僕は明日菜のステージを三年間、あちこちで見て、特に観客の多い体育館のステージでは、いくつかの出来事に立ち会っている。その最たるモノに、ステージからボーカルの男を蹴り落としたことがあって、それは未だに語りぐさになっている。ステージの後、生徒指導室にわざわざ放送で呼び出されて、相当怒られたみたいだけれど、明日菜自身は、平然としていた。

ただ、その時のステージの上の、明日菜の苛立ちは、僕にも感じられた。何が原因かはわからないけれど、歯車が軋んでいるようなぎごちなさが最初からずっと漂っていて、明日菜自身の立ち位置がどんどんずれていくのが見えるようだった。それを軌道修正しようと、明日菜はずっと自分を鼓舞し続けて、上手く行かずにもんどり打って転げていく、そんな感じだった。

その不満を、ボーカルはとばっちりとして受け止めさせられたわけだけど、なんとなく遊び半分なような、演奏とか云うよりも違うところに目が行っている奴だというのはこっちからもわかって、仕方がないのかな、という気もした。

今年は、そのボーカル選びに苦労したけれど、一年下の神様を見るごとく明日菜を慕っている女の子が担当することになって、もう蹴り落とすことは出来なくなった。テクニック、という意味ではきっと蹴り落とされた方が上だったろうけれど、真摯さに置いてはその彼女には及ばなかった。明日菜にもその辺のことはちゃんとわかっていたに違いない。

それが結果、ステージの上では、ひどく緊迫した雰囲気になっていて、ある意味悲壮感すら聴こえてきた。明日菜にしては、ずいぶんと売れ筋のキャッチーな曲を織り込んで、楽しい雰囲気は用意されていたのに、際立って二人が極度の一生懸命さで、暴走と言ってもいいぐらい突っ走ったのだ。

明日菜はステージの後、高校最後だからオリジナルを用意して、失敗できない、とか、セッションの時の得も言われぬエキサイティングな瞬間を手に入れようとして、空回りした、と言った。でも楽しかったし、全然思うところまでいけなかったけど、今までで一番楽しいライブだった、と僕の前では笑顔になったのだった。

でも、僕にはその楽しさはよくわからなかった。空回り、というよりも、明日菜もボーカルの彼女も、無意識のうちにあの時に、自分を縛る自分自身と格闘していた気がする。ステージの衣装は、制服と決まっていて、明日菜は普段からギターを抱える時は何処でも制服なんだけど、それをその時初めて、脱ぎ去りたい、と願ったんじゃないか、という気が僕にはしたのだった。

そして、それが僕には羨ましかった。裸になるまで突き詰めてゆく真摯さというモノを、僕は持ち合わせていなかった。僕に出来るのは、こうして絵にすることぐらいが関の山で、それもずいぶんと軽く描いてしまった気がしてならなかった。

これが僕の三年間の成果なのか、と思うと、僕は後悔を感じずにはいられない。別に悪い出来ではないけれど、きっとまだ小手先なんだろうという気がした。それを自覚している自分が、もっともやりきれない。本当のアーティストなら、エイっ、とキャンバスにナイフでも突き立てるところなんだろうけれど、それすらする勇気はない。

限界とはほど遠い、僕の中途半端さの現れなんだろうな。

 

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