「月子先生だけど、私がトモのプレゼントの相談に行った時にね、進路の話になったの」

明日菜は僕の手を握りながら、そんな風に話し始めた。

「決まったの?って訊かれたから、ハイって、横浜の短大ですって、言ったのね。月子先生はあんまりそのことには興味ないみたいで、どっちかというとギターはどうするの?っていう方が大事みたいで、向こうでもギターは弾けます、弾くつもりです、って云ったら、それは好かった、って云ったの。プロを目指すの?って云うから、下心はあります、っていつものように応えたのね。その下心、って云うのが月子先生はツボだったみたいで、あなたらしいわ、とか言うのね」

握った手に、もう一方の手も重ねて、あすなは僕の腕に体重を預ける。僕の肩のところに、明日菜の側頭部が押しつけられた。ほんのりとシャンプーの香りが漂ってきた。

「最後には、ずっと続けなさいね、って念を押して言われたんだけど、本当はトモにも絵を続けて欲しい、って云ってたわよ。趣味でいいから、辞めないで欲しい、って」

「同じこと、さっき言われたよ」

「どうなの?絵は続けるの?というか、どうせだったら、絵の学校とかには行かないの?」

それを叶えるんだったら、僕は月子先生と同じ大阪の芸術大学、と決めていた。だけど、それは両親の意向には反することになる。それは別にいいとしても、明日菜とも離ればなれになることになる。それがあるから、最初に選択肢から外れた。

それ以前に、僕にとっての絵は、それほどに自分を支配するほどの真摯なものを持っていない、という諦めがあった。明日菜が、下心、という風に表現した、チャンスの置き所さえ、僕は自分には最初から無縁だと思っていた。そして、そこに賭ける勇気も、僕には希薄だった。

そういう自分を見つめたくなくて、最初に外したのだった。

僕が首を振ると、明日菜はそう、とだけ応えた。

「それはいいんだけど、トモの将来だし。でね、その時に、あなたにプレゼントする絵を描いているみたいよ、って教えてくれたのね」

「案外、月子先生っておしゃべりだよな」

僕が肩をすくめると、明日菜はまたクスクス笑いだした。

「愛されているわね、って月子先生は相変わらずあの調子で云うから、全然気持ちが入ってないっていうか、本当にそう思っているかどうかわからないんだけど、でも、今日はちょっと違ってて、それから急に私に語り始めたのよ」

明日菜は僕の腕に絡めた手を、ダッフルコートのポケットに押し込んできた。そのポケットには、ハンドタオルとスキンの入ったケースが突っ込まれていて、僕はハッとしたけど、明日菜には今更、何も隠せない。

「進路とか、仕事とかは、まぁ、なんとでも成るものよ、ってね。習うより慣れろ、でトップは取れないかもしれないけれど、喰うには困らないだろうし、その傍らで好きなことを続けていければ、きっとその人生は幸福と言っていいんだって。月子先生の持論だけど。だけど、恋愛は違うんだって。恋愛はね、一番好きな人と、添い遂げることが出来なくても、とことんまで行くところまで行くのが一番なんだって」

「あんまり高校生に話す話じゃないね」

「そこが月子先生のいいところなのよ」

そう言う明日菜は、僕のポケットのスキンケースを指で弄んでいる。

「今は別れ易い時代だから、恋愛もダメ、ってなったらすぐに代わりが効くんだって。でも、一番好きだった人と、完全燃焼できてないと、けっこう後々まで燻ったままやっかいなのよってね。それは本当にやっかい、なんだって。だから私は、それがとんでもないDV男でも?って訊き返したのね。最初から、そういう男に惚れる方が間違いだけど、それもまぁ、失敗してわかるってこともあるし、お奨めはしないけれど、否定はしないよ、だって」

僕はぼんやりと、なぜ月子先生は、明日菜にそんな話をするんだろうか?と思った。

「それって先生の実体験こもってる?って訊いたら、先生が恥ずかしそうに頷いたのよ。あの月子先生がよ、赤くなっちゃって」

思い出し笑いをした明日菜は相変わらず、スキンケースで遊んでいる。

「先生が高校の時に、好きな人がいて、それが文化祭が終わった途端に学校に来なくなって、それっきり辞めちゃったんだって。会話も満足に出来なかった片思いだったんだけど、先生は最後に勇気を出して、その理由を訊きに行ったんだって。そしたら、高校生活はお腹いっぱい、ってだけ言って、それっきり。今はもう何をしているのかも何もわからないって。それが、今でもずっと胸に焼き付いていて、なかなか忘れられないんだよね、って先生は遠い目をして云っちゃうのよ」

月子先生は、確かもう四十歳手前で、それでいて独身だった。とびきりではないけれど、いくらか外国人の掘りの深さを残した美人だから、それなりにモテるだろうと思うけれど、そういう噂も聞かない。

その理由が、今明日菜が言ったとおりなら、案外先生も、普通の女の人なんだな、という気がした。

「その人、とてもピアノが上手かったんだって。文化祭もバンドをやるため、なんとか我慢して学校に来てたらしいのね。私とギターの話をしたから、きっとその人のこと、つい思い出しちゃったのね」

僕は顔を上げて、高い木立の向こうを見た。その向こうに、僕らの通う高校がある。もうすぐ僕らはそこを卒業する。月子先生は、今日はもう帰ったのだろうか?

 

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