが、巻末の初出を見て一冊まだ持っていないモノがあったので、急いで手に入れた。私はコレクターではなく、喩えそうであっても、飾って眺めておく様なことはしない。小説なら読んでナンボ、CDなら聴いてナンボ、更にギターで弾いてナンボ、奈乃だ。だったら、これを読んだらもうイイじゃない、と思うかも知れないが、そこはそれ、やっぱり揃えておきたいでしょ()



多重人格の女神 発行 1995年8月1日(火) 出版社  ぶんか社
      多重人格の女神 共著
備考

これをポルノグラフィととるか、あるいは散文詩を含む詩集ととるか。ただ、美しい姿態は言葉を呼ぶんだよ。それが裸でも服を着ていても。「カーズ」がきっかけで詩集を数多く読むようになったけれど、それより以前にこれを読んだので、散文詩、という感覚はなくもうちょっと違うショートストーリーという感じで読んだ。昔、アーティストの歌詞を集めた詩集にインタビューを絡めたようなグラビア本が幾つかあったけど、そういう感じに捉えて読んだ。U2の「プロテスタント」というその手の本は、高校生の頃のバイブルだったなぁ。



欲望 発行 1995年10月11日(水) 出版社  ベネッセ
      欲望 共著
備考

健さんの作品の出てくる登場人物はほぼ例外なく外車に乗っている。若い頃はそういうものだと思っていたけれど、クルマにあまり興味を持っていなかったので憧れることはなかった。それよりはもっと、憧れや執着といった感情のメカニズムを知ることの方にドキドキした。

実際自分が免許を取って、最初に乗ったクルマはボロボロのミラ・パルコで以前妹が乗っていたモノと同じグレードだったけど、初めてハンドルを思うがままに操る、ということを覚えた。それでもクルマ自身に対する憧れは生まれず、どんな車でもイイから運転することの楽しさに執着した。すると外車なんてモノは遠い世界の話になってしまった。

登場人物が外車以外の車に乗る作品は、おそらく唯一「ここがロドスだ!ここで跳べ!」だけだと思う。しかし、外車に乗っていない健さんの作品の主人公、というモノに今度は違和感を覚えることになる。全くおかしなモノだと自分でも思う。

ミラ・パルコはその後、信号無視で突っ込んできた初心者マークによって、見事に運転席を中心にしてくの字に曲げられ、同時に私の骨盤にヒビを入れてそのまま廃車となった。かつぎ込まれた病院で私は、意識がもうろうとしたまま、一週間後にストーンズのライブがあるけれどいけるかどうか、何度も尋ねていたらしい。結局、大阪ドームには行けず、約一ヶ月、病院のベッドの上に吊られて過ごすことになった。



b.とその愛人 発行 1997年1月25日(土) 出版社  実業之日本社
      b.とその愛人 共著
備考

官能小説、特に「スパンキング・ラブ」を書いてから、健さんの描く女性像が変わってきたような気がする。少なくとも「ロックス」に出てくる、男に献身的な女性はもう、どこにも見当たらない、というのは言いすぎかも。ただ、なんとなくだけど、私の拙い表現で申し訳ないけれどゴージャスになったような感じ。見た目が派手だというわけではなく、もちろんそれもあるけれど、もっと自己主張が強いというのか、そんな感じが表に出てくる。

特に、金融をテーマにしている頃に至ると、それがそのまま欲望と直結しているので、時々どうしようもなくエロスを感じてしまう。そういう女性にホワイトニットを着せたりするので、健さんは侮れないのだ。

それをひっくるめてドカッと現世に引き戻されるのが、例の「ここがロドスだ!ここで跳べ!」で、清楚というよりは生活感に溢れた女性で軽自動車に乗っていたりする。地に足の付いた女性というか、結局そういう女性に男は頭が上がらないのだろうな、と思う。



アップル・ジャム 発行 1997年7月7日(月) 出版社  中央公論社
      アップル・ジャム 共著
備考

パソコンと呼ばれるモノから始まる様々な結節点や、あるいは思想なんかを、そのままサイバー・ワールドと言ってしまうのにはどうしても抵抗がある。かといって、こういう小説をパソコン小説、というとスゴく陳腐で申し訳ない。インターネットもそれを駆使するパソコンという筐体も、全ては道具なのだと割り切っていると、おかしなモノでその向こうにあるモノが世界そのもの様な感覚も湧いてくるから不思議だ。

