明日菜は今年の夏、ギターを抱えてずいぶんとあちこち出歩いた。明日菜には、センセイ、と呼んでギターを習っている年上の男の人がいて、その人と一緒に、セッションという名の下に高松のスタジオをあちこち廻っていた。この夏休み、僕と会うのはその合間を縫って、とさえ思うほどに熱を上げていて、逢えばその話ばかりだった。僕の知らない、そして初めて聞く名前が逢う度に増えて、専門用語を絡めて、そして最後にはとても嬉しそうな顔をした。

その顔を見るたびに、僕はいつか、ギターに負けるんじゃないか、というような不安を感じるようになった。明日菜はわりとすっぱりと、その決断を下すことが出来るんじゃないか、と僕は思っていた。だから僕は、なんとなく藪を突いて蛇を出さないように、と努めて慎重に明日菜と接するようになった。

気がつくと僕は、足下が覚束なく、宙ぶらりんで漂っているような、そんな気分に陥っていた。明日菜以外の何かに、僕はすがるモノがないような気がして、ひどく心細かったのだ。

結局それは、絵を描くといういわば禁断の手、でしか補完できなかった。明日菜にとってのギターが、僕にとっての絵、という風に翻訳することでしか、自分の覚束なさを救う手だてはなかったのだ。

ただ、それほどに僕は、絵に執着しているのだろうか、明日菜にとってのギターと同じくらいの真摯さを持って、と思うと、僕はまた不安に滑り込んでしまう。その繰り返しで、冬が来てクリスマスになった。

一応の満足、それが一番、覚束ない。

 

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