スタジオで音を出した後の事を考えて、僕は三好さんとは別に車を出す事にした。三好さん達はそのままスタジオに向かい、僕は一号をピックアップしてから後を追う事にした。

家を出ると早速三好さんは、国道の方へと車を走らせた。そちらは遠回りになるのだけれど、おそらくそちらの道しか知らないのだろう。僕は結局意地悪をしたまま、今日という日を終えてしまったような気がする。

僕は反対側へと曲がっていく。そのことに気づいてくれればよかったが、角を曲がると三好さんのテールランプはルームミラーからは見えなくなった。

そのまま細い道を抜けて浜街道を走る。もう夕闇が落ちていて、対向車線のヘッドライトが眩しい。休日の東に向かう道路は、いつもよりものんびりとしていて混んでいる。海岸寺を過ぎて二車線になると、気の逸った連中がどんどん僕を追い抜いていった。

一号の通う老人ホームはJRの駅の近くだったが、少し入り組んでいて見つけにくい場所にある。ウチに転がり込むまで、一号とユキちゃんは職場の近くのアパートを借りていて、一号は自転車で通っていた。今は電車通勤をしているので、僕はメールを送って待ち合わせを宇多津駅に変更した。

エンジンをかけたまま路上駐車すると、高架下のエントランスの方から駆け足で一号が走ってくるのが見えた。すぐに助手席に乗せ、僕は車をスタートさせる。

一号は乗り込むなり、こんなことだろうと思ってた、といって持ち歩いているバッグから、フュージティブの歌詞をまとめたクリアケースを取って出した。それを横目で見ながら旧国道へ入る脇道に車を進めた。旧国道を走って土器川の袂まで行くと、今回のために設営されたスタジオに辿り着く。普通なら十分ほどの距離だ。

しかし、今日は休日の、ちょうど帰宅時間のど真ん中だった。渋滞は浜街道よりひどい。どこかで工事でもしているのかも知れない。普段から、時間によっては混む道路だけど、ちょっと時間がかかりそうだった。

僕はその間、一号についさっき藤木さん達とした、恵子さんの話をした。もし、恵子さんが歌う事になると、一号は何曲かは歌わなくて済むが、練習が無駄になる結果にもなる。その辺を、僕は説明しておいた方がイイと思ったのだ。

一通り恵子さんの復帰の余地について、最後の扉は開けておくという話をし終えると、一号はあまり興味なさそうに、ふーん、とだけ言った。元々、普段のリアクションも素っ気ないのが一号の特徴だが、そのいつもの返事に、僕たちと新加入の温度差を感じた。

でも、藤木さんって優しいね、とだけ付け加えた。そして、何か気がついたように、ああそれで、と一号は言うと、フフっ、笑い声を漏らした。

「そんな事考えてたんだ、演奏中」

図星だった。昨日フュージティブ始動のミーティングの最後に、やっぱりちょっと音を出してみようぜ、とその時も三好さんが言いだし、僕らは楽器を準備した。とりあえず、そこにいるメンバーですぐに音が出せそうなインストゥルメンタルの曲があったので、それをやる事にする。

それは明日菜ちゃんを連れてフュージティブのメンバーとセッションをした時に、用意した曲だ。二つのギターリフで成り立っているのだけど、前半の変拍子部分を僕が考え、後半の流れるようなコード進行は明日菜ちゃんが考えた。

再会した上島さんと彼が連れてきたリズム隊でスタジオに入ったのが始まりだった。同じように、藤木さんとスタジオに入った時にも、そのオリジナルを演奏した。その時僕はベースに回って、藤木さんが連れてきたドラマーと音を出した。僕ら二人で作った曲だというと、藤木さんは素直に褒めてくれて、今度のステージでも一応やる予定になっている。

セッティングを終えて、三好さんがカウントを出す瞬間、僕はそれまでまったく意識しなかった緊張が、急に甦ってきて少し震えた。それがちゃんとフュージティブ再結成、として出す初めての音なのだ、とそこで気がついて慌てたのだ。

僕が考えたギターリフを、藤木さんが弾き、明日菜ちゃんが早速そこにメロディーを絡めていく。僕は三好さんの音に着いていく。昔からの癖で、バスドラばかり聴いている。ギターを弾いている時からそうだった。三好さんの足で僕は、リズムの要を捕まえるのだ。