発行年を見ると、1997年というのに驚く。まぁ、確かにその小説に出てくるように、DOS画面なんて今の若い人には全くチンプンカンプンだろうし、それだけサイバー空間がそのまま現実の世界と溶け合っているということなのかも知れない。私はパソコンというモノに触れるのが、ちょうどWindows98SEが出たばかりの頃で、インターネットは電話回線、外付けHDDSCSI接続だった()。友人から中古のパソコンを安く分けてもらったのだけど、買って直ぐにHDDを飛ばしてしまい大変な目に遭った。でもそのおかげで、コマンドプロンプトでOSの少し深い所に手が届くことを覚えて、結構無茶をやったモノだ。レジストリなんて訳もわからず弄ってみたりとか。

現代はそういうものが全く表に出てこないようになっている。それがセキュリティーというか、私のようなたった一つのコマンドでHDDを飛ばしてしまうような、そういうエラーを少なくすることには成功しているけれど、逆にブラックボックス化して、道具というよりはもっと軽いモノに成り下がっている気がする。

そういう意味で、インターネットも爆発的に広がる前夜、といった頃を舞台にしたこの作品は、もっと個人と世界が身近で、いわばネットやパソコンというモノの面白さを十二分に楽しめた時代だったはず。いかんせん、その時代を知らない世代には果たしてこのいかがわしさと、楽しさが伝わるかどうか。インターネットがいかがわしくなくなった頃から、世界はずっとつまらないままなのだ。



君たちは世界の新しい王様 僕らは嵐の中で生まれたII 発行 1997年11月4日(火) 出版社  東京書籍
      君たちは世界の新しい王様 僕らは嵐の中で生まれたII 共著
備考

自伝的小説の第二弾。第一弾のあとがきで、毎年刊行していきたい、と仰っていたけれど、実際は四年後となった。そして第三弾は、未だ世に出てはおらず(2016年時点)。高校も卒業していないのだ。

ただ、現実の体験やそれに伴う感情を、どんな形であれフィクスするというのは難しいモノだと思う。変な言い方だけど、自分の体験を文字にした途端に、忘却というベールを伴ってその経験は色褪せていくような気がするのだ。どれほど面白い体験をしていても、それがどれほど人生の中で重要な意味を持っていても、その運命からは逃れられない気がする。それは、表現者として重要なインスピレーションになるけれど、難しい所である。

なんて偉そうに話しているけど、あくまでもそれは私のような才能のない者が考える、ゲスの勘ぐりでしかなワケで、実際はそんな領域軽く飛び越えているのが健さんをはじめとする第一線の作家さんなのだろうと思う。



ヴァーチャル・エクスタシー 発行 1998年3月15日(日) 出版社  幻冬舎
      ヴァーチャル・エクスタシー 共著
備考

仮想現実がセックスにまで波及する、というお話。DNAというモノを、単純に複製回路と見るか、あるいはフローチャートのようなモノとみるかで、生命に関するものの見方が変わるのではないか、と個人的に思っていて、新しい発見や発明なんかは、すでに生命のプログラムの中に組み込まれていて、ある日オセロみたいにくるっと表裏がひっくり返って、それが発想になるんじゃないか、と思っている。フローチャートとみれば、そこに至る筋道を、丁寧に辿っていく感覚。

結局人の営みのほとんどが、デジタルの世界に飲み込まれていくのが未来の姿なのかも知れないけれど、ではその自由な世界に取り込まれるのを是とするか、アナログな生身に拘るかによっても未来は変わる。戦争だって、なんかゲームみたいに、国連安保会議の席上、戦力とか人員とか財政とかいう条件設定をして、カラカラカラとコンピューターにかけたら結果が直ぐ出て、ハイそっちが負け、ってなると、誰も死ななくて済むのかも知れない。果たしてそれは、ボタン戦争の時代より進んでいるのか?後退しているのか?

それはさておき、ネットはエロが牽引した、というのは男の誰もが信じているフォークロアで、確かに90年代から20世紀に移る辺りは、一度はKDDに料金を支払って一人前、みたいな所がありました()。今はネットにもそういうドキドキワクワクする感覚が無くなって久しい。それもまた、良いことなのか悪いことなのか、そう考えること自体アナログな感覚なのか?



