「お前、刑事告訴しないのか?」

奇妙なことを主は云った。

「刑事告訴、ってなに?」

「警察に訴えるんだよ。今回のことを」

よくわからない、と私は返した。

「警察に訴えるって、つまり、逮捕とか、そういうことでしょ」

主は頷いた。

「俺も詳しくはないんだけど、俺の友達が、一度同じような目に遭ったんだよ」

「それって、捕まった方?捕まえた方?」

主は苦笑しながら、捕まった方、と応えた。

「女に振られた腹いせに、ネットに彼女の悪口を書きまくったんだ。ご丁寧にホームページまで作って、写真も上げて、個人情報バンバン書き込んで。それでその女に訴えられたんだ。そいつは、こういうのってせいぜい損害賠償とか、そういうので嘘は云ってない、っていうので通そうと思ったら、警察が来て一巻の終わりだったんだって」

「それでどうなったの?」

「実刑食らって一年ほど、松山で服役生活していたよ。今は、そこで知り合ったやくざの紹介で、風俗店の店長やっているよ」

あまり気持ちのいい話ではない。私はあからさまにイヤな顔をした。その顔を見て、主は苦笑に拍車をかけた。

「あいつと同じ顔するんだな」

「あいつ?」

「嫁さんだよ」

今度は主の方が肩をすくめた。

「そいつは結構イイピアニストだったんだ。俺たちの音楽仲間で、とても真似できない繊細な指を持ってて、本当に切ない音を出すんだよ。いつかまた一緒に、音楽やりたいと思っているんだけど、あいつがいい顔しないんだ。あいつは、捕まる前のそのピアニストを尊敬していた。それが、本当に馬鹿なことで捕まって、それ以来、嫌っているんだ」

被害者と同じ、女だからな、と主は独り言のように付け加えた。なるほど、さっき廊下の外を一度見たのは、そのことを気にしたからだったのだ。

 

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