駐車場に出て、三好さんはもう一度ゼットの前まで行って名残惜しそうに、ボンネットを撫でた。そして、自分の車に戻ると、エンジンをかけながらもずっとそちらの方を見つめていた。

ヨシタカ君は、ゼットの前でこちらを向いて、何度も頭を下げていた。それに見送られて、三好さんはようやく車をスタートさせた。

「そろそろ手放すって云ってましたよ、三好さん欲しいんじゃないですか?

再び助手席に座った僕は、そう云ってみた。だけど、三好さんはフフン、と苦笑交じりに笑うだけで、ハッキリとは返事をしなかった。でも、手に入れたいと、顔には書いてあった。

「悦ちゃんが、許してくれないよ」

言葉を区切って、自分でかみしめるように三好さんはそう言った。云った後、少し悲しそうな眼をして鼻を啜った。

元来た道を、また観音寺の市街に車を向けた。運転席の方から、夕日が射し込んできて、三好さんの横顔を見る度に僕は眼を細めた。

ああそうだ、とゼットの話を煙に巻くように、三好さんが話題を変えた。

「おまえのベース、アレどうしたんだ?

小宮のなら後ろに積んであるよ、と上島さんが言う。しっかり後ろの席にも、僕らの会話は聞こえていた。

「アレじゃないよ、昨日スタジオで弾いていたヤツだよ」

三好さんが言っているのは、白いスリムなボディーのベースのコトだ。

「今回のために買ったのか?そうじゃないよな」

前にもスタジオで見たような気がする、と三好さんが付け加えたように、僕はフュージティブがまだ再結成に至る前、明日菜ちゃんをセッションに連れ回していた時に、三好さんと藤木さんの前でそのベースを弾いたことがある。ギタリストが三人では収拾が付かないと、僕がベースに回った時だ。ただ、それが小宮さんの代わりに僕にベースを弾かせる、というアイデアを藤木さんに与えるきっかけになった。

「アレももらい物なんですよ。名古屋にいた時に、世話になった人にもらったんですよ」

ふと僕は自分でそう云って、そういえば僕がベースを弾くという事は、想いを託される意味があるのかな、と気づいた。小宮さんのベースが自分の手元に舞い込んで、音を引き継ぐ、というようなことを感じたことが、初めてではなかったことを思い出したのだ。

フュージティブが実質的に活動を止めたあと、僕は高校を卒業だけしてしばらくブラブラしていた。また楽器屋を回ってメンバー募集の告示からピックアップして、ギターはちょこちょこ弾いていた。パーマネントなものは結局持たず、彼方此方渡り歩いていたのだけど、それはフュージティブの後で、熱中するようなバンドを見いだせなかったからだった。

そんな僕に、ある楽器屋のギター担当の店員が声をかけてきた。彼は藤木さんの高校の同級生で、大学を中退して二年ほど東京に出て、楽器制作の専門学校に通った。そして高松に帰ってきてその楽器屋に就職したのだ。主にメンテナンスを担当していて、藤木さんのギターのピックアップを交換したり、僕のストラトをオーバーホールに出したりしていた。

毎日ブラブラしている、と話すと、名古屋だけど楽器屋で働いてみないか、と誘ってくれたのだ。彼の専門学校の時の友人が、名古屋の楽器屋に就職してそのツテがあるらしい。ちょうど新しく店を出すことになって人を募集している、ということだった。

音楽にも、毎日の生活にも、そこにいる意味、というものを見いだせていなかった僕は、何となく面白そうだから、という理由だけで、その話に乗った。履歴書を送ると、すぐに採用するからこちらに来てくれ、と連絡が入った。

バブルの真っ直中で経済がもっとも熱を帯びていた時代のなせる技だ。仕事を紹介してくれた彼の口添えが効いたというのもあるけれど、僕がギタリストだったということも採用の大きな要因だったことは、僕が実際にその店に行って知ることになる。

その店は名古屋の栄のちょっとはずれだけど、真新しいビルの一階にあった。名駅に続く広い道路に面して店は構えられていて、ショーケースには所狭しとギターが並べられていた。楽器全般を扱っていて、地下にはレンタルスタジオも備えていた。すぐ近くに老舗のライブハウスがあって、そこのリハーサルにはちょうど良い立地だった。

僕を採用した店長は、その店の跡取り息子で、本店はまだ父親がやっていて春日井にあった。そちらはエレクトーンとかピアノとかが主で、学校に楽器を納めたりと、古くから手広くやっている楽器屋だったが、その支店の方は完全に若いバンドマン向けに品揃えされていた。

