かまぼことネギがのっかっただけのシンプルなうどん。何玉分打ったのかわからないが、四人で分けると一玉ギリギリ、といったところだ。量的には、二度目のうどんにはちょうどいい量かも知れない。

用意されている以上僕も食べないわけにはいかなかったが、何かと細かい用事を先に済ませるフリをして、他の三人の表情を伺っていた。言い出しっぺの三好さんは、早速割り箸を割る。ズルズルと盛大に音を立てて食べる。特に何の躊躇も無く、上島さんも藤木さんも後に続く。

「旨いよ、これ」

僕の予想に反して、三好さんはそう言った。それでも僕は懸念を捨てきれない。だが、うん、いける、といったのは藤木さんだった。

未だその言葉に信用がおけない僕も、やっとうどんに口を付けた。意外に、そのうどんはすんなり僕の喉を通っていく。特に代わり映えのしない、普通の味がした。そのことに僕は驚く。

ゆっくりとうどん鉢から顔を上げて、僕は妹を見た。ニヤニヤと笑いながら妹は僕を見ていた。

「ユキちゃんは料理が上手いね」

僕がそう言うと、途端に不機嫌な顔になって、僕の脇を小突いた。

「昨日から寝かせたヤツを今日の昼前に踏んだんですよ」

はしゃいだ声でユキちゃんはそう僕らに説明する。私一人で二人分だから、よく熟()れているでしょ?とユキちゃんは一人でケラケラと笑った。上島さんがそれに愛想笑いをする。

あっという間に僕らはうどんを啜り終えた。汁はまだ湯気を立ててそのままうどん鉢にたゆたっている。それと同じように、僕らは何故かそこで落ち着いてしまった。ほんのり身体が温まって、動くのが億劫、という雰囲気に囚われてしまったのだ。

「旨かったよ、またうどん打ったら知らせてよ」

キッチンに立った妹の背中に、三好さんはそう云いながら煙草の箱をポン、とテーブルの上に投げ出した。続けてライターを出そうとジーンズのポケットを探る。

妊婦がいるよ、と返したのは妹だった。ああそうだ、ごめん、と三好さんは素直に謝る。

コーヒーでも淹れようか、とユキちゃんは何事もなかったようにそう云って、食器棚に向かう。

「オレたちこのままスタジオに行くんだよ」

「あら、いいじゃない、時間はまだあるでしょ?

そう云いながらもう、ヤカンを火にかけている。ユキちゃんは基本的におっとりしているのだけど、よく気がつく。だから先回りして何でもこなしてしまう。時にはそれが、今みたいに僕らの足を止めるようなことになることもある。彼女に悪気はない。

そんなユキちゃんの傍らで、妹は実によくサポートしていると思う。妹自体が、テキパキと効率的に全てを片付けてしまう、云ってみれば主婦業のプロだ。そういう性質は、小宮さんの所の工場に勤め始めて顕著になった。主任とか呼ばれて、製造ラインを切り回しているのもうなずける。

人の扱いに慣れたことが、今の妹のアウトラインを形作っているのだと思う。ユキちゃんが日常の中に現れて、この小さな家の中でも妹は妹らしく振る舞える部分が露わになったのだと思う。一人娘を失って、失意の中から変質した妹は、もう昔には戻れないのだろうけれど、いくらかは未来に向けて変化していこうとしているに違いない。

だからなまじっか、うどんが美味しくなったのも、僕の感想は間違いではないのだ。

「しばらくは明日菜ちゃんが使っているんだから、ちょっとぐらいイイよ」

上島さんがそう返事する。

「練習前にちょっとミーティングでもするか」

スタジオに行こうと言い出した三好さんまでがそう言う。結局僕らの前には、うどん鉢が下げられ、入れ替わりにコーヒーカップが並ぶ。

それと重なるように、それなら、と言って藤木さんがポケットから四つに折りたたまれた紙を広げた。昨日、僕らに配ったライブ全体の構成表だ。そこには、既にびっしりと藤木さんの字で、細かくいろんな注意書きが書き込まれていた。

「最後に三バンドで、セッションするだろ?この曲以外にイイ曲、ないかな?

藤木さんは構成表の一番下を指さした。参加者全員によるセッション、と書かれた横に、カモン・フィール・ザ・ノイズと書かれて最後に「?」と書かれてあった。

「オレたちが主導するなら、この曲が定番だろ?

