「モラトリアム、って考えると、大学の四年間はとても有意義な時間だと思うのね。私の頃は就活、なんて言葉はなかったけど、三年の終わりにはもう躍起になっていて、私は教職も取っていたからそれはもう大変だったのよ」

月子先生は関西の有名な芸術大学を出ていた。そこは僕の好きなアニメの監督や、特撮映画のスタッフがたくさん卒業しているところで、いくらかの憧れを持っていた。

「絵は描いてなかったの?」

「その頃はもう彫刻一本で、でも、卒業の年には何一つ、完成までは行かなかったなぁ。それで実は卒業も危なかったんだけど」

先生は傍らの机に片膝をつけて、手の甲にあごを載せると、窓の外を見ながら懐かしそうな目をした。

「これでも、卒業してからはしばらく、広告関係の事務所でデザイナーみたいな仕事もしていたのよ。ほとんど雑用ばっかりだったけど。ただ、その時思ったのは、好きなことって仕事にしちゃいけないんだろうな、ってことなのよね」

「ねぇ、それってさっき言ってたことと矛盾してない?好きなことを一生するには、それを仕事にした方がいいんじゃないの?」

「だから、仕事、となると、違うスキルが必要になってくるのよ。好きよりも優先するスキル、っていうのかな?そういうことを身につけることがまず先決で、好きと、仕事を一本に集約できる人っているのは、それこそ天才なの。この世界に一握りの限られた人にしか許されてないのよ」

先生が喋ると、ショートカットの髪が僅かに上下に揺れて、少し離れている僕のところにまで、いい香りが漂ってきていた。今日は休日で、学校には運動部の生徒しかいないせいなのか、普段の授業の時とは全く違う香水の匂いだった。甘く、そして透き通るような上品な薫りだった。

「私は父さんがそうだったから、自分もそうだと思ってたし、周りも村岡先生のところのお嬢さんだから、という感じでさぞかし絵が上手いだろう、売れる彫刻を作るんだろう、みたいな感じで云って来るから、勘違いしていたのね。

いつかは独立するつもりだったし、仕事を辞めて、ちゃんと彫刻と向き合おうとした途端に、何も出来なくなっていたのね。衝動がなかったの。形だけ整えて、魂がそこにはなかったのね」

ガフの部屋は空っぽだったのよ、というアニメのセリフを、僕は思いだした。

「それで初めて、私は気がついたの。私は作ることより、見る方が好きなんだな、って。それで、今の私があるのよ。ココの講師が決まって、ちょっと時間があったので、なんとなくすることってやっぱり彫刻しかなくって、そうしたら、あっという間に立像ができあがったのね。それが、忘れていたというか、自分でも惚れ惚れするぐらい、イケメンの立像なのよね」

イケメンの立像?と僕は繰り返して、続いて思わず吹き出した。失礼ね、と月子先生は云って、結局一緒になって笑う。

「あなた、さすがに美術専攻じゃないでしょ?」

ひとしきり笑った後、まじめな顔に戻って、月子先生は改めて尋ねた。

「あなたの絵は、好きに、留めておいた方がイイと思う。きっと、そっちの方が女の子は喜ぶわ。あなたって、そっちの方がいいんじゃないの?」

「それって僕には才能がないってこと?」

月子先生はそのことには明確には応えなかった。その代わり、しばらく考えて、絞り出すように一言云った。

「聖域、かな」

逃げ場、と間を空けて付け加えて、そこから先は自分でわかっているでしょ?と言った。僕は納得しないまま、唖然と先生を見つめた。その時チャイムが鳴った。腕時計は、いつの間にか、ギリギリの時間を指していた。

 

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