フュージティブは現役の頃、地元のライブハウスに定期的に出演していた。その多くがワンマンではなく、いわゆる対バンと呼ばれる同世代の二つのバンドといっしょだった。三バンドがパッケージで企画されていたのだ。

一つはあの頃流行っていたジャパニーズ・メタルの流れを汲んだ、セイビアンという四人組のバンドで、ボーカルが地方都市ではちょっと珍しいぐらいのイケメンで女性ファンが多かった。そこは元々小宮さんがいたバンドで、フュージティブを結成するために抜けたバンドだった。メロディアスという意味では抜きんでていて、自然と歌いたくなる曲が多くて、とにかく良い曲を作るバンドだった。

小宮さんの後に入ったベーシストがソングライティングを担っていて、フュージティブより早くオリジナルだけでステージに立つようになっていた。メジャーからの誘いもあったという噂があったけれど、それが現実になったという話を聞かないうちに疎遠になってしまった。

もうひとつは、フュージョン主体のインストバンドで、テクニックで言えば凄腕揃いだった。当時、カシオペアのドミノ・ラインという曲を完コピしていたのは地元では彼らぐらいで、初めてその場に居合わせた時、僕は随分と面食らった。

メンバーはそこも四人だったけれど、いつもステージにはゲストを呼んでいて、時々はジャズ業界やその辺りで有名なミュージシャンを呼ぶこともあった。

みな藤木さんと同じ大学の医学部でみんな医者の息子だった。どこでも矯正されなかった傲慢さというか、それが当たり前になっている他人を見下すような姿勢とか、本人たちに悪気は一切無いのだろうけれど、そういう雰囲気を周囲は感じていた。

そのせいかフュージティブ、とりわけ上島さんは個人的事情で敵愾心をむきだしにしていた。冗談で付けた、と本人たちは言っていたけれど、リーダーのベーシストの名前をとって「ユキナリ・バンド」というところから気にくわないらしく、お坊ちゃまバンド、と上島さんは陰口を叩いていたのを良く聞いた。

個人個人でそういう対立はあったけれど、いつもいっしょのステージに立っていたおかげで、三バンドで盛り上がっていこうという気概で一丸となっていた。それぞれ特徴のある三バンドを集めたのは、今はもう無いライブハウスのオーナーだったけれど、その思惑通り、その企画ライブはいつも盛況だった。

チケットはノルマ無しではあっても、その回ごとの売り上げで出演順が決まっていた。人気で言えば、セイビアンがダントツでファンが多かったのだけど、そのほとんどが個人的付き合いがなく、ライブハウスやレコードショップでチケットを買っていたので、バンドの売り上げにはカウントされなかった。金に物を言わせそうなユキナリ・バンドもその辺はガチンコで、誰がトリをとるのかで、僕らも熱くなっていた。

それぞれのバンドに特徴があって、僕はステージサイドで他のバンドの姿を見るのがとても面白かった。フュージティブで得たものの多くは、藤木さんがもたらしてくれたけれど、その企画ライブのステージサイドでもたくさんの勉強をした気がする。

フュージティブが最後のステージを踏んだのもその企画ライブだった。メンバーが社会人のセイビアン以外は、卒業を控えていて、それならば少し大きなところで卒業ライブ、という話が楽屋では持ち上がっていたけれど、結局立ち消えになってそのままバンドは自然消滅してしまったのだ。

そのリベンジ、というわけではないけれど、藤木さんはまたあの三バンドが集まることに熱心で、現役のバンドに出演交渉するよりも、旧友といって好い彼らを集めることの方に腐心していた。

努力の甲斐あって、それは叶うことになった。

数十年を隔てて音沙汰がなかったバンド同士でも、探せばどこかに繋がりがあるもので、ライブをやるという話が熱を帯びてきた頃には、こちらからだけではなく、噂を聞きつけて向こうから連絡を取ってきたメンバーもいた。