セイビアン、ユキナリ・バンドとの三バンド合同ライブの時も、最後は出演者がステージに上ってセッションするのがお決まりのエンディングだった。トリを務めるバンドにその主導権があり、フュージティブがトリを務める時は決まって、クワイエット・ライオットのその曲だった。曲の終盤、三バンドのギタリストがそれぞれ交互にソロを演奏し合うのは、なかなかエキサイティングな光景だった。それぞれのバンドの特色が如実に表れていて、演奏している方も楽しめた。

中盤にあるソロは、僕が唯一任された、フュージティブでのソロ・パートだった。オリジナルでは僕単独のソロは全くなく、カモン・フィール・ザ・ノイズでだけ、僕はスポットライトを浴びることが出来るのだ。オリジナルを忠実になぞる事しか、その頃の僕は出来なかったけれど、それでも僕のその晴れ舞台には、毎回浮き足立っていた

そういう意味で、僕にとっては思い入れのある曲だ。昨日構成表を見た時にも、その曲名を発見して思わずあの頃の気分を思い出した。

ただ、その曲にはもうひとつ、大事な意味があった。

「これは、恵子の好きな曲だからな」

藤木さんはそう云って、チラリと上島さんを見て、慌てて僕の方へ視線を向け直した。

フュージティブは凝ったアレンジが十八番で、それは藤木さんの趣味が前面に出た結果だった。恵子さんはそこのボーカリストとして輝きを放っていた。

でも、本当はカモン・フィール・ザ・ノイズのようにシンプルにグイグイ走って行くような曲が好きなのだ。他のバンドにもわかりやすいようにシンプルなものを、とセレクトしたのは、恵子さんだった。

「別にイイだろ?オレたちを懐かしんでライブに来てくれる客だって、一番良く聴いた曲だし」

三バンドの中でトリを務めたのはフュージティブが最多だった。必然、そのライブはカモン・フィール・ザ・ノイズで締める、というのが半ば定番にもなっていた。

「それもあるんだけど、真ん中のソロを誰に任せるか、それがな・・・」

パートの入れ替えをシステマティックに考えるなら、おそらくそこは明日菜ちゃんの担当になるはずだが、明日菜ちゃんは今度のライブの主役だ。ステージに立つ全バンドと何らかの形で絡むようになっていて、出演時間は最も多い。その彼女には、やはり最後の最後、今までなら藤木さんが担っていた場所を用意してあげたい。

「それなら、大沼でいいじゃない。ベースはその一曲だけ誰かに代わってもらってさ」

上島さんがそう云うと、そうだよ、ベーシストだっていっぱいいるんだからと三好さん。

「やっぱりそうなるか?

半分ニヤけながら藤木さんはそう云って、頭の後ろで腕を組んで椅子の背もたれに身体を預けた。

弾けるだろ?と僕は三好さんに問われて、おそらく、と頷いた。僕自身、ベースを弾くのはフュージティブだけで、一号とのユニットや、明日菜ちゃんと二人でステージを務める時はいつものようにギターを弾く。それに比べれば、昔手に馴染んだフレーズを思い出すことなどワケない。

「だったら決まり、ベースは明日菜ちゃんとこのヤツに、これから頼むってことで、それで好いだろう」

決まり決まり、と上島さんが同調した。藤木さんはしばらく思案するように天井仰いで目を閉じていたが。すぐに元に戻って構成表の紙に丸印を付けた。最後のピースが嵌まったように、藤木さんはその構成表を何度も見返した。

「でも、恵子さんのカモン・フィール・ザ・ノイズも聴きたかったですけどね」

一拍おいて僕は敢えてそう言った。昨日その曲目を見た時、僕の中でぼんやりとあることが浮かんだ。もう一度、構成表を最初から丁寧に見返して、僕は半ば確信に近いものを得ていた。

それをどうしても、今、確かめたくなった。

「おまえが説得してもダメだったんだから、今回は無理だよ」

構成表をまだ見ながら、藤木さんはそう言った。他の二人は、恵子さんという名前が出ると、よけいなことを云おうとはしないけれど、おそらく僕と同じことを、少なくとも頭の片隅には思い浮かべているはずだ。

「でも、藤木さん、諦めてないでしょ?

