オレの握ったドアノブが、金属的で重い音を発てた。そして向こうから掴み返してくるような威圧感。手首を返すように回されて、オレは慌ててドアノブから手を離した。
そして、また俺を押しのけるように、うすいクリーム色のドアがこちらに向けて開いた。
開いた隙間から、見慣れた顔がニュッと出てきた。
「おい、居るんなら電話ぐらい出ろよ」
無言で、ぼんやりした目をこちらに向けた、無表情の男にオレはそう悪態を吐いた。
オレの言葉は無視され、ヤツはため息を吐くと目を伏せた。そして、更にドアを押し開けると、そのまま部屋の奥へと消えていった。
後を追うように、オレは部屋に入る。靴を脱ぐ時、羽織ったコートのポケットに突っ込んだ手を離した。握っていたこの部屋の合鍵がポケットの底に沈む。
短い廊下を抜けると、やけに明るい蛍光灯が部屋を照らしていた。
低いテーブルに並べて置いたソファに、ヤツは腰掛けていた。脱ぎ捨てた服が何枚もその背もたれに無造作にかけられ、片方の肘掛けには毛布が丸まっていた。
物が散乱しているわけではないが、雑然としている。いつもこの部屋に来ると、その印象が強い。官僚的、と自分で揶揄する程律儀で生真面目な性格の男が住む部屋にしては、この部屋にあるものがとりとめもないのだ。
それはある意味、ゴミ屋敷と呼ばれるものに近い。他人にはゴミに見えるが、本人にはその一つ一つに存在の意味があって、またいつかそこに意味づけられることを待っている。それを持ち主が主張しても、他人には理解を遠ざける。
まったくそれと似た雰囲気がこの部屋にあった。
追い打ちをかけるかのように、テーブルの上には十数本のワインの瓶が並んでいる。すべて同じ銘柄で、どれもが全部、空になっていた。ほんのりとアルコールのにおいが充満している。安い赤ワインの匂いだ。それらは複雑に絡み合って饐えたような匂いに変貌している。オレは早く、ここから立ち去りたいと願う。
「おい、トモアキ、ちょっと外で飲まないか、おまえ飯も食ってないんだろう」
ヤツを名前で呼ぶと、少しだけオレを見上げて、すぐまた目を伏せた。そのままソファに横になる。
「こんな部屋で一日中居たって、気が滅入るだけだろ。なぁ、悪いことは言わないから、ちょっと外に出よう、奢ってやるからさ」
「イイよ、兄さん。別に大丈夫だから」
トモアキはオレのことを兄さんと呼ぶが、本当の兄では無い。一応親戚だが、ちゃんとしたその続柄の名称がすぐに出る程血縁が濃いわけでもない。たまたま近くに住んでいる親戚、として幼い頃から遊んでいた仲だっただけだ。
トモアキには妹が一人居るが、自分の上には居ないので、オレのことを兄さんと呼ぶのだ。年は三つ違いで、中学までは同じ学校に通った。高校は別で、オレもトモアキも大学は出ていない。オレは高校卒業と同時に、親父のつてで小さなゼネコンの営業マンになった。だがそこもすぐに辞めて、それから職を転々としている。
一方のトモアキは、高校三年の時、突然、学校に行かなくなり、そのまま退学した。その理由を本人に尋ねても、もうお腹いっぱい、としか応えなかった。共通の友人の話によると、イジメでは無いが、人間関係が絡み合って、そこから身を引いた、平たく言えば、逃げ出したのだ。
それからの職歴は、オレと似たようなものだ。その何度目かの無職の時間が、今トモアキに訪れている。
「大丈夫なわけないだろう、叔母さん心配してたぜ。仕事も辞めたんだろ?」
叔母さんというのはトモアキの母親だが、オレと叔母、という関係かどうかは定かでは無い。トモアキの父親は、昔から酒が原因のトラブルメーカーで、二度離婚している。最期を看取ったのが今の母親だが、トモアキと血のつながりはない。