ニュースキャスター 発行(単行本) 2001年1月10日(水) 出版社 幻冬舎
単行本 文庫本 発行(文庫本) 2002年2月25日(月) 出版社 幻冬舎文庫
共著
ニュースキャスター ニュースキャスター 備考

少し前に、BSのクルマ遍歴を紹介する番組で久米宏さんがゲストで出ていた。そこでこの小説が話題に上っていて、久米さん本人が、これ私が主人公のモデルなんですよ、と仰っていた。その通り、わかりやすいと言えばわかりやすいし、健さん自身もハッキリとは明言していないけれど、匂わすぐらいには言及していた。当時久米さんが乗っていたクルマを知っているのは、作者にお会いしたことはないのになぜだ?という風に笑っていた。

私は当時満濃にある木工の会社に勤めていて、帰りに時々寄る土器川沿いの大きなスーパーの中にある書店で、この本が平積みになっていたのを見て直ぐに買った。なんだか長く、健さんの本には逢ってなかった気がして、ものすごく嬉しかったのだ。長編だけど、あっという間に読み終えたんだった。

(文庫・再読)

新刊で買って、それから十五年、文庫版で読み返すと、やはり気づくのはメディアの移り変わり。この作品が書かれた頃は、まだメディアの中心はテレビだった。だから皆恐れもしたし、注目もした。思えばその最盛期、あるいはメディアバブルが弾ける寸前の最も輝いていた時代を過不足無く写し込んでいる気がした。

グラデーションのようにこの作品中でも、次なるメディアの波、インターネットが描かれているけれど、未だ萌芽の時代で、ごく私見ではそれがこの後、アメリカ同時多発テロの時にちょうど入れ替わったんだと思う。その頃のことを、私は本当に良く覚えている。

当時私はケータイを持っていなかったので、連絡するなら夜の十時、と特にエレクラのお嬢さん方には言っていた。その時間なら、必ずニュースステーションを見ているから、というのがその理由。つまり、ニュースステーションを見るのが無くてはならない日課だったわけ。同時多発テロの時、すでに私の部屋にはネットが引かれてあって、ニュースステーションで実際の映像を見ながら、ネットでより詳しい情報を探っていた。情報源は主に「2ちゃんねる」で、例えばなぜあんなに簡単にビルが崩れていくのか、なんていう事を建築の専門用語が飛び交う中、興味深く見ていたのを覚えている。

まだまだインフラが追いついていなくて、やはり映像のインパクトは大きかったから、その点でテレビはアドバンテージがあった。しかし、情報、それは憶測や、不謹慎なヤジも含めて、大量に溢れていたのはネットだった。ニュースで流れる映像は同じモノの繰り返しで、そのインパクト以上の興味を、実は自分達は欲していた。それをネットが十分とは云わないまでも、補完していたのだ。

そこから急速にネットが動画の時代になって、テレビのインパクトは薄れていった。今ではもう、ネットの下にテレビという媒体はぶら下がってしまっているようだ。そもそも、テレビの番組でネットでどこでも見られるような動画を、平気で流して喜んでいるようでは、矜持も何もあったもんじゃない。

ただ、もっと奥深くの、人間が抱える闇や、欲望のようなモノの昇華の仕方は、メディアが何になろうと変わらない。スペックは上がったけれど、精神的には何も変わっていない、というより成長していないような気がする。新たなメディアの出現は、テレビという王様を通して希望を垣間見せてくれたはずだったのに、実際にはまさしくメディアが変わっただけで終わってしまった。あの頃あった希望は、少なくとも今は実現する欠片すら見えないのが現状だ。

そんなようなことを感じながら、この文庫版の最後の50ページ読んだとき、これこそが山川健一!というような感慨に胸を突き動かされた。ストーリー展開と、それを実に饒舌に語っていく語り口、これが読みたくて健さんを追いかけているんだよ、と思わずにいられないまさしく山健節炸裂、と私は思ったのだった。一度読んでいたはずなのに、いまさら何を、って思うけれど、やはり面白いものは何時の時代に読んでも面白いのだ。

その流れを汲んで、健さんに政治家の話を書いて欲しいな、ってちょっと思った。まさしく、今の与党の、それも老獪な政治家を主人公に、健さん流のエンターテイメントとしての物語を読みたくなった。もしこれを、読んでもらえたら、ぜひ、ご一考ください()

 



