「お前、泣かなかったな」

え?と私が聞き返すと、ばつが悪そうに、主は両手を上げて伸びをしてみる。

「悲しくはない、っていったじゃん」

そうだけど、と云ったきり、主は向こうを向いてしまう。背中越しに、私と会話する。

「この騒動で、俺が事務所に呼ばれて、マンションまで迎えに行った時に、お前ずいぶんブスッとした顔していただろ?苛ついているのがすぐにわかったけど、でも本当は、悲しいんじゃないかな、と勝手に思ってて、こっちは親心で気を回したつもりだったけれど、そうでもなかったんだな」

「それよりは、自殺とか心配してたんじゃないの?自分の責任?とかそういうのを、気にしてたんじゃないの」

それもある、と云ってしばらくして、だけど、と付け加えた。私はそれを遮って、悪態を突く。

「これからでもここから飛べるよ。ここからの方が、確実じゃない?」

冗談はよしてくれよ、と主が振り向いたので、私はダッシュする、真似をした。

慌てる主の顔を見て、私はおかしくておかしくて、笑い転げる。

「お前サ、冗談口叩いたり、適当にごまかしたり、そうしている内、というかそうできている内は、まぁ、俺もそれほど心配しないんだけど。だから、お前は信じないかもしれないけど、結構みんなそのことを心配して、解決を急ごうとしたんだ。その為の歯車の一つが俺だったんだけど、それもまた、結構みんなお前のことを心配した結果なんだぜ」

私はダッシュの格好から手足を流して、舞台でいつもオープニングでやっているダンスを踊ってみた。いつも、緊張が頂点に達した反動でステージに駆け出す、あの瞬間が一番好きだ。そして、このダンスを間違えないように、華麗に、なんてことを考えている内に、ステージは終わってしまう。だけど、それが心地よい。

自分に一番、向いていると思う。

「まぁ、いいサ、若いからな。羨ましくなるほど、若いからな。だから、これからいうことは、まぁ、オヤジの説教、ぐらいに聞いておいてくれ」

私は、かまわず、ダンスを踊り続ける。心地よさを、身体が訴えている。そのれに素直に反応すると、自然と身体が軽やかな流線型を描く。曇り空でも、空の下で体を動かすのは、こんなに気持ちイイとは思わなかった。

「落ち込んだ時には、落ち込んでいればいいと思うんだ。無理して笑ったり、元気でいる必要はないと思う。少なくとも、誰かのためにそうである、なんてことはよっぽどのことでない限り、ない方がイイと思うんだ」

今のお前みたいに、といって、ジーンズのポケットに無理矢理、手を入れて主は肩をすくめた。

「去年、大きな地震があって、それはもうよっぽどのことだったんだけど、数日も経たない内に、元気に元気に元気に、って云い出しただろ?俺は、その時に考えてみたんだ。こんなに悲しいことがあったのに、元気になる、いつか笑うとか、なんで今、云えるんだ?って。

理由は簡単だった。お金の都合だよ。元気じゃないと、お金が回らないんだ。それでなくても、お金が回らないことを、元気がないっていって隠していた所に、もっと落ち込むことになって、そりゃもう無理矢理元気にならないといけなくなったんだ。

だけど、それって酷いことだと思わないか?」

私はダンスを途中まで踊り終えて、手足を止めた。小さい頃にほんの短い間だけ習っていたバレエを思い出して、手先を伸ばし、つま先を立てて、静かに動きを納めた。

息を整えながら、私は主に視線を向けた。

「難しいことは、よくわからないよ」

まだ、息が逸っている。そうは云ったけれど、ぼんやりと、云いたいことのニュアンスはわかる気がした。

「震災の前にじっくりと時間をかけてだけど、ごく一部の人たちの間から、元気じゃなくても健やかでいられればそれでイイ、というような風潮が生まれて、それは確かにお金にはならないし、生活レベルも後戻りするような感じなんだけど、でも、なんとなく居心地は良さそうだった。そういうことが、本当にゆっくりとしたペースだったけど、広まっている矢先だったんだ。

まぁ、誰の思惑か知らないけれど、反動みたいなものが来たんだな。俺はそんな風に思って、一度あきらめたんだ」

何を?と、私は静止したままのポーズで尋ねた。

「無理をしないで生きてゆくこと」

何よ、それ。

ハハハ、と主は私の問いには答えずに、ただ笑って返した。乾いた笑いは、どうも曇り空には似合わない。

「とにかく、キツイ世の中になるんだろうな、ってそう思ったんだ」

今回のお前の態度を見ていると、余計に思い知らされたよ、と主は付け加えて、そのまま金網の方へと歩いていった。菱形の金網の目に手を引っかけて、遠くを見る。本当はここに来たかったのは、主なんだろうな、と思う。

でも、なんとなくだけど、今は主の云いたいこと、キツイ、といった一言の響きが、私にも干渉を始めている。まだ不協和音だけど、理解という周波数にチューニングを始めている。

「まぁ、どっちみち、ミスリードしたのは、社会を引っ張るひとりひとり、俺たちひとりひとりの責任なんだから、ツケは払わないとな」

 

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