元来た廊下を戻って仏壇のある部屋に戻ると、三好さんと上島さんが、ヨシタカ君の妻となにやら談笑していた。その表情を見ただけで、二人がくだらない冗談を言って彼女を笑わせているのが分かる。愛想笑いほど堅苦しくはないが、それほど面白くないのに笑っていることを、彼女の仕草が証明していた。

僕らに遅れてヨシタカ君が戻ってきて、そろそろお墓に行きましょうか、と尋ねた。ああそうだな、と藤木さんは立ったまま言って、畳にあぐらを掻いたままの二人を呼んだ。ヨシタカ君は妻を呼び、彼女はやっと解放された、という感じで足早に僕の隣を通り過ぎていった。

玄関まで行って、靴を履いていると、大きな引き戸のガラスの向こうに人影が見えた。随分と背が低い、と思っていると、勢いよくガラリと戸は開いた。

甲高い声で、ただいまーっ、という幼い声が響いた。

だがすぐにそこにいる僕らの姿を認めて、その声の主は表情を硬くした。予期していなかった光景を見て戸惑っているのか、急に泣きそうなほど緊張を増した顔つきになって立ち尽くし、そのまま僕らをじっと見ていた。

彼は座っている僕と同じくらいの背丈で、見たところ幼稚園の年長か、小学校低学年、といったところだ。随分と小綺麗な薄いグレーのジャケットと、同じ色の膝丈のズボンを穿いていて、真っ白なタイツが見えていた。靴も綺麗に磨かれて光っていて、その全身が仕立ての良さを誇示するほどに輝いていた。

僕はふと、妹の一人娘を思い出す。

七夕は今はいくつになったのだろう、そんな疑問がよぎる。

僕らの背後から、ヨシタカ君の妻が顔を出すのと、目の前に現れた幼子の後ろに初老の婦人が立つのがほぼ同時だった。質の良さそうな和服に、柿色のショールがシックに溶け合っていた。派手には映らないが、おそらくは名の通った銘柄なのだろう。僕には和服のブランドなどまったく分からないが、それでもそういう上質なものがサラリと着こなされている上品さのようなものを感じた。

声を出したのは、その婦人の方が先だった。あらまぁ、いらっしゃってたのね、というと、婦人は笑顔で僕らに向かって小さく頭を下げた。それよりも、彼女の前でこわばっている幼子に、ちゃんと挨拶しなさい、と後ろから頭に手を宛がう。威厳のある声が耳に残った。

お父さんの昔のお友達よ、と三和土から降りてきたヨシタカ君の妻が幼子に説明する。彼は一度後ろの婦人を見上げて、それから、何も言わず、お辞儀をした。こんにちは、でしょ、と婦人が言うと、もう一度頭を下げて小さく、こんにちは、とたどたどしい口調で言った。

玄関の向こうからヨシタカ君が顔を出す。そこに逃げ込むように幼子は婦人の後ろに隠れ、彼の手の中に身体を潜り込ませた。いくらか緊張が緩んだ顔になって、見上げている。

長男です、と彼が笑顔で僕らに説明する。へえ、と三好さんが声を出した。いくつ?と姿勢を低くして尋ねた。ほら、とヨシタカ君が促すとやっとはにかんだ笑顔を見せて幼子は、五歳、と小さな声で応えた。幼稚園?と更に尋ねると、素直に頷いた。

三好さんは低い姿勢のまま、こんにちは、とその長男の目を見ていった。すると、こんにちは、と照れを残したまま、いくらかは親しみの混じった声で返した。三好さんが頭を撫でると、もう少し表情が解けたけれど、今度は本格的に照れてまた婦人の後ろに隠れてしまった。

ヨシタカ君は僕らに向き直り、母です、と婦人を紹介した。アニキのお墓参りに、と今度は婦人に説明する。おそらくその話を一度は聞いていたのだろう、分かっている、というように夫人は頷くと、どうもわざわざ、と今度は深々と頭を下げた。僕たちも立ち上がり、姿勢を正してお辞儀をした。