ジーンリッチの復讐 発行 2001年9月10日(月) 出版社  メディアファクトリー
      ジーンリッチの復讐 共著
備考

久しぶりのSF風味の長編小説。遺伝子、そして最新宇宙の理論がちりばめられていて、そういうのが大好きな私は夢中で読んだ。ちょうど職場の専務と喧嘩して仕事を辞めた後、失業保険をもらいながら職業訓練校に通っていた時期で、通学のJRの中で読み進めていた。

健さん自身を、元々かなり不純な動機で読み始めたのと一緒で、遺伝子に纏わる話も、宇宙理論も全部、女の子を口説くために勉強する。例えばこの時期、その訓練校の同じ教室にいるお嬢さんに、世界はたった四つの力しかないんやで、という風に言って、ポカンとさせたりしていた。そのおかげ、ではないけれど、私はその学校でCAD級の資格と、新しい職場と、そして何年かぶりに彼女を手に入れたのだった。

この本を読んだあとに直ぐ、何冊か宇宙理論の本を手にしたのだけど、結局読み終わらないうちに私の人生でかつてないほどの多忙な時間がやってきて、彼女もろともそのまままとめて捨ててしまったのだった。惜しいコトしたなぁ。



歓喜の歌 発行(単行本) 2003年3月30日(日) 出版社 幻冬舎
単行本 文庫本 発行(文庫本) 2004年10月5日(火) 出版社 幻冬舎文庫
共著
歓喜の歌 歓喜の歌 備考

おおっぴらに云うことでもないのだけど、私が不祥事を働いて約一年間幽閉されていた間、生活はサバイバルそのものだったけれど、それ以外に考えることもなく、結構シンプルに自分の底、みたいなものを見つめ直していた。その直前、いろいろあって自分の中の不必要なモノを、ほとんど捨ててしまった。捨てなかったのはCDと、ギターと、パソコンと、一部の本だけ。健さんと村上龍と銀河英雄伝説を残して、あとはマンガから雑誌まで何もかも捨ててしまったのだ。パソコンも、本体以外は旧くなったモノは買い換えて、音楽機材も結構売ったり新しいモノに交換したりした。

そのおかげで、今自分の中に置き去りにしてはいけないいくつかのモノがあることを知り、それは中途半端に寄り添うだけではいけないな、と思ったのだった。その手始めに、先ずは健さんの本、と思って買った最初の本。その前の数年間、本を読むのもままならないほど忙しく、塀の中で結構読んだけれど、それでは満足できなかったのだ。

その一方で、その直前健さんに会う機会があって、最も身近に健さんを感じていた頃でもあった。その思いを含めて、自分の不始末で全部を汚してしまった、という思いにうちひしがれて、ひたすらもがいていた。やってしまったことは仕方がないけれど、それによって今までに大切にしてきたあらゆるモノを、自らで傷を付けてしまったという感覚は耐えがたいモノがあり、それに救いを求めることすら罪悪に感じていたのだ。

しかし、泣き言ばかり言っていても先には進めない。なんとか、立ち直るきっかけがないか、と健さんに手紙を書こう、というようなことを考えていた。しかし、何度も書いては消し、書いては消し、して結局は出せなかった。それからしばらく空白の時間が訪れるのだけど、その代わりというのもなんだけど、とにかく健さんの作品は全て読もう、と決意もしたのだ。

発表された当時は、ブログが登場する直前で、ホームページと掲示板が主流だった。もちろん、頻繁にチェックしていたし、時々掲示板に書き込みなんかもしていた。それがその幽閉から帰ってくると、完全にブログに移行していて面食らったモノだ。その後私も本格的にブログをやるようになって、それが少しずつ、私の中に新しい芽を育てていく。ネットの好い所は誰もが平等に、同じ情報に手が届くこと。それまで新刊情報なんて、地方都市にはなかなか届かなかったけれど、どこにいても直ぐに知ることができる。それなのに、数年後になってやっと手に入れるのは、幾らか慢心があったのかな、なんて思う。

(文庫・再読)

記憶が曖昧なままなのだけど、これを単行本で読んだときか、あるいはそれよりずっと前か分からないけれど、この度文庫本で再読している内に、そういえば「肥大するコンプレックス」というようなことを考えていた時期があったな、ということを思い出した。

誰もがおそらくは大なり小なりコンプレックスを持っていて、そして多くの人がそれをどうしようも無く自分を世界から隔絶するモノ、と捉えている。だから皆、若い頃はコンプレックスの塊で、なんていう風に表現をする。それは決して間違いではないし、それが未来へドライブするキーワードにもなり得るのだから決してネガティブなモノでもないとは思う。