跡取り息子は、ベースを弾いていて曲も作って、そしてバンドをやっていた。どちらかというとバンドがメインで、そのアルバイトに父親から譲ってもらった楽器屋をやっている、という感じだった。その彼のバンドはギタリストが辞めたばかりで、そこに僕の話が舞い込んだ、というわけだ。

金髪で長髪の彼は、僕が面接に現れると、すぐに地下のスタジオに連れて行って、ギターを弾かせた。僕がウンと言えば採用はほぼ決まっていたけれど、一応形だけ面接をしたのだ。というより、職場の下見のようなものだ。

そんな風だからギターを持ってきて、と云われてもあまり不思議には思わなかった。旅費はその楽器屋持ちで、僕は新幹線で名古屋までギターを担いでいったのだ。その時初めて、瀬戸大橋で本州に渡った。

フュージティブ時代に覚えたリックをいくつか弾いて見せると、彼は早速ベースを持ち出して、これに合わせて何か弾いてみて、と自分も音を出し始めた。十分ぐらいだったと思うけれど、二人してそうやって音を出して、一息つくと、店はともかく、ウチのバンドに入ってくれないか、と持ち出された。

後になってわかることだが、そのバンドの店員はみんな、彼のバンドのメンバーだった。それぞれが、それぞれの担当楽器を、店でも担当していて、僕は必然、ギター担当になった。

そのバンドでボーカルをやっていたのが、今いっしょに活動している一号だった。彼はいつもレジの周辺にいて、にこにこ笑いながら、店に入ってきた客に最初に声をかける、という役割を担っていた。イケメンで人当たりの良い彼は、特に女性に人気だった。何をお探しですか?と彼が声をかけて、ギターと云えば僕が呼ばれ、ドラムと云えば、ドラマーが呼ばれる。いっしょに楽器の並べられているスペースまで赴き、担当者に引き継ぐと、いつの間にかいなくなっている。

バブルに加えて、バンドブームが席巻していて、景気は良かった。その一方で、バンドの方は鳴かず飛ばずだった。ベースが作る曲を、店が終わった後の地下のスタジオで仕上げて、近くのライブハウスに出たり、時々社員旅行と称してツアーに出たりしていた。それでも、バンドをやっているより、楽器屋に集中している方が将来が明るいと、とみんな思っていた。

でも、すぐ手を伸ばせば、楽器がありスタジオがある環境は、とても幸福だった。特に地下にあるスタジオは、ウチのバンドで使い倒した。閉店した後は翌日の開店時間まで僕らの使い放題だから、何かと音を出していた。ちょうど周囲はオフィス街で夜に人はいないし、会社の経費で電気代も思うがままだった。

それでも、一応昼間は真面目に商売をすることを考えていた。時々本店から社長が来て、僕らに説教して回るのだけど、それも素直に聞いていた。電気代がかかりすぎ、という文句以外は、何でもハイハイと聞いていた。あまり深くは考えていなかったけれど、あの頃は何でも僕には新鮮だったのだ。。それ以上に、自分が勧めた楽器が誰かのものになって、また音が紡がれるというシステムが、僕にはなんだかしっくりきていたのだ。

フュージティブではとにかく演奏することに集中していた。でも、それだけでは不十分だと楽器屋に就職して初めて知った。アンプやエフェクターでの音作りのために簡単な電気の知識を身につけたり、楽典を初めて読んだのもその頃だ。それは商売上必要なことでもあったけれど、僕自身の学びの意欲が先行していた。とにかく、僕は日々勉強することに悦びを感じていたのだ。

ちょうどその頃、楽器メーカーの試奏会に時々呼ばれていた。だいたいは新商品の宣伝と、客に奨めるための簡単な使用方法のレクチャーをするための時間をメーカーが用意して、実際に物を売る人間を集めるのだ。東海地方はすぐ近くに有名な楽器メーカーが点在している。大きな所は、本社にホールやスタジオを持っていて、試奏会もそこで行われていた。

僕は試奏会の情報を仕入れると、どのメーカーでも必ず顔を出していた。担当のギターに関するものだけでなく、当時やっと身近になってきた自宅録音の機材も、レクチャーを受けに行っていた。名古屋なら、それ専用の会議スペースなどもあって、電車で通えたけれど、時々は車に乗って県外に出かけることもあった。

その中で、ある静岡にある総合楽器メーカーも、その試奏会を定期的に行っていた。盛んに新製品を開発して、売り出していたわけだが、あの頃は競争も激しく、そこから抜きんでるための必然でもあった。