スタジオ備え付けのベースアンプは、フラットな音作りにしていたけれど、バンドで合わせるとやけに低音が響いた。そのせいだろうか、やけにグルーブが走っている気がして僕は焦る。三好さんをチラリと見ると、随分と気持ちよさそうに叩いていた。リズムのヨレとか、あまり気にしていないようで、何となく僕はそれでホッとした。ブランクを感じさせない、といっても、やはり三好さんはまだ完全には勘を取り戻せてはいない。でも、そうやって音を重ねる悦びは、今この瞬間にしか感じられないのだ。

それなのに、僕は繰り返しのベースラインを辿っているウチに、ふと、構成表に隠れた秘密を思い出したのだ。その時は、ハッキリと藤木さんの意図は確認していなかった。だから、僕は藤木さんを見ながら、そこに何かの確証を見いだそうとしていた。

まったく自分でも、注意散漫なものだと呆れたが、でも、それだけ指が勝手にグルーブしているはずで、それは悪い気分ではない。今までにも、急に冷静にステージが見渡せる瞬間を何度か経験していて、そういう時のライブの出来は、けっこう上手くいっている事が多かった。

しかし、やはり音を出す事、重ねて、馴れないベースを弾く事で、案の定僕の逸れた注意は、藤木さんのその場の思いつきの合図に着いていけず、エンディングに入るタイミングを逸してしまった。せっかく上手く行きかけたところを、僕がつぶしてしまったのだ。

案の定、集中しろよ、と藤木さんに怒鳴られた。

その僕の後ろで、パチパチと拍手する音が聞こえた。僕は怒鳴られたバツの悪さで、少し顔をしかめて後ろを振り向いた。そこにはボーカル組がパイプ椅子を並べて、居座っていた。

真ん中に座る国民的アイドルが、凄い凄い、と囃し立てながら大げさに手を打っていた。いっしょになって一号も美麗ちゃんも拍手している。向こうで、ミキサーの前にいる何人かからも拍手の音がする。真ん中でミキサーを動かしている男は、かつての僕らの音を知っている。その男も昔を思い出したのか、拍手しながらやたらとニヤニヤ笑っていた。

そんな事にはお構いなく、向こうで藤木さんは早速上島さんのキーボードの前に行って何か指示を出している。後ろから明日菜ちゃんが近づいて、一緒になって聞いている。

ねぇ、今のオリジナル?と国民的アイドルは僕に訊いてきた。一応、と僕は自分のぶっきらぼうな声にちょっと戸惑いながら、そう返事をした。横から一号が、半分は明日菜ちゃんが作って、もう半分は兄ちゃんだよ、と説明する。

兄ちゃん?と国民的アイドルは僕の顔を見る。そして、兄ちゃんなんだ、といってまた大げさに笑った。

僕の事を明日菜ちゃんは先生と呼ぶが、それ以外は兄ちゃんと呼ぶ者が多い。元は妹が僕をそう呼んでいて、いっしょに住んでいた一号がそれを真似し始めた。妹の一人娘がいっしょに暮らしている頃で、いくらか言葉が喋れるようになると、やはり兄ちゃんと呼ぶようになった。

それに加えて最近、ユキちゃんが僕を兄ちゃんといつの間にか呼ぶようになって、そこに同席する事が多くなった藤木さんと上島さんも、時々僕を兄ちゃんと呼ぶ。冷やかされたり、チャカされたりする時は必ず、兄ちゃんという。

国民的アイドルは、もしかすると一号と兄弟という風に誤解したかも知れない。でも僕は敢えて訂正はせず、そのままにしておいた。

一号が何か言いかけたが、それより先に国民的アイドルは立ち上がって、僕に手を出してきた。その手は握手を求めているように見えた。素直に握り返すと、彼女はその手に手を重ねた。

「カッコよかったよ。ライブが凄く楽しみになってきた」

そう言って彼女は自然な笑顔で僕を見た。テレビで彼女をあまり見た事はないけれど、そういう類いのものとは違う、彼女の素直な表情なのだろうな、と僕は思った。そしてそれは、驚くほど美しく華があった。きっと、表面的なエンターテイメントの笑顔の裏に、こういうどこを突いても壊れることのない本物を携えていないと、表現は底が見えてしまって消え去ってしまうのだろうと、僕は感心した。

それにしても、やけに彼女の手が冷たく、そのことが気になった。それでも彼女は、手を離そうとしない。最後に、彼女は僕にこう言った。

「兄ちゃんのベースの音、私は好きよ」

僕はその言葉に急に照れた。思わず俯いてしまう。すると向こうから、大沼、と藤木さんが叫ぶ声が聞こえた。僕は慌てて返事をしてそちらに歩き出した。

ただ、彼女の手を離すのは、なんだか惜しい気がした。

 

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