私という存在と、周囲に立ちこめる空気以外、目の見える範囲では何もない。何かがありそうな気配もない。ついでにいうならば、香りも音もない。

小学生の頃、法事で訪れた寺で見せてもらった天国を描いた掛け軸では、天女やら仏様が、歌い寝そべり、微笑ましく語らったり歌っているような人間の姿を覚えているけれど、アレはやはり想像でしかなかったようだ。人が望む快楽、とでもいうのだろうか、それを現したものに過ぎないのだな、と思う。

だからといって寂しいとか、退屈だとかいう感情もわき上がらない。いわゆる負の感情というものが一切ないのだ。あるのは、ただなにもなく平穏に過ぎていく、という事象だけだ。

おそらく、悦びや快楽といったものは、人が望んで作り出すモノではないか、と思うのだ。それが負の感情の正反対に位置するのではなく、人の心は常に平坦を求め、それが悪感情に括れると、押し戻そうとする。それだけが人の本来の営みなのだろう。

だから、結果としての天国は、ただひたすら何もなく、揺蕩うような存在が続くだけなのだ。

そんな、何もない世界にいても、今まで二度だけ、私は人という存在に出会った。

最初は、まだここに座ってばかりの頃だった。

目の前の明滅する空気がモヤモヤと泡立ち、その向こうから人の影が見えた。その影はやがて輪郭を露わにし、私の足元に音もなく立っていた。

微笑むその顔を見て、それが妻だとわかった。

妻には十年前に先立たれた。彼女とは父親に勧められるまま一緒になった。取引先の銀行の娘だった。四十年連れ添って、二人の子供を育て上げ、そしてあっけなく逝ってしまった。

私は家庭を顧みない仕事人間だったが、妻に対して、不貞も働いていない。大学時代に付き合った同級生と、妻以外に女も知らない。それでも、何か負い目のようなものを、妻に対しては持っている。長く付き合った者だから、それだけ現実というものが否が応にも浸食し、清らかな思い一色では済まないからだろう。

それでもこうして再会してみると、仄かな胸の高鳴りのようなモノを感じる。既に心臓は鼓動を無くしているにも拘わらず、動悸がして頬が紅潮するような、不思議な気分だ。

私は見たまま、妻に声をかけた。

「若くなったね」

実際、目の前の彼女は、初めて逢った時の顔立ちに、その時身につけていた和装だった。まだ二十代半ばの頃だ。若い女性にはシックな深緑の地に藤の花が淡く咲いて流れている柄の振り袖だった。ポッチャリとした瓜実型の顔は、とびきりの美人というわけではなかったけれど愛らしく、家庭を任せて大丈夫そうな安心感を滲ませていた。

その頃のままの姿の妻に、私はときめきにも似た感情を抱き、そして照れていた。

「いやですわ、あなた」

楚々と笑う彼女に、私は手を差し伸べたが、彼女の表情は変わらず、またその手を受け取ろうともしない。

その代わり、微笑んだままで、彼女はこう言った。

「会いたいと思っていただいて、私はそれだけで本望で御座いますのよ。現世の頃は、私はあなたのお背中ばかり拝見していましたものね」

その時私はハタと気がついた。彼女が若々しい姿で現れたのは、私の記憶の中で、それが最も強く印象づけられていたからだ。それから後は、記憶には残っているが、まるで残像のように一瞬で消えてしまう。老いていく過程を、パラパラとめくるように思い返すことはできるけれど、どれも印象が希薄だ。

私の気づきを裏付けるように、彼女は付け加えた。

「この世に来ると、それぞれがそれぞれの望む姿に見えるのだそうですよ」

望むというよりも、私の場合は彼女の姿は初めて逢ったその時で止まっている、ということなのだろうか。

「でも、会いたいと望んでいただいただけで、報われた気がします」

彼女はそう言うと、またクリーム色の空気の中に溶けるように消えていった。

その後、彼女の姿を私は望んだが、彼女は現れなかった。寂しいとも、無念とも思わなかった。理由はわからなかったけれど、例えば、またこの世界で彼女と二人きりでいる、という想像はあまりできなかった。それはそれで、予期せぬ事が起きそうな気がして、だからといってあまり深く考えることもなく、すぐに止めてしまった。