しかし、現実、それは本人にしてみればずっと辛いことなのだ。

娯楽に通じるモノは、だいたいそのコンプレックスを忘れる、あるいは無力化することに繋がっていて、だから人は強く惹かれるんだろう。私の場合音楽が拠り所であるのは、決して芸術とか表現とかいうモノは後付けの言い訳であり、まさしく、自分をコンプレックスから遠ざけるための手段なのだ。もっとも、それがまた新たなコンプレックスを呼ぶという、厄介なモノでもあるのだけど。

インターネットは、匿名性という力を得たときから、最も有効なそのコンプレックスから逃れる手段、というより克服するツールとして多くの人が希望を抱いていたのではないか、と思っている。しかし、結局、コンプレックスの告白は、人を蔑み、誹謗中傷する「ネタ」にすり替わり、癒やしどころか、憎悪の種を蒔く世界になってしまった。正しそれも、結局現実世界と何も変わらない、という結論に辿り着いてしまうのだ。

この作品を読んだから、というわけではないけれど、多くの宗教がまず、この世は辛苦の極みにある、というところから出発していて、そこで生きている以上逃れることは出来ないのだ、と教えている。ならば、このまま布団の中で惰眠を貪っていれば少なくとも幾らかの幸福は得られるのに、何で仕事行かなきゃ行かないんだろう、というような思考が、ひどく叩かれる結果になるのに、私はどうしても納得がいかないのだ。それが現実なのだから、といわれて、じゃあなぜその現実を変えようとしないのか、理想を追求しようとしないのか、と考えてしまうのだ。最後にはそういう青臭い考えは辞めろ、と口封じをされる。好んで歳を取るわけでもないのに、それは最も卑怯な言い様だと思わずにいられない。

つまり、幸福の在処が分かっているのに、手が届かない現実。そういうものとのギャップがつまりはコンプレックスを無限に産んでいるのではないか、と思うのだ。そうすると、さっき云ったように、やっぱり現実に帰ってきてしまう世の中は、ただコンプレックスが肥大していくだけの、希望も何もない世界、という結論になってしまう。

変な言い方だけど、今の穀潰し生活は、その意趣返し、みたいな面もあるのだけど、誰も信じてくれない。割りと楽にはなったけど。

健さんに昔、ストーンズのオフ会で、彼女に俺の好きなストーンズを体験させたくて連れてきた、という話をしたら、おまえはロマンチストだなぁ、といわれたのを、未だに良く覚えているのだけど、この作品は案外、ロマンチシズムに彩られているような気がほんのりとした。健さんがそれまでに描いていた愛の形とは、きっと少し違う。そして淡いけれども希望を紡ぎ出している。すると、案外現実を変えていこうとする最後の希望は、ロマンチストが担っているのかも知れない、なんて自分勝手に私は悦に入っているのだ。 



黒革と金の鈴 発行 2003年7月29日(火) 出版社  メディアパル
      黒革と金の鈴 共著
備考

これと「歓喜の歌」は発売されるのをホームページで知って、という流れは一緒なんだけど、なぜか先にこれだけ買って、読まずに、というか読めずにずっと置いておいた。不祥事直後はとにかく時間だけは腐るほどあったので、檻の中で読んだのだった。時系列は間違っているかも知れないけど、金融に視点が移る「歓喜の歌」以降と、その前の官能を引きずったネットを舞台にしたモノ、との端境期の作品じゃないのかな。

ホームページやブログなどで、新しいネットの活用を模索している時代で、メルマガとか、いろいろと健さんは多種多様な使い方をやっていた。正直言って、健さんに限らず、その一連のサービス全部には付いていけず、一度立ち止まるとたちどころに置いて行かれてしまう時代だった。それがちょうど、土日も休まず働いてた時期と重なって、プライベートなパソコンって結局メールぐらいしか使わなかったような毎日を送っていたので、あっという間に健さんの情報発信からも取り残されて行ってしまう。

せっかく新刊情報とか、近況とか入手しやすくなったのに、全く活用できないまま、時間が過ぎていった。今となっては、何やってたんだろ?っていうほど、無駄な時間になってしまったけれど、その経験があるから今は、適度な距離というモノが計れるようになった気がする。前にブログで話したけれど、アウトプットばかりで干涸らびてしまった、と思っていた時間が、実は経験として自分の中にインプットされていた、というようなね、今になってやっとリカバリーできるようになったというか。そういう事情も含めて、最も健さんと疎遠になりかけていた頃に発売された作品。



