さっき再結成の話をする時、藤木さんは恵子さんのことをぼやかしていた。小宮さんがいなくなって、その代わりを誰かに任せるのは誰にでも分かることだけど、少なくとも今、恵子さんが参加しないことを知っている者は少ない。

それでも藤木さんなら、律儀に現状の全てを話すモノだと、僕は思っていた。でも、恵子さんの話をしようとはしなかった。

そんなことを思っていると、ヨシタカ君が不意に、僕の手を見てアレ、と小さく云った。云って一瞬戸惑ったのは、それが右手の小指の先が無くなっていることに気がついたからに違いなかった。躊躇はそれを尋ねて良いモノかどうか、僕の事情を慮ったに違いない。

コレ?と僕は自分の方から手の甲を彼の方に向けて、小指を動かして見せた。ああ、まぁ、と苦笑交じりにヨシタカ君は気まずそうに応えた。

「仕事で飛ばしちゃったんだよ、機械と材料の間に挟んじゃって」

僕はかいつまんで仕事の内容と、事故のあらましを喋った。何度も喋っているから、まるで台本があるようにすらすらと説明してしまう。それにしても、小指の第一関節から先がきれいに無くなっているのが、そんなに目立つだろうか、と僕は思うのだけれど、意外に初めて逢った人には必ずそのことを訊かれる。それも、決まって云いにくそうに尋ねるのが常だ。それも含めて対応の仕方もすっかり馴れてしまった。

「本当は、カワイイ女の子を泣かせた罰なんだぜ」

上島さんが横から口を挟んだ。確か、上島さんも僕の小指を見て、あ、と云ったまま口ごもった一人だ。ただ、上島さんの場合、僕が事情を告げると、こんな風に云った。

「イヤ、俺の周りにはそういう指のヤツが多いからさ、見慣れているんだけど」

他より一枚上手だった。上島さんは本物と付き合いがあるんだろう。僕という存在を知らない人には、見間違ってもおかしくはないある種特定の人達と、僕は結局、間違えられるのだ。

ただ、それ以来、上島さんがいる席で小指の話題が出ると、決まって女の子を泣かせたんだ、と云うのだ。

確かに、怪我をした当時の、まだかろうじて繋がっている頃に、包帯に巻かれた手を見て、ギターの練習にやってきた明日菜ちゃんが、大声を上げて泣き出した。何でそんな怪我するんですか、と僕は人の往来の盛んな詫間駅の待合室で、公然と彼女に責められたのだ。

でも、その話は僕と明日菜ちゃんだけが知っていることで、少なくとも僕は他の誰かに喋った記憶は無い。偶然なのだろうけど、上島さんがそのことを言っているのだとしたら、誰からその話を聞いたんだろう?

「だからこいつはベースでも、ピックでしか弾けないんだよ」

おどけた上島さんに乗っかって、藤木さんがそう言った。

小宮さんは、ベースなら一通りの奏法はこなしていたけれど、特にフュージティブでは指弾きが際立っていた。アイアン・メイデンのスティーブ・ハリスに影響を受けたとかで、ひどく硬い音でバチバチとピックアップに叩き付けるような音を出していた。それに薄くオーバードライブを掛けると、独特の分厚い音がしたのだ。

その後、ニューメタル系のベースはスラップ奏法の硬い音が主流になった。おそらく小宮さんは、そんな音でも楽々と弾きこなしただろう。KORNの叫びに塗れた曲を聴くと、僕はいつもそんなことを思う。

ああそうだ、と藤木さんの言葉を聞いて、ヨシタカ君は声を上げた。

「アニキのベース」

と云って、ヨシタカ君は僕をじっと見据えた。

「大沼さんが跡を継いでくれるなちょうどいい。アニキのベースとアンプ、形見にもらってくれませんか」

まだ置いてあるんですよ、とヨシタカ君は僕の返事を聞かないうちに、腰を上げて小走りで廊下へ出て行った。

僕は藤木さんと顔を見合わせて、一呼吸を置いて立ち上がった。彼が消えた廊下の方を覗いて、それから後ろを追う。

廊下の突き当たりにはダイニングがあって、その周りをグルリと囲むようにシンクがあった。カウンターで仕切られたキッチンが主流になってきた今と比べると随分古めかしく感じるけれど、建て込みは真新しかった。おそらく来客が多いのだろう。そのためにはキッチンとダイニングが渾然としている方が、扱いやすいと聞いたことがある。

そういえばウチの家も同じ作りで、広さは半分ほどしかないけれど、妹もユキちゃんも使い勝手はいい、と話していた。一号夫婦が越してきてからは、その部屋が妹の部屋のようになっている。妹はいつもダイニングテーブルの椅子に腰掛けて、隅に置いたテレビを見ているのが、いつもの光景になっていた。

ダイニングに向かい合うようにリビングがあって、ソファが部屋の大半を占めていた。壁には大画面の薄型テレビが押し込まれていて、なぜだかひどく狭苦しく感じた。実際他の間取りに比べてそれほど広くない。その中央を革張りのソファが占領していて、よけいに窮屈に見えた。

その傍らのサッシの引き戸が開いていて、レースのカーテンが揺れていた。おそらくそこからヨシタカ君は外に出たに違いない。追いかけようかと思うけれど、ダイニングから先は、明らかに他人の生活スペースで、そこに足を踏み入れてイイものかどうか、僕は躊躇した。立ち止まった僕の後ろで、藤木さんも立ち尽くしている。肩越しにリビングの方を覗いている。

だけれど、すぐにヨシタカ君はやはりレースのカーテンを押しのけるようにして顔を出した。その手には、ハードケースが握られていた。細長い長方形の黒いハードケース。

懐かしいな、と後ろの藤木さんが言った。口には出さなかったけれど僕も同感だった。僕らは吸い寄せられるように足を踏み出していた。

そのハードケースは手先の器用な小宮さんが自分で作った物だ。木枠を組んで、市場で使っている発泡スチロールをベースの形に合わせてくりぬき、丁寧にビロードの布で巻いてその内側に貼り付けた。何もかもが、小宮さんのベースにぴったり合った、一点物だ。

小宮さんはいつもそのハードケースを抱えて、スタジオや練習場代わりの大学の部室に現れた。ハードケースを開け、中から出てくるのは、年季の入ったナチュラル・サンバーストのプレジションベースで、小宮さんはそれしか使わなかった。予備もない。小宮さんの中学の先輩から譲ってもらった物らしく、相当な愛着があったのは、傍から見ていても良く分かった。

ヨシタカ君は、そのハードケースを無造作にリビングの端っこに置くと、また庭の方へと出て行った。

残された僕と藤木さんは、それぞれ腰を屈めて上からハードケースを覗き込んだ。埃を被ってはいたけれど、あの頃とまったく外見は変わりが無い。隅に貼ってあるステッカーは、藤木さんが考えたフュージティブのロゴだ。ライブの時にバラまいていた。そのステッカーも端がいくらか捲れて赤く