不意打ちのように始まった菓子作りは、私に二つのことを思い知らせた。一つは、自分が無類の不器用ということ。それは前から知っていたけれど、あらためて知るのはちょっと癪だ。

そしてもう一つは、歳を取るということのしなやかさ。私のつたない手先に苦笑しながら、奥さんは年齢的にいえば、あなたぐらいの子供がいてもおかしくない歳なのよ、とふとこぼした。その言葉を裏打ちするように、根気よく、私の不器用に付き合っていた。それはまるで、子供の砂遊びを見守る親のごとく、だった。

見栄えの悪い、半分焦げたクッキーを囲んで、私たちは紅茶を飲んだ。主の隣に座る奥さんは、まさしく妻、だった。さっきまで台所にいた姿が母親なら、今はもっと、女の部分が大きい。変わり身、というよりは、その絶妙な女を助長するなにかの使い分けが、私には新鮮だった。

自分の母親のこんな姿を、意識したことはない。すでに親元から離れて何年も経っている。周りは私と同じような歳の人ばかりで、みな女の部分が突出して肌に滲んでいる。女性を謳歌しているといってもいい。自分もその一人だ。自分が女であることを、無意識に誇張している。それが、私の仕事でもある。

年上のスタッフの何人かの顔を思い出すのだけれど、ほとんどが独身で、どちらかといえば共通項を探しあって付き合っている。違いを鮮明に間に挟んで話をするのは、男性の、それもみな私たちを統率するような人たちばかりだ。

ただ、その辺の違いというには壁は低い。不思議な感覚だ。

奥さんの前で、主は子供だ。そこら辺は、私と変わらない。紅茶より、コーヒーが良いな、と主がいうと、こういう時は紅茶なのよ、とぴしゃりと云って終わらせてしまった。渋々甘い紅茶を飲み続けているのは、見ていて可笑しかった。

 

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