人は生きている内は他人との関係の中にあり続ける。そのこと自体がトラブルや、負の感情を呼び起こす大きな要因なのかもしれない、とここに来ると気付く。この世界の唯一絶対の法則として、苦痛と無縁でいられる条件があるならば、他者の存在は最も最初にオミットされるべきものなのだろう。

しかし、それでももう一人、私の元を訪れた者が居た。

そいつは妻とは違い、私の向かって左の方の空気をざわめかせて、現れた。やはり蔭のようなものが空気を震わせ、どこか忙しなく近づいてくるのがわかった。

姿を現し、目の前を通り過ぎようとしたところで、不図こちらに顔を向け、そして立ち止まったのだ。

私の鮮明な記憶の中でも、彼の顔は見覚えがなかった。まったく見ず知らずの男だった。

偶々通りかかった、と男は言い訳のように私に言った。こんな場所でそんな事があるのだろうかと幾らか疑問が湧いたが、深く言及はしなかったし、そのことが重大なことだとは思わなかった。

退屈していたわけではないのだが、話ができるという行為に懐かしさのようなものを感じて決して不快ではなかったのだ。もしかすると、私のその欲望のようなものが彼を引き寄せたのかもしれない、とも思うのだが、よくわからなかった。

若くもなく、かといって年老いているのでもなく、見たところ三十代後半ぐらいに見える彼は私の隣に、私と同じ格好で座った。彼が身につけているものは、私と同じように薄い生地一枚で、だが透けているわけでもない、周囲を取り巻いている空気と同じうっすらとクリーム色が滲んだ白色のワンピースだった。ワンピースといえば聞こえはいいが、もう少しゴワゴワした感触があると、手術着に見える。私がここに来る前に、胃の手術を受けたが、その時着せられたものと格好は同じだ。だが、肌触りはまったく違う。滑らかに肌に触れ、軽く、ともすれば全裸でいるのかもしれない、と思うほど自然に体に纏わり付いている。

ただそれも、本当に身につけているかどうかはアヤフヤだ。私が全裸でいることを善しとしないが為に、そう見せている、或いは思い込んでいるだけかもしれない。

すると、隣に座る彼も、その格好は私の願望の結果かもしれない。

「ここは、何もないところですな」

呑気な調子で彼はそう言った。私はハイともイイエとも答えなかったし、彼もそれを求めてはいないようだった。ただ、何か独白したい、というそんな調子だった。

見える風景と、誰もいないという事実は彼も同じ様で、やはり独り言のように、それに纏わることを訥々と彼は喋った。私は声には出さず、ただ頷いて相槌を打った。彼もそれで満足なのか、間の空いた調子で、思いついたことを順々に喋っていく。

「こちらは長いんですか」

しばらくして彼は私の方を向いてそう尋ねた。それは彼が初めて応えを欲した瞬間だったが、だが、逆に今度は私の方が戸惑ってしまった。

長い、という時間の感覚は、最もここで曖昧なものだと、その時気がついた。ここに来る過程を、つぶさに記憶しているのだが、それはいわゆるリニアなものではない。過去から未来に流れる一方向の流れの中には無く、まったく並列に並んでいるような感覚なのだ。だから、幼い頃の記憶も、今彼に会った瞬間の記憶も、まったく同じ時間の出来事に思えるのだ。

だから、長いのか、と問われれば記憶の量の分、時間を経ているような気がするが、一瞬の出来事のようにも感じられるのだ。

更に、きっと時間というものは相対的なもので、他人や何か別の者と共有して初めて、時間が進んでいることを自覚するものなのだろう。共有の感覚が、ここには全くなく、だから、私の長いと、彼が言う長いが同じ尺度や意味や価値を持っているのか、まったく計り知れないのだ。

だが、黙っているのも申し訳ないような気がして、とりあえず、まぁ、とだけ応えた。

すると、彼はまた独白を始めた。詰まるところ、自分の話のきっかけに私は利用されただけのようだ。

「私はね、随分と長くここにいるんですよ。というのもね、ついこの間まで地獄にいたんですよ」

地獄?と私は思わず訊き返してしまった。

彼は再び私の方をチラリと見、ニヤリと笑ってまた言葉を繋げた。

「私ね、現世であらぬ疑いをかけられまして、その嫌疑を晴らせないまま、獄中死しちゃったんですよ」

流行病にかかりましてね、と彼は付け加えた。

「それで、気がついたら地獄ですよ。閻魔様っているんですね、私には私に死罪の評決を下したお代官様そのままの姿だったですけど、彼がね、君は地獄行き、って簡単に言うんですよ。そこからずっとね、長い時間苦悶の日々が続くんです」