かつてのステージを覚えているヨシタカ君は、それが今再現されることを本当に喜んでいた。

「僕の記憶の中では、あの三バンドでやったステージしか残ってないんですよ。それがまた見られるなんて、夢のようです」

彼もチケットを捌けるために動員された一人ではあったが、それなりに愉しんではいたのだ。

「でも、良く集まりましたよね」

そう言って、ユキナリ・バンドと書かれたところを指さした。彼もフュージティブと張り合っていたことをよく知っている。

「ユキナリの所は、完全じゃないんだ。今はもうドラムは引退している、身体を悪くしてな」

そう言って三好さんは、胸の辺りを押さえる仕草をしてみせる。

「でも、代わりにヤツの息子がドラムを叩くんだ。これがまた親譲りの良いドラムを叩くんだよ」

そういう三好さん自身がうれしそうに笑う。

二度目に恵子さんに逢った時のことだ。その日、僕はモモちゃんを連れていて、本当なら二人きりのデートに費やすつもりだったところへ、不意に藤木さんに呼び出された。スタジオにバンドを見に行くから、と無理矢理付き合わされたのだ。

その時、綾川の楽器屋のスタジオに見に行ったのが、現在のユキナリ・バンドの姿だった。

ドラムは三好さんが言うように代替わりしていた。当時のドラムだった父親は、スタジオの隅のパイプ椅子に座っていた。昔は涼しげな顔立ちのイイ男で、優男風の表向きとは違って身体は筋肉が締まっていた。背が高く、がっしりした印象があったのが、随分と痩せて、頬がこけていた。

でも、息子のドラムを指さして、俺が教えたんだぜ、と笑った。

聞くと、ユキナリ・バンドはあれから解散することなく、それぞれ医者の道に進みながらも、傍らで音楽を続けていたらしい。事実、まったく腕は落ちていない。あの頃のスリリングさに、余裕が重なってなんだかひどく音の太いバンドになった印象だった。

スタジオを出てから近くのフードコートで話をした。ライブの出演はすんなりと決まり、あとは自然と過去と現在を繋ぐ話が中心になる。あの頃嫌っていた上島さんとも、笑顔で会話を交わしている。あの頃から言えば、最も変わったのはそのドラマーだけれど、彼のこれまでの人生に話題は尽きなかった。

「まさか、俺もこいつに自分の身体を任せることになるとは思わなかったけどな」

元ドラムの彼はそう言ってベーシストを指さした。彼は地元で内科の医院を開業している。

そこでやっと藤木さんと、ベーシストの行成さんが目を合わせた。ぎごちない二人は、どちらからとも無く苦笑を浮かべた。この二人の間にも、ちょっとした因縁がある。

いつのライブだったか、ステージが終わり片付けが済むと、ライブハウスのオーナーのおごりで近くの居酒屋で打ち上げをするのが恒例だった。僕は帰りに送ってもらう都合で小宮さんと一緒にいて、自然とセイビアンの連中とテーブルを囲むことが多かった。彼らはみなそれぞれ仕事を持っていて、確かギタリストはもう当時から結婚して子供がいたはずだ。それまで学校から外の世界に疎かった僕は、音楽よりも彼らの普段の生活の話に興味を惹かれた。もっとも、彼らは程好くスケベで、いつも下ネタが多かったけれど。

そうやってバンドが混じり合ってワイワイやっているところで、いきなり藤木さんの怒鳴り声が聞こえるのは、時々あることで、言い争いが険悪になることもあった。それを止めるのはだいたいが恵子さんとユキナリバンドのキーボードの女性の役割だった。

対バン同士で仲は良かったからそれほど深刻な喧嘩に発展することはまず無かったけれど、一度藤木さんと行成さんが怒鳴り合ったエピソードは、その後随分と尾を引いた。

きっかけは何だったのかはもう覚えていないけれど、彼らが対立したポイントは「歌詞」だった。

端的に言えば、音楽に歌詞は必要か否かで、二人は言い争いになったのだ。

藤木さんはフュージティブの曲作りを一手に担っていて、当然歌詞も書いていた。当時藤木さんが熱心に聞いていたプログレッシブ・ロックの大家たちは、音楽だけでなく哲学的な詞の部分でも高く評価されていた。当然藤木さんも影響を受けていて、高校生の僕には複雑すぎて良く分からない言い回しもあった。