「仕事を辞めたのは、別に、今回のことが理由じゃないよ」
「それは知っている。でも、今無職には変わりないだろう」
「失業保険でやってるよ、心配しないで」
トモアキはやっと、天井を見るともなくぼんやりとしたまなざしで、ニヤリと笑った。自虐的な笑みを、ヤツは時々漏らす。
オレは仕方なく、テーブルを回り込んでトモアキの頭の方へ移動した。そこには、ゲーミングチェアを据えたパソコンデスクがある。モニターはつけっぱなしで、アダルトビデオが流れていた。海外サイトの無料動画を、スクリーンセーバー代わりに流している、とトモアキは説明している。その裏で、小さなボリュームで、何かジャズのような音楽が流れていた。
オレはまったくそっちの方面には疎いが、トモアキは中学の時にギターを手にして以来、バンド活動に夢中だ。一時期は本気でプロを目指していたらしいが、今はアマチュアで満足している。ただ、時々オリジナル曲を作って、ネットに上げたりしている。視聴数アップに貢献してくれ、とメールをよこしてきたりする。
オレはパソコンの手前にある座椅子に腰掛ける。このリビングの横にもう一部屋あって、そこは今暗がりに包まれてよく見えない。和室だが、カーペットを敷いて、その上にベッドを置いている。
壁には本棚が並べられ、そこにぎっしりと本が並べられている。文庫、単行本、マンガ、DVDと綺麗に整理されている。トモアキはそのどの棚にどの本が置かれているのかをしっかり把握していて、例えばオレがマンガを借りようと訊ねると、トモアキは台所からどの棚の何番目、と応え、その通りに見つかるのだ。
そんな才能は仕事で役立てれば良いのに、とオレなどは思うが、トモアキはいつも、肉体労働に着く。スポーツとは無縁の文化系のはずなのに、仕事は身体を動かす職種ばかりだ。前職は、リサイクル業者で、重機を動かしていたらしい。
リビングと和室を隔てる壁に押しつけるようにテレビモニターが置かれていたが、その画面を見て、オレは呆れた。
女の裸を撮した画像が、スライドショーのように次々と流れていく。どれも、無修正であからさまに何もかもが写っている。素人が撮ったのだろう事が丸わかりの画像だ。
画像には主に女しか写っていない。そしてその女には見覚えがあった。
「トモアキ、テレビ消せよ、こんなもん見てるから、気が滅入るんだよ」
「別にイイだろう、それに気が滅入ってなんか居ないよ」
「嘘吐け、聞いたぞ」
誰に、とトモアキは問う。オレはトモアキと共通の友人の名前を出した。
「おせっかい」
トモアキはそう言っただけで、一向にテレビを消そうとはしなかった。だが、それをじっと見ているわけでもなかった。それよりは、ワインの瓶に隠れて置かれたノートパソコンの画面をチラチラと眺めていた。そこには、ブラウザが立ち上がっていて、何か幾何学模様のような、不思議な画が並んでいた。
「もう十年以上も前の話じゃないか、今更、こんなもの見返して、ついこの間まで、なんでもなかったじゃないか」
トモアキは何も応えない。ただ、オレの目をチラチラと見る。不思議とトモアキの目は、澄んでいた。よく昔から、目が綺麗、というのがトモアキの第一印象に上げられる。さすがに三十を超えてから、そんなことを言う者はいなくなったが、オレはトモアキのまなざしは嫌いじゃない。
普段は屈託がなく、明るい表情によく似合う澄んだ目をしているのだ。
それが歪む場面に、何度かオレは出くわしている。それは今から十年と少し前が最後だった。
オレはその時が最後になると思っていた。なって欲しいと思っていた。
だが、それは叶わぬ夢となった。しかも同じ悪夢で。
オレはため息を一つ吐いて、テレビのリモコンを探した。