「兄ちゃん、恵子さんのことばっかり考えているから」
助手席の一号はそんな風に言って、昨日のミスを冷やかした。別にそんなつもりはないけど、と言い返したが、正直、昨日音を出すまで、僕はほとんどライブの準備と言えば、恵子さんの事が大半だった。後は全て藤木さんか上島さん主導で、着いていくだけだったのだ。
「兄ちゃんはどう思うの?恵子さん、ステージに立つと思う?」
僕はしばし考えた。
最初から、恵子さんは今回の結成には参加しない、という事を半ば前提にしていた。だから、昨日の構成表の件は、僕には意外に感じられたのだ。どこか違和感のようなものといっても好い。それで少し、胸がザワついたのだ。何か、不測の事態を含んでいる未来は、あまり気持ちの良いものではない。それは結果として、奇跡を呼ぶ事になっても、出来れば平穏無事に淡々と予定通り進んでくれ、と望んでしまう。恵子さんの声を待ち望んでいるはずなのに、今となってはもう、それをどこかで忌避している自分に気づいていた。
「無理だと思うよ」
ふーん、と一号はいつもの調子で相槌を打った。
そうしている内に、スタジオが見えてきた。右折のウインカーを出して、止まる。すぐに対向車がパッシングして促してくれる。
そのままコンクリート剥き出しのグレーの倉庫の壁の前に車を駐める。隣に三好さんの車が駐まっていて、僕がエンジンを切ると、その向こう側から小さな火が流れてくるのが見えた。三好さんの煙草の火だった。
僕が車から降りると、三好さんは近づいてきた。助手席から姿を現した一号が、お疲れ様です、と声をかける。おう、と三好さんは返事する。
藤木さんは?と尋ねると、もう中に入って厳しく指導中だ、と言って笑った。程なく、壁が震えるような、中の音が漏れてくる。誰が演奏しているのか、その時にはわからなかった。
「小宮のアンプ」
三好さんはそう言って自分の車の後部座席を指さした。そのために外で待っていたのだと気づいて、僕は恐縮する。
「後は自分でやりますよ。あ、一号」
と振り返ると、その時にはもう事務所のドアを開けて、中に入ろうとしていた。
気にすんな、と三好さんはそう言って、車の後ろに回ると、ラゲッジ・ドアを跳ね上げた。一番後ろのシートを前に倒して、そのスペースにキャビネットが横倒しになっていて、それを挟むように毛布にくるまったヘッドアンプとベースのケースが押し込まれていた。
僕と三好さんは巨大なキャビネットを両側から抱え、ゆっくりと下ろした。さすがに今回も使えねぇだろう?と三好さんは言う。どうですかね、アッテネーターとかで多少コントロールすれば、音は悪くないですから、と僕が応えると、暗闇の中で三好さんは頷いた。
それからヘッドアンプとベースを僕は抱え、そのままドアを閉じた。こいつは俺に任せろ、と三好さんはキャスターの付いたキャビネットを押し始める。
スタジオの前のスペースはコンクリートが敷かれただけで、それも緩やかに表通りに向かって傾斜が着いている。放っておくとそのままゴロゴロとキャビネットが走り出しそうなのを、三好さんはゆっくりと歩を進めて丁寧に運んだ。
「これ、本当にもらって善いんですかね?」
僕は三好さんの背中に声を掛けた。
「良いんじゃないの?小宮はもう使えないんだ」
その言葉の意味は重かった。
「まぁ、ちょっと負担が重い、と思うなら、藤木か、このスタジオに預けておけば良いんじゃないの?楽器はさ、使ってナンボだよ。ドラムだって叩かないと錆びちまう」
三好さんのドラムはそうは言っても、綺麗に磨かれて傷一つ見えなかった。無防備に店の隅に並べて置いているように見えて、きっと時々は叩いてみたり、あるいはちゃんと手入れしていたに違いない。
「アンプはともかく、ベースは弾いてやれよ。その方が喜ぶ」
そう言うと、三好さんは急に立ち止まった。そして、だけどな、と一言言って、黙る。
「おまえがベースでよかったよ」
前を向いたまま三好さんはそう言った。
僕は、えっ?と訊き返そうとして言葉を飲む。あまりに意外な言葉だと思った。
「フュージティブが再結成するって、小宮が逝っちゃった時にはもう無いって思っていたけど、こういうのが奇跡っていうのかな?」
三好さんは夜空を見上げた。晴れていても、星は見えない。
そうしてからゆっくりと僕の方に振り返った。
「ベースとドラムには相性があるのは知っているだろ?相性が悪ければどんなにテクニックが優れていても上手くいかないんだ。小宮はそういう意味で、最高のパートナーだったんだ」
僕は頷く。実際音を体感している僕は、それを否定する言葉を一言だって持ち合わせていない。二人は最強のリズム隊だった。
「合わせてみるまで不安だったけど、昨日音を出して、おまえのベースを聴いて、何というのか、ツボを心得ているっていうか、さすがにオレたちの音のそばにいただけあるな、って思ったよ。おまえは藤木の一番弟子だけど、オレたちのリズム隊といっしょに育っていったんだものな」
だから、といって三好さんは急に照れて俯いた。
「おまえがベースでよかった、って昨日思ったんだ。それはちゃんと、おまえに伝えておかないとな」
僕は、ただ恐縮して、ありがとう御座います、としか言えなかった。でも、何か、ここ数ヶ月の様々な苦労が、すっと癒やされるような、それでいて昂揚するような、不思議な気持ちに包まれていた。
壁の向こうの音がまた止んで、すぐにまた鳴り始める。
「善いライブにしような」
三好さんはそういうと、また歩き出した。それからは振り返る事無く、入り口まで辿り着いた。
片開きのガラス戸をキャビネットで押して、そのまま中に入ると、明るい光が眼を射した。僕は眼を細める。一瞬、ライブの時のスポットライトと、その眩しさが重なる。
ライブが始まるステージへと、駆け出すあの瞬間。
急に僕の中にその緊張と、どこかへ飛んでいってしまいそうになる昂ぶりが沸き起こった。
善いライブにしましょう、僕は小さく呟いて、スタジオに繋がる分厚い防音ドアを押した。
歪んだギターが呻っている音に僕は包まれた。見ると藤木さんがもうギターを抱えていた。
カッと血が沸騰するような興奮に突き動かされて、僕はその音の渦の中に飛び込んでいく。
もう後戻りは出来ない。
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