名古屋から車で高速を飛ばして二時間ほどの、本社工場で毎回試奏会は行われていた。高速代とガソリン代は楽器屋持ちで、僕はその頃十万円で買ったボロボロの軽自動車に乗っていて、旅行気分で赴いていた。試奏会は日曜日に開かれていて、ちょうどいっしょに住んでいた彼女を内緒で連れて行き、半分遊びに行くみたいなものだった。

生楽器よりは、電子楽器に特化していたメーカーだったけれど、ちょうどその頃はマルチ・エフェクターが世に登場した頃で、ギタリストにも注目されていた。シンセサイザーの新製品発表の時には、彼女が絶対音感を持つピアニストだったから、店員ですというウソも通用した。

試奏会には楽器屋だけでなく、時々は雑誌の取材などもあったし、サプライズで海外ミュージシャンが顔を出すこともあった。参加者同士の交流や情報交換の意味合いもあった。意外に試奏会に出かける者は、プレイヤー崩れの僕みたいな者が多かったのだ。

そのメーカーの試奏会が特に人を集めるのは、説明の最後に新製品を使った演奏が行われ、参加者もその演奏に加わることが出来るという、ちょっとしたアトラクションが用意されていたからだ。先ずは楽器屋の店員が実際にその製品を使いこなしてこそ、顧客に勧めることが出来る、という方針で、だから、参加者の中には自分の愛器を持ち込む者もいた。

僕もそのセッションが面白くて、新製品よりはそちらを目当てに毎回参加していた。試奏会だけに、その時発表される製品を一番魅力的に見せるデモ曲が用意され、目の前で新機能を使った技が繰り出される、という趣向なのだ。もちろん僕もその演奏に参加させてもらった。初見である程度楽譜を読むのは、藤木さんに鍛えられていた。

毎回一応バンドメンバーが揃えられていたが、みんなそのメーカーの社員で、工場勤務から、営業社員まで様々だった。時々曲によってメンバーが入れ替わる時もあったが、試奏会バンド、としてほぼ固定されていた。

その中心人物が、開発担当の課長だった。ずんぐりとした体格の背の低い、温厚そうな顔立ちの上に、話し上手な人物だった。いつも商品説明は彼が務め、その後の試奏ライブでは、ベースを担当していた。ベースアンプの前に据えたスツールに腰掛けて、いつも演奏していた。新製品のベースがない時は、ミュージックマンのベースを抱えていて、そのベースも色々と改造が施されていた。

どんなジャンルのベースも難無くこなす課長は、開発全般を統括していて、商品説明も垣根がなかった。テクニックに加えて、音楽の知識も豊富で、時々脱線する話題に僕は何度も惹き込まれた。

それは藤木さん以来、僕は尊敬する先輩に出逢った気分だった。雰囲気は、厳めしい藤木さんとは正反対の柔和な物腰だったけれど、二人の中に同じ真摯さのようなものを感じていた。

宣伝文句に則って新機能の説明をして、軽く音を聞かせて終わり、という試奏会が多かった中で、僕はそのバンドで音を出すことに魅了され、そのメーカーの試奏会には必ず顔を出した。ほぼ毎月、ギターとは関係ない時にも出席し、そんなときでもセッションに参加させてもらった。

毎回顔を出す参加者は案外数少なく、やはり担当を外れるとメンバーが入れ替わるのが普通で、だから僕のような存在は珍しがられ、その課長にもすぐに顔と名前を覚えられた。そのうちに試奏会の情報は、直接その課長から僕に伝えられるようになり、いっしょにセッション用のスコアもファックスで送られてくるようになった。すると店でも僕はそのメーカーの担当になり、受け持ちの楽器を乗り越えて客の相手をするようになっていた。

そのうち、半ば試奏会バンドの準メンバーのような存在になり、そのバンドで地元のお祭りに出演した時も、僕はゲストとして呼んでもらったりした。その日は前日から泊まりがけで、その課長の家に宿を借りた。若くて綺麗な奥さんと三人の年子の子供も紹介され、僕は家族ぐるみで歓待されたのだった。

そのバンドで演奏するのは楽しかった。フュージティブや楽器屋連中のバンドとはまったく別の雰囲気がステージの上には流れていて、純粋に音を愉しむことをそこで知った気がする。肩肘張らず、多少ミスがあっても笑って済ませ、それがまたステージの上で新たなアイテムに替わる。リラックスした雰囲気は、そのまま観客にも伝わっていき、その祭りのステージでは目の前で小さな子供が身体を揺らしていた。グルーブとか、バイブレーションとか、言葉はどうあれ、音楽に潜んでいた大事な秘密を僕は彼等に教えられた気がした。