夜の果物、金の菓子 発行 2006年3月27日(月) 出版社  幻冬舎
      夜の果物、金の菓子 共著
備考

世の中はバブル後の後始末がなかなか進まず、全ての話題が経済に纏わることばかり。その中に登場した何人かの起業家が、ある者はバッシングされ、ある者は矢面に立たされ、と出る杭は打たれる日本の風習に翻弄されておりました。

その中のある事件をモチーフにした作品。これも不祥事から帰ってきてから直ぐに読んだ本で、今見るとなんか裏表紙に変なシールが貼ってある。留置場で読んだ記憶はないんだけど、読もうと思って入れるだけ入れたのだっけ?記憶は曖昧だけど、そういう殺伐とした気分が残ったまま読んでいたので、なんだか素直に読めないというか。特に金融のことになるとその頃はからっきしダメだったし、例のバッシングとか事件とか、蚊帳の外、と思っていたのでピンとこなかったんだな。捕まった人にはシンパシーを感じていたけど、同じ境遇として(笑)。



ここがロドスだ、ここで跳べ! 発行 2010年6月24日(木) 出版社  アメーバブックス
      ここがロドスだ、ここで跳べ! 共著
備考

新聞連載の小説。残念ながら私の地元の新聞では掲載されなかったので、書籍化されてやっと読むことが出来た。その頃はブログで横並びに繋がることが出来る時代になっていて、私のエレクラ・ブログも、健さんの話で繋がる方も何人かいて、さらにはこの感想文などをアップしたりしたのだ。それが健さんに伝わり、ブログで紹介してもらい、かなり舞い上がった()。その時の感想文はこちら。今ブログを読み返してみるとエラそうなコトを書いているモノだ。

まぁ、読んでもらうようにはしたのだけど、ありがとう、程度で終わると思っていた。ただ、文体が独特で、と言ってもらったのに、私はいたく感激し、それこそが一番の褒め言葉だな、と思って今でも変わらない語り口で、ブログ他、語っております。



人生の約束 発行 2015年11月25日(水) 出版社  幻冬舎文庫
      人生の約束 共著
備考

事実上書籍としては今のところ(2016年時点)最新の文庫本。同名の映画のノベライズ。映画は見てない。でも、久しぶりに健さんの本を書店で探す、という体験は私をウキウキさせた。いつも行く多度津の宮脇書店は、本なら何でも揃う(注文すればね)というキャッチフレーズのわりに、在庫にも限界があり、店舗によって偏りが酷い。なのに、ちゃんと新刊のコーナーに平積みで置いてあるのを見て、アアこの感動は何年ぶりだろう、なんて思ったよ。

健さんの作品にはずっと長い間付き合い続けているからかも知れないけれど、何を読んでもどんな作品でも躓くことが少ない。時々意味を理解しようと頭を捻ったり、戦争物とか古典モノだと漢字の読みや意味を調べるために度々中断する。あるいは文体そのものにどうしても違和感を感じて直ぐ眠くなるとか。健さんに関してはそれが極めて少なく、だから、かなり外れのない安全パイのような感じで読んでしまう。

それがいいことか悪いことかわからないけど、例えばこの作品のように映画のノベライズも、映画に執着があれば別だけど、作品単体として楽しめるかどうかは、健さんだからこそ、という要素が不可欠だったような気がする。健さんが描く人物像、舞台の情景などが、ちゃんと健さん節になっているので、ノベライズであることを忘れられた。メディアミックスの時代に逆行するようだけど、やっぱり表現ってものはそうでないと、なんてエラそうに思ったのでした。



iNovel 山川健一作品集 Angels 発行 1999年11月30日(火) 出版社  メディアパル
      iNovel 山川健一作品集 Angels 共著
備考 「天使が浮かんでいた」「鏡の中のガラスの船」「さよならの挨拶を」「水晶の夜」収録

この作品集が出版された時のことは、断片的にでも覚えている。なぜなら、中でも触れられているように、インターネットが加速度的に生活の中に入ってきていた時代で、私もその直中にいた。当然、健さんのホームページにも幾度となく訪れていて、ネットという新しい世界が可能にする事柄をワクワクしながら見ていたのだ。

