予兆というものは、この世界に来ると不思議な感触に思えた。予感の類いはだいたい悪いことを引き寄せるのが常で、負の感情というものがずいぶん薄れたこの世界では、縁遠いのものだと思っていた。

だが、急に周囲に立ちこめていた空気が緊張したのがわかった。それは水が温度を下げて凍る様に似ていた。クリーム色の明滅が鈍くなり、逆に白がちになり、やがてそれは固まったように一色になって動かなくなった。

そして空気そのものが晴れて透明になり、古い昔のパソコンで描いたワイヤーのような輪郭が浮かび上がると、それは四方を囲んだ壁になった。白が透けて、その向こうに部屋があった、というような感覚だ。

壁は最初白一色だったが、やがて朽ちていくように汚れはじめ、ところどころに染みのようなものが浮かんだ。それが中心からどす黒く、やがて赤色に染まっていく。その染みが部屋全体を覆うのはあっという間だった。

気がつくと、真っ赤な部屋の真ん中に、私はいつの間にか立っていた。

周囲を見回し、赤の色に戸惑っていると、長く忘れていた嗅覚が蘇ってきて、私の鼻腔を強烈な臭気が匂った。

その時閃いた。この赤は血の赤だ。

そう思った瞬間、目の前の壁の真ん中に、うっすらと切れ目が入り、それが左右に分かれて開いた。

中から強烈な光が差し込み、私は手で目を覆わなければならなかった。

光が手ではなく何かに遮られ、その影が大きくなるとやがて光も弱くなった。目を開けると、背の高い影が二つ、私を見下ろしていた。

並んだ影の一方は髪の長い女性で、もう一方は屈強な体つきの男性だった。二人ともノッペリとして無表情な顔つきをしていて、精気を無くしたような視線で私を見つめていた。服装は曖昧だが、それは一瞬後、警官の制服に替わる。私がその視線に恐怖を思い浮かべた途端、その姿に変容したのだ。

記憶の中にその二人の顔は存在していなかったが、警察にはいい思い出がない。例えば大学生の頃、深夜に自転車でバイト先からの帰宅途中にパトロール中の警官に呼び止められた。盗難自転車じゃないかと因縁めいた職務質問を受けたのだ。その頃私はバイトと大学の講義に忙殺され、睡眠時間が数時間という毎日だった。その日は久しぶりに時間ができ、ゆっくり眠ることができる、と家路を急いでいた途中だったのだ。

彼等は執拗に何度も同じ質問を私に浴びせ、身体検査をし、また怪しんだ眼差しで頭から爪先まで睨め回した。それでもなかなか解放してはくれず、会話の途中で私は倒れそうになった。そのことにも難癖を付けられ、また同じ様なことが続く。

やっと解放された頃には意識ももうろうとしていた。結果、当時住んでいたアパートの手前の用水路に転げ落ち、私は右肩を骨折したのだった。

そういう苦い思い出が何度かある。原発管理会社の社長になってからは、私は警察に守られる立場になったけれど、嫌悪感はどうしても拭えなかった。

それが今、見下される恐怖を増幅して、事象となって現れたのだろう。そのことが私のイヤな予感を更に強く煽った。

女性警官の方に名前を問われ、私は素直に答えた。

すると今度は男性の方が、私が社長を務めていた社名を問うた。

「日本原電の、社長さんだったね」

私がやはり正直に、はい、と応えると、その男性警官は、何とも言えない、寂しそうな顔をして視線を反らした。

代わりに女性の方が、私の腕を取った。そしてゆったりと力を込めて引き寄せながら、こちらへお願いします、と囁くような声で言った。

「何ですか」

と私はやや乱暴に、その手を振り払った。すると女性警官の方も、男性と同じ様な寂しそうな表情で、私を見つめた。

「社長さん」

男性警官がそう呼んだ。警官らしい言い回しだ。

「残念だけど、天国での生活はここまでです。あなたには今から、地獄に移ってもらいます」

地獄?と私は訊き返した。幾分声が裏返っているのがわかった。不思議と、その言葉の意味するところは明晰にわかっているのに、私は抵抗しようという願望が沸き起こる。抵抗しても無駄だ、というのはわかっているのに、そうしなければならない、或いは、そうしないと先に進まない、というような心持ちで、なぜだ、といいながら後ずさった。

「社長さん」

同じ口調で、今度は女性警官の方が囁く。

「抵抗しても仕方ないです。社長さんの会社、とんでもないことになりましたから」

「ウラシマ第二原発、って社長さんのところの原子力発電所ですよね」

男の言うように、それは私が社長を務めた原発会社の所有設備だった。その浦島第二原発は、産業界の強い要請により、管理会社発足後初めて稼働させた発電所だった。

当時、エネルギー転換の時流から、原発の数を減らすのは必至だった。だが、ポピュリズムに負けて産業界の反発を招くことを嫌った刻の政府は、廃炉もするが再稼働もする、という方針を打ち立て、それを原発管理会社、つまり私の会社に委ねたのだった。政治家特有の玉虫色の決断だったが、私は引き受けた以上、国の方針に異を唱えず、粛々と実行した。それが最後のご奉公と、汗を流したのだ。

「そこが臨界爆発事故を起こして、日本が大変なことになっているんだよ」

「そんな馬鹿な」

新会社設立の折、フクシマの原発事故を教訓に制定された安全ガイドラインよりも、数段厳しい基準を備えたものを作った。そこには二重、三重の安全対策を敷き、フェールセーフを徹底させた。最悪の場合は、国の危機管理の投入を提起し、その為に自衛隊内に専門の部隊を創設させたりした。それを裏打ちするように、事故の際の賠償と補償を段階ごとに策定して、やっと周辺住民の納得を得たのだった。

「安全対策は万全のはずだ」

私は自分達の作った基準を絶対的に信じていた。専門家の何人かは、これでは原発は動かせない、という者まで居たところを、強引に押し切ったほどの高レベルの安全基準だ。重大な事故は起こらないはずだし、何かが起こっても、十全に対処はできるはずだった。

「でも、残念ながら、事故は起きてしまったのですよ」

男性警察官は、淡々とその状況を説明した。

曰く、浦島原発のすぐ脇を通る活断層を震源として、かなり規模の大きな地震が起こったらしい。それに伴う地滑りが原発ひとつを覆ってしまったらしい。津波は、波が引けば現状は戻るが、土に埋まると掘り返すのは容易ではない。その自重で、非常用電源も、冷却水の供給ルートもすべて押しつぶされ、頑丈な格納容器内の原子炉だけが残った。制御するものがすべて埋まり、核分裂反応だけが残った格好になった。

やがてメルトダウンが起こり、続いて水素爆発で放射能は拡散された。同じ場所にあった四基の原発が次々と、同じ様な事態に見舞われ、自衛隊の投入を待つまでもなく、周辺は死地と化した。

「今でも被害は広がり続けている、っていう報告が入ってます」

ます、という部分を強調したあと、男性警官は、私の腕を掴んだ。さっきの女性警官とは比べものにならないぐらいの力だった。

腕を取られて後、私の体は神経を無くしたようにされるがままだった。その力に抵抗する気も失せ、ただぼんやりと引っ張られるまま足を踏み出し、そのままあの赤い部屋を出て行ったのだった。

 

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