僕はハッキリとそう云ってみた。それが、僕に浮かんだ確信だった。

「確かに恵子さん抜きで、このライブは成り立っていますけど、よく見てみると、恵子さんがもし歌うことになっても、誰もはみ出さないようになってますよ」

僕は藤木さんの前の構成表に手を伸ばした。フュージティブが出演する部分を、順に押さえていく。恵子さんの代わりにボーカルを担当する者は今回三人。それがフュージティブ抜きの、いわば明日菜ちゃんが主役の部分に、上手に均等に配されている。僕が指で押さえた以外のところにちゃんと、彼等のボーカルパートが用意されているのだ。

例えば一号は、構成表では第三部のフュージティブのメインのステージを務めることになっているが、その前の第二部の後半で、僕と路上で歌っているスタイルの出演がある。そこに明日菜ちゃんが参加したり、藤木さんが加わったり、あるいはセイビアンのリズム隊が加わったりする。ボーカルは一号で、いわばフロントには彼がメインで立つようになっていた。

そんな風に、あの国民的アイドルでさえ、第一部でそこここにセッションして回る。一部は年の近い若い者だけが中心で、そこで矢面に立って舞台を回すのは彼女なのだ。

それは今回のライブの目的からすれば、当然のギミックかも知れないけれど、結果的に、恵子さんが戻ってくる余地も残している、という気がしてならないのだ。敢えて言うならば、恵子さんが当日いきなり歌うと言い出しても、変更は最小限で済むように、藤木さんは巧妙に仕組んでいるに違いない。

藤木さんは僕の顔をじっと見ると、フフン、と鼻で笑ってそのまま視線を反らした。偶然だよ、と一度そう云って話を終わらそうとしたけれど、思い直してそこにいる三人を見渡した。最後にはもう一度、僕と視線を合わせる。

「俺も一応、恵子を説得してみたんだよ。ついこの間」

そう云って唇を潤すようにコーヒーカップに口を付ける。三好さんも上島さんも、じっと藤木さんを見つめていた。

「俺と恵子の仲だから、色々と今回の事だけじゃなく、本当にじっくりと、話をしてみたんだ」

カップを置いた藤木さんは、視線を外した。

「今回は、おそらく無理だろ。大沼には本当に無理を言ったと思うけれど、期待していた部分もあった。でもやっぱり、あいつは頑なになっている。上島の件だけじゃ、おそらくは無いんだろうけど。その辺はオレたちの問題で、バンドには関係ない話だけど」

二人が結婚して何年になるのか、もう二十年近くは経っているはずだ。大学時代から、ずっと二人はいっしょで、それだけ強固な絆に繋がれていると、僕は思っていた。でも、久しぶりに再会して、恵子さんに逢って、それはとても危うい薄氷の上に立っている希望だと、何となく感じた。相変わらず恵子さんはタッチャン、と藤木さんの事を唯一そう呼んでいるけれど、その言葉の響きはどこか疲れているように聞こえた。何が理由、というのはハッキリとはわからないけれど、僕は何となくそう感じてしまっていた。

「俺は恵子の事は何でも知っているつもりだし、そうだと今も確信している。だから恵子の結論は、当然だという気もする。ただ、頑ななだけでは、何も解決しない、というか、それは上島の問題でも無く、大沼が何か出来るわけではないんだ。俺だってそうだ、結局は恵子の判断に頼るしかない。

でもな、だから俺には、俺に出来る事は、扉を開けておく事だと思うんだ。今回は諦めていても、最後の扉は、恵子が開ける事の出来る扉に鍵はかけないで、開いたままでいようと思うんだ。あいつが気づくかどうかわからないけど、少なくとも、俺はそうしておきたいんだよ」

言い終えると、藤木さんは照れたようにはにかんで俯いた。そんな藤木さんの表情を見るのは、僕は初めてだった。すぐに僕は、立ち入ってはいけないところに踏み込んだのではないか、と思って愕然とした。冷や汗がどっと出る。

「俺が言う事じゃないかも知れないけど」

そう云ったのは上島さんだ。

「藤木を俺は信じているよ。恵子の声があってフュージティブ、っていう思いは俺たちも同じだし、そう思う藤木を、俺は支持するよ」

おまえが言うこっちゃ無いけどな、と藤木さんは笑って言い返した。そんな二人の遣り取りを三好さんは黙って見ていた。うっすらと笑みを浮かべている。

「とりあえず、オレたちは今ある最大限で前に進むだけだ」

藤木さんはそう云って立ち上がった。どこか、晴れやかな顔をしている。

ごちそうさま、また来るよ、と藤木さんはいつの間にか隣のリビングへ移動していた妹とユキちゃんにそう声をかけるついでに、そのまま廊下を玄関の方へと歩いて行った。

 

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