ただ、iNovelsというシリーズ名を見た時、すっと腰が引けてしまった。健さんの作品なら既に読んでいるし、という理由もあったけれど、その頃ぼつぼつと顔を出し始めていた、紙に代わる出版のようなモノ、似たような名前のケータイ小説みたいなモノを想像したのだ。そしてそれは、私にはどうも踏み込めない代物だったのだ。

その感覚は今でも残っていて、やっぱり一枚一枚ページをめくって読み進めていくというスタイルから、私は逃れられないのだ。

山川健一全集を刊行する、というのがこの作品群の目的だったが、結局二冊発刊されたところで打ち止めになっている。代わりに、紙とは違う形態で全集が発売された。それに触発されて、このLicksも産まれた()

因みに、今ある積ん読をすべて読み終えたら、私も端末を買って、電子書籍に移行しようと思う。ただ、それはずっとずっと先のことのように思える。もちろん、最初に買うのはJackと決めている。

初期作品集、と括ってしまうと、私はそれぞれの作品の中に込められた想いに、ずいぶんと打ちのめされたような気がする。それはまったく私の私的状況が為せる業なのだが、ネガティブに滑り落ちていく時の言い訳に、特に「さよならの挨拶を」などは繰り返し利用してしまった。一種破滅に向かうゴールに寄り添う世代というモノと、すっかりシンクロさせてしまっていたのだ。知性あるモノ、誰だってそういう時期はあるよ、と云ってしまって良いモノかどうか、今でも迷う。他人には迷惑な話だからね。

それでも、そこに込められた心の形を「天使」と表現するところに、私はシンパシーを強く感じてしまうのだ。そして、未だにそこからは逃れられていない、という証拠なのかもしれない。

だから作品を楽しむ、という以上の親密さで、どうしても読んでしまう。今回も、また「さよならの挨拶を」を読むのか、変なことにならなければ良いな、などと思いながら、やはり状況的には幾らか心の呂律が狂う直中にあり、でも、努めて冷静に読んだのだ。

そのおかげなのか、初めて作品を楽しむ、という本来の目的で読めたかもしれない。文体の持つリズムや、表現の心地よさに触れて、それがとても刺激的だった。上手く表現出来ないけれど、とても素敵な文章だったんだな、とこの度は思ったのだった。

余談だが、このLicksを立ち上げたおかげで、別の形で発表されたモノと比較することができる。例えば、水晶の夜では、マイコン、なんていう表現が一気にインターネットに接続、とアップデートされていたりする。そして、なぜか、主人公の名前が変わっていたりする。村野が森沢に変わっているのは何か意味があるのだろうか?



iNovel 山川健一作品集 Rocks 発行 1999年11月30日(火) 出版社  メディアパル
      iNovel 山川健一作品集 Rocks 共著
備考 「どこか狂った川の畔で」「ロックス」「蜂の王様」「セイヴ・ザ・ランド1999」収録

iNovels/Angelsと同時に出された姉妹本、Rocksと題されているだけに、ミュージシャンが主人公の作品が収められている。確かに健さんのRock小説を挙げるなら、「Rocks」「蜂の王様」は必至だけれども、「SAVE THE LAND」が選ばれているところが何とも健さんらしい。この作品はこの度1999と後ろに付いて大幅に加筆されている。

環境問題や原発についてを題材にしている小説で、主人公はミュージシャンだが音楽を主体として描かれているわけではない。ライブのシーンや歌詞が印象的に挟み込まれているけれど、そのものが示唆しているのは音楽がもたらす高揚感や快楽とはかけ離れている。他の作品がそうでないわけではないけれど、「SAVE THE LAND」はもっと秘めた精神が別の処に向けられている。

だから、Rocksなんだ、と私は感心したのだ。

スピリット、と言葉にしてしまうとなんだか陳腐だけど、結局僕らはロックって何だ?音楽ってなぜこうも俺たちを惹きつけるんだ?ということに拘りつづけながら生きていくことを、半ば自分に課しているようなものだ。そうすると、例えばストーンズの曲をギターで弾いていても自分と対峙することに気付く。その瞬間にロックそのものが輝き始める、という経験をすることになる。

そして、自分を紡ぎ出すように曲を作ったり、小説を書いたり、絵を描いたり、もっと日常的に映画を見て感動したり、ドキュメンタリーに触れて涙したり、近所の迷惑駐車に怒ったりするのだ。その裏側で、ロック・スピリットが絶えず背中を支え、押しているのだ。