僕が彼等に会いに行くだけではなく、休日の楽器屋に、課長の彼が家族連れで顔を出したこともあった。長島の遊園地へ赴くついでに、と彼は言い訳めいた台詞を用意して、子供たちは妻に任せて近くのデパートに押し込んで、店には一人でやってきた。そして決まって、自分のメーカー以外のベースを試奏する。テクニックは明らかに店長よりは上で、どのベースも華麗に弾きこなした。安物でも太くて柔らかな音を奏でるのにはみんなが舌を巻いていた。

そういう交流が続いて、終いには彼等の楽器メーカーに就職しないか、と誘われた。未だバブルは弾ける寸前で、人はいくらいても足りなかった。ちょうど営業で動ける人物を求めている、とその課長から直接勧誘を受けたのだ。最初は冗談めいて云われていて、僕にも当然のなりゆきのように思えた。そしてそれはついに、本格的な話になって僕の目の前に提示された。それは初めてその課長と交わした、真面目な話題だったかも知れない。

課長や試奏会メンバーとの交流も、楽器の知識の向上のためにも、それはなかなか魅力的な誘いに思えた。

でも、楽器屋で直接、似たような境遇の客を相手にするのも僕には捨てがたかった。それに加えて、その時僕は何故か、きっと転職すると、良いことばかりで済むわけではないだろうな、という漠然とした不安を抱いていた。明確な根拠があったわけではないけれど、せっかくの紐帯が別の物に変質してしまう気がして、それを恐れていたのだ。

断ることは随分と勇気がいったけれど、素直に課長にハッキリと告げた。僕は静岡の課長の自宅にお邪魔して、面と向かって頭を下げた。もう少し、楽器屋の店員でやってみたいんです、と。課長は、残念そうな声で、そうか、と一言言った。でも、これで終わりっていうわけじゃないから、また気が変わったらいつでも云ってくれよ、と優しく声をかけられた。

それでも、それから一年も経たないうちに、僕に大きな変化が訪れることになった。

実家で両親が交通事故で突然亡くなり、それから妹の離婚騒動やらいろんなコトが重なり、僕は地元に帰ることになったのだ。

何度か、後始末に僕は帰郷を繰り返し、必然的に何回か試奏会も見送った。それを心配したその課長が、また直接、僕の店まで赴いてくれた。その時、僕は両親のことを話し、おそらく実家に帰ることになりそうです、と正直に言った。その時はまだ、迷っていた頃で、店長にも同じことを告げていたが、彼はそれ以来仕方が無い、と口では言いながらひどく不機嫌だった。だから、素直に相談が出来たのはその課長だけだった。

結局、僕は帰郷が決まり、名古屋での生活を精算することになった。最後の試奏会にも顔を出し、お別れの挨拶をして回った。メーカーの人間と、しがない楽器屋の店員の関係のはずが、みな別れを惜しんでくれた。

そして相談に乗ってくれた課長には、僕は深く頭を下げた。初めてその時、僕は別れを悲しんで涙を流した。両親の葬儀以来、少し涙もろくなっていたのか、僕は人目も憚らずぽろぽろと涙を流した。

すると、その課長は餞別に、といってギター・ケースを僕に手渡した。開けると中には、白い細身のボディーのベースが横たわっていた。ヘッドが鋭角にとがっていて、ボディの曲線がどこか艶めかしい。その頃そういう軽めのベースが流行だったけれど、見たことのないデザインだった。

ヘッドにメーカーのインレイがなく、僕は餞別ということよりもまず、そのスペックを訪ねた。

「これは俺のオリジナルだよ。特別仕様だ」

それは課長自らが開発の合間に、自分のもっとも使い勝手の良い仕様は何だろう、という発想で、資材を自費で賄って、組み上げたものだった。木材の切り出しから、塗装も、ピックアップのアセンブリまで一人でこなしたそうだ。楽器メーカーの息はかかっていても、他のどこにも存在しないワンオフの製品だ。有名ミュージシャンのカスタムモデルのような趣があった。

ベースで申し訳ないけど、と彼はそう云ってそのベースケースを僕に手渡した。さすがにすんなりと受け取るわけにはいかなかった。これまで世話になったことを考えると、何かを手渡すなら僕の方だと思わずには居れなかった。