その歌詞に行成さんが文句を付けたのだ。音楽を言葉で説明するな、というような言い方で藤木さんに難癖を付けたのだった。行成さんは藤木さんが作るアレンジには一目置いていて、変拍子を絡めたリフや、パートの絡み合いには嫉妬に近い興味を持っていた。彼が言いたかったのは、その部分をもっと前面に出せば良い、ということだったはずが、歌詞が邪魔なんだ、というよけいな一言で火が点いたようだ。

当然藤木さんは、音と言葉は等価で両方合わさって俺の表現だ、と酔いに任せてまくし立てた。同じように紅い顔をした行成さんは、理屈が多いんだよ藤木の歌詞は、と反論した。もっとシンプルな歌詞でも恵子ちゃんのボーカルは活かせるはずだし、セイビアンのメロディーの方がよっぽど心に響くよ、と言い放って、そこから後は売り言葉に買い言葉の罵り合いに発展した。

それはその場で収まるはずの、他愛のない小競り合いのはずだったけれど、その後酔いが醒めても藤木さんはそのことを覚えていた。次に作ってきたオリジナル曲は、いっそう複雑な歌詞が曲全体を埋め尽くしていた。まるでラップかと思うような部分もあって、恵子さんは悲鳴を上げた。音楽以外ならあれほど意地になることないのにね、と僕に愚痴ったりした。

結局その曲を、行成さんの前で披露して、それきりステージで演奏することはなかった。ステージの袖で見ていた行成さんは、その曲を聴いて苦笑を浮かべただけで、それ以来藤木さんとは距離を置くようになった。表向きは普通に接していたけれど、何となくお互いに気を遣っているのは傍目にも明らかだった。

おそらくは、少なくとも当時、彼らが拘っていたもっとも芯に当たる部分で対立してしまったのだと思う。ユキナリ・バンドは一度もボーカリストを迎えてステージに上がることはなかったし、そういう拘りが、バンドの可能性を少し狭めてしまっているかも知れない、と僕などは思った。

たった一度、でも最も触れてはいけない部分で対立してしまった二人は、それきり距離は縮まることなく今に至ってしまったのだ。それも卒業ライブがあれば、和解することは出来たのだろうか?

上島さんがユキナリ・バンドを嫌っていたのは、単純に家の事情、彼個人のことで、誰も本気で肯定しようと思わなかったけれど、結局藤木さんまで巻き込んでしまった。フュージティブとユキナリ・バンドはライバル同士、との常套句がちょっとスキャンダルっぽく響くようになったのだった。

再会を果たしたフードコートで、藤木さんと行成さんはぎごちなく握手を交わした。誘ったのは藤木さんの方で、行成さんの連絡先を手に入れて一度は電話で話していたけれど、やはり苦笑なしには顔を合わすことは出来なかった。

恵子ちゃんがまた歌うのか、と行成さんの方が先に話しかけた。イヤ、と藤木さんは視線を外して、ちょっとトラブっているんだ、どうなるかわからない、と言った。その時の藤木さんは、何とも複雑な表情だった。

「でも、やっぱり恵子ちゃんの歌を久しぶりに聴きたいよ」

行成さんはそう言って藤木さんを見た。今度は視線を外さず、俺もだよ、と藤木さんは応えた。そして、僕の方を見て今こいつががんばって説得しているんだ、とそれからはフュージティブの現状の話が続いた。

ひとしきり話が終わると、行成さんは僕の方を見てこう言った。

「藤木のめんどくさい歌詞を歌えるのは恵子ちゃんしかいないんだ、ちゃんと説得しろよ」

僕は頷きながら、藤木さんの顔を見た。相変わらずの苦笑だったけれど、独特のペシミスティックな色合いは微塵もなく、どこか晴れやかな苦笑に見えた。やはり時が解決することもあるんだろうな、と僕はその時実感した。

 

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