この作品集に収めるために手を加えられた「SAVE THE LAND」だけど、その後また、福島の事故が起こり、そういう意味で言えば、この小説は常にアップデートしつづけられる運命にある。だからといって健さんは「SAVE THE LAND」という作品に拘泥はしないだろうけれど、その事実自身が、今の自分達の環境を深く示唆している。そういう意味で、ある種の現代社会におけるバイブル、と化しているのかも知れない。

ちょうどこの本を読み終えた時、我が香川には台風が迫っている。今年(2018)は超巨大台風がいくつも発生し、上陸も五つを数えた。酷暑が終わると北海道で地震、自然だけでなく社会そのものにも不穏な空気が漂っている。

その中で、私は日々血圧を計り、体重を気にし、予防的に処方された薬を飲み、食事に気をつけ、それはつまり、長生きをしようとしているのだ。本能的に、痛いのがイヤなだけのはずが、気がつくと生きながらえることに邁進している。そんな自分は一体何だろう、とふと思ってしまう。

SAVE THE LAND」の中でも、それが1999となっても答えは描かれていない。健さんが日々発信する言葉の中にも、ある種のアンビバレンツの中で苦悶している様子が滲んでいる。果たしてそれもロック・スピリットが輝きを放つ依り代となるのか、それは未熟な私にはまだわからない。

でも、こんな私でも、生きようとするんだな。



高校教師 発行 2003年3月15日(土) 出版社  幻冬舎
      高校教師 共著 野島伸司
備考 ノベライズ担当

世間の衝撃を与えた大ヒットドラマの続編、のノベライズを健さんが担当。書名は脚本の野島伸司名義。ノベライズというものが、どこまで作家の手が及んでいるのか私はよくわからないけれど、これはやはり野島伸司作品、といった赴き。一度健さんに逢った時に、このノベライズの話もして、元は脚本があるから、というような話を聞いた。だからなのか、台詞が多い。ほぼ、台詞で話が進んでいく。だからなのか、健さんの作家性というのか、持ち味というのか、そういうものがあまり感じられない。

ここでドラマの話をするのもどうかと思うけれど、確かに最初の「高校教師」というドラマはそれまでにない独特の世界観があって、毎週ワクワクしながら見ていた。ちなみにこれを読んでいる2022年、BSで再放送をしています。これはその続編ということで、やはり最初のハードルは高かった。それでも毎週見ていて、正直、最初の衝撃程の感慨はもたらさなかったのをよく覚えている。

それから時を経て、ストーリーもほとんど覚えて居らず、そういう意味では新鮮な気持ちで読むことが出来た。しかし、これを健さんの作品に並べるのは、私個人的にはちょっと引け目を感じる。なので、これは健さんの仕事の一部、ということでラインナップ。 



プライド 発行 2004年3月31日(水) 出版社  幻冬舎
      プライド 共著 野島伸司
備考 ノベライズ担当

高校教師と同様、野島伸司作のドラマのノベライズを健さんが担当。ノベライズ、という仕事が何処まで昨夏の個性が及ぶのか、或いは許されるのかわからないけれど、コレを健さんの作品、とするのはやっぱり無理がある。それでも、なにがしか健さんの言葉が入ってるはずなので、一応リストに加えておく。

件の高校教師とは違って、元のドラマも見ていない。このドラマの前の作品はしっかり毎週かぶりつきで見ていて、次作キムタク主演、という時点で見るのを辞めたドラマだということはハッキリ覚えている。健さんがノベライズを担当するなら、見ておけば良かったと少し思うけれど。

では翻って、健さんの手による作品と、ノベライズという作品には、明らかに違いがあって、それがきっと健さんの魅力なのだろうと思う。台詞などは動かせないから、きっと健さんの作品ではこんな事言わないだろうし、ジョークも今ひとつ。そして何より、リズムが違っている。どこがどう、という細かいことはわからないけれど、明らかに健さん本来の作品に没入していく時のある種の陶酔感というか、渦の中に巻き込まれていくようなまさしくリズム、というようなものがあって、それはこの本の中にはなかったな。

話としてはそれなりに面白いんだろうし、ありきたりでも万人受けはするだろうと思う。逆にノベライズでキムタクの顔も台詞回しもなかったから、最後まで読めたのかもしれないけれど。まぁ、だからといって、ドラマが配信されていたら見るか、といったら私は見ないけど()