彼は自分に加えられた拷問の数々を、事細かに私に喋って訊かせた。それは聞くだけで残忍で容赦がなく、身の毛もよだつ業の数々だった。

しかし、私はそれを興味深く聞いたのだった。不快という感情は頭に浮かぶが、それはただの事象として好奇心が湧くだけで、怖いだの嫌悪だのという感情はまったく湧いてこなかった。それは倫理的にどうか、と疑問に思ったけれど、不快ではないという一点でなぜか納得してしまったのだ。

疑問が湧いたとすれば、彼の話に出てくる名詞の幾つかが、どうも私の知っている時代とは合わない、という一点ぐらいだった。

「私が一番ひどいと思ったのは、とにかく時間がまったく過ぎていかない、ってコトなんですよ。一応、地獄の攻めは時間が決めてあって、拷問道具の横には砂時計があるんですがね、その砂が一向に落ちようとしない。その間中、苦しみは続くんですよ。そして苦しんで苦しんでももう嫌だと言っても終わらない」

彼はそこでひとつ溜息をついた。

「でも、もう死にたい、と思っても死ねないんです。死んじゃってんですからね。最後の望みも絶たれているわけですよ」

それに比べてここは、と彼は言ったきり黙った。不図彼の横顔を覗くと、彼は涙を流していた。だが表情は曇っていない、どころか笑みが浮かんでいる。

「よくここへ来ることができましたね」

私がそう言うと、彼は感慨深そうに深く頷いた。

「冤罪だってわかったんですよ。現世で真犯人が捕まりましてね、慌てて私は地獄からこちらに転房になったんですよ」

転房?と訊き返すと、急に彼は照れたように笑う。

「すいません、最後の場所が獄舎だったもので、そこの癖というか専門用語が抜けなくて」

しかし、そういうこともあるんですな、と私が言うと、彼はまた正面を向いて頷いた。

「滅多にないことみたいですがね」

その時、私の中に疑問が生まれた。

では一体、天国行き、地獄行きを分けるモノは何なのだろうか、という素朴な疑問だ。というのも、私の現在の記憶のように、すべては鮮明にありのまま、刻みつけられているはずであれば、それを、この天国や地獄を差配する何者かが、審らかにできないはずは無いのではないか、と思うのだ。現世で罪人としても、それが免罪ならば、事実は動かせず、その事実を司ることを、この世界の支配者はできないのだろうか。

「神様か仏様かわかりませんが、彼等に冤罪は見抜けなかったんですかね」

私は素直に、そう彼に問うてみた。

彼は口の端を幾らか歪めて、皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「この世もあの世も繋がっているんですよ。人の思いや感情、好いことも悪いこともね、そういうものをひっくるめて成り立っている、ってそういうことです」

それは言外に、地獄行きを当然と見誤らす何かが、彼の中にあったことを滲ませていると、私は悟った。結局彼は罪は犯していないにしても、そのスレスレの場所には立っていたのだろう。

だがしかし、地獄天国と言っても、曖昧なものだな、と私は思った。まるで立ちこめる空気がそのことを誇示しているようにさえ見えてくる。

それから彼は、幾つか、地獄と天国の違いについて述べたあと、あまりお邪魔してもいけませんから、と腰を上げた。

「あ、そうそう、ひとつ参考になるかどうかわかりませんが、面白いことを聞いたんですよ」

地獄から天国への「転房」を告げに来たのは、あの時の代官らしいのだが、彼は言い訳をつらつらと述べたあと、最後にこう付け加えたという。

「もう少しで私は、地獄よりもっとひどい場所に落とされる予定だったらしいです」

「地獄よりひどい場所?

私はオウム返しにそう聞いた。

「どんな場所かはわかりませんが、そういう所があるらしいです」

怖いですな、そう言い残して、彼はまたクリーム色の空気の中に消えていった。

私の元に訪れたのは、結局その二人だけで、それ以外にはお目にかかっていない。なぜ彼等だったのか、それは特別なことなのか、ありふれたことなのか、そういう疑問もなくはなかったが、事実の前にいつの間にか消えて無くなり、私は相変わらず座ったまま、という状態に戻ったのだった。

 

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