それでも、せっかくだからもらってくれよ、と課長は相変わらずの柔和な笑顔で僕にそれを押しつけた。もう一度、ベースで申し訳ないけど、と付け加えてから彼はこう言った。

「実家に戻っても音楽は続けるんだろ?このベースを見る度に、今度はユーザーになって俺たちを思い出してくれよ」

忘れません、と僕は真っ赤に泣き腫らした目を見開いてそう言った。今度は課長の方が照れたように笑う。

僕はそのベースを携えて、それから一ヶ月後、香川に帰ってきた。退屈を紛らわせるように地元を離れて、僕はベースを土産にまた戻ってきたのだ。ベースだけでなく、いっしょに一号も着いてきた。結局、僕は、また地元で音楽を続けることになっていた。

その辺の事情を、僕はかいつまんで三好さんに話した。後ろの二人も珍しく、横やりも入れず静かに聞いていた。眠っているのかな、と後ろを振り向くと、ちゃんと目を開けて窓の外を見ながら、僕の話の続きを促した。

「それきり、その課長とは会ってないのか?

三好さんはハンドルを切りながら訪ねた。

「一度だけ、会社には顔を出したんですけど、逢えませんでした」

今勤めている会社で、工作機械の研修に静岡のメーカーまで赴いたことがあった。何日か泊まりがけで、CADからシームレスでNCのデータに流用できるシステムのレクチャーを受けに行ったのだ。現場の人間何人かと、直接の上司といっしょだった。その合間を見繕って、僕は昔通った楽器メーカーに行ってみたのだ。

受付で僕は、その課長の名前を出してみた。すると、もう定年退職しています、と告げられた。代わりに彼の後を継いだ新しい課長が応対に出てくれた。彼もかつて試奏バンドのメンバーで、確かキーボードを弾いていた。

彼は僕のことを覚えていて、久しぶり、と満面の笑顔で僕の肩をぽんぽんと叩いた。僕は簡単に自分の今を説明し、そしてあの課長のことを訪ねた。

彼の話によると、最終的には部長に出世して、ほんの数年前に定年を迎えたそうだ。子供たちはもう手を離れ、それぞれ東京の方で就職しているらしい。それを機に、妻の実家の九州の田舎に引っ越したらしいのだ。

それなら香川の方が近いかも知れませんね、と僕が言うと、同じことを部長も言っていたよ、と彼は云った。定年間際、送別会のライブをやったらしい。それまで現役でベースを弾き続けていたということに感動した。ステージが終わって打ち上げの時、バブルの頃はもっと忙しくて、いろんなことが騒がしかった、という話題になった。その時ふと、僕のことを思い出したらしい。

香川に帰ったのは惜しかった、と云った後、でもウチに誘ったけど断られたのは正解だったかな、とポツリと言ったそうだ。楽器業界は、バブル崩壊の煽りをまともに受け、ちょうど僕が香川に帰った後ぐらいから、下り坂を滑り落ちていった。その楽器メーカーでも部署の縮小や統廃合、そしていくらかリストラも経験していた。

それでも覚えていてくれてうれしかったです、と僕が言うと、あのベース、と応対してくれた彼は思い出したように云った。今でもちゃんと持ってますよ、というと、部長がプロトタイプを作ったのはアレ一本だから大切にしてください、と念を押された。

「これから嫌という程使い倒すことになるから、その課長も本望だろう」

後ろから上島さんが言った。

「そうだな、もうイヤって悲鳴を上げるぐらい使い倒させてやるよ。どうせ今まで触りもしなかったんだろ?

それは事実だけど、藤木さんの脅しは冗談で済まないからやっかいだ。

「それならこれからスタジオに行くか?

三好さんが言うと、そうだな、とイヤに晴れやかな声で藤木さんが同意した。小宮さんの遺影に手を合わせるのは、藤木さんが言いだしたことだったけれど、現実はイヤに窮屈な場所に押し込められて、それに僕らも身体のサイズを合わせなくてはいけなかった。

それに今日は区切りのための儀式だったのだ。そこからようやく次のステップへと、もう思い残すことなく動き出すことになるのだ。

スタジオに行くのは、いわば今日の締めくくりとして当然の結果なのかも知れない。

「今日は朝から高校生組が合同練習してますよ」

僕がそう云うと、明日菜ちゃんがいるんだ、と上島さんがうれしそうな声で囃し立てた。

「一号も帰っている頃だろう、あいつをピックアップしてスタジオに行こうぜ」

そういうと三好さんは、アクセルを踏み込んだ。重くエンジン音が呻って、前のテールランプとの距離が詰まる。クルマはいつの間にか国道に乗っていて、夕陽は背中から僕らを照らしていた。

 

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