ご無沙汰してすいませんでした、と藤木さんは言った。いくらか緊張が増した声音は、どこか、らしくない印象を僕に与えた。いえいえ、と婦人は応えたが、それ以上は何も言わなかった。その反応は、礼節上過不足はなかったけれど、何かしら棘のようなものがうっすらと透けて見えた。明らかにヨシタカ君の反応とはまるで違う。

これからお墓まで行ってくるよ、とヨシタカ君は説明すると、まったく関係の無い家族の会話を始めた。幼い長男をどこかに連れて行った結果報告に聞こえたけれど、詳細は僕らにはまったく分からなかった。ただ、その当事者の幼い長男は、何か言いたそうに父親と、婦人の顔を交互に見ていた。

お昼はどうなさったの、と会話が一段落した婦人は僕らの方は向かずに、自分の息子に尋ねた。昼時はもう過ぎていた。だけど、僕らは昼食を取っていない。それほど長居するつもりもなかったから、帰り道に何処か寄ろうと、言葉には出さなかったけれど、何となくそのつもりでいた。

やっと婦人は僕らの方を向いた。その表情がまた変化している。今度は明らかに営業スマイルがそこに浮いていた。

「お昼まだでしたら、ウチが最近始めた店があるんですけど、そちらで如何です?

そう言うと、ねぇ、ご案内差し上げたら、とヨシタカ君に念押しする。分かったよ、と彼はすぐに応えた。

時間よろしければ、とヨシタカ君は藤木さんの顔を伺った。出来たばかりですけど、食べていってくださいよ、と重ねられると、藤木さんでも拒否できる雰囲気ではなくなった。元より昼食はどこかで食べるつもりにしたのだから、願ってもない申し出なのだけど、どうも招待されることに僕らは馴れていない。少なくとも今日の訪問に、それはそぐわない気がした。

とりあえず、お墓参りを先に、と上島さんが助け船を出した。こういうときのコンビネーションに、上島さんは良く気がつく。そうだな、と三好さんが重ねて、とにかく僕らはその玄関を出ることを優先した。

僕らがこういう格式の中の身の置き場に慣れていないのか、あるいは大手企業経営者の家族が持つ雰囲気に違和感があるのか、理由は分からない。ただ、僕らは小宮さんに再結成の報告がしたかっただけなのだ。それなのにどうしても、誰かに何かを責められているような居心地の悪さが付きまとう。理由を探せば、簡単に見つかってしまいそうな気がする僕らも、それに言い返せない。

その時、僕は切ない、と思った。小宮さんが僕のなかで思い出に変わってしまったような、そんな空しさが重なっている。僕らの違和感を取り持つ小宮さんは、もうここにはいない。僕らは招かざる客なのだ、とそんな風にまで思った。

だからなのか、この玄関を出ると、もうここには二度と訪れないような気がした。小宮さんとの縁を、断ち切ってしまうつもりは毛頭無かったけれど、彼の家族とはどうだろう。小宮さんはただ、僕らとの関係の中の記憶に居続ける。そのことを再確認したのだ。

おそらく藤木さんも同じ事を考えているのだろう、とそのことだけは何故か確信に近く思った。小宮さんが生きていたら、ではなく、小宮さんの生きていた時間を、僕らはこれから何度も反芻するのだ。

そして前に進んでいく。

それはどこかで肩の荷が下りるような、ホッとする部分もあるけれど、同時に今やっと、哀しみが降り注いでくる気がした。見ないフリをしていたはずの、哀しみに出逢ってしまう。そんなはずじゃなかったのに。

玄関を出ると、外にあのハードケースが立てかけてあった。ヨシタカ君は三好さんと何か話している。僕はハードケースに近づいて、抱きかかえるようにして持ち上げた。ずっしりと重い。こんな重いものを小宮さんはいつも運んでいたんだ、と思うと、不意に涙がこみ上げてきた。

哀しみをまとったひどく重苦しい何かを手渡されたような気が、僕の胸をキュッと締め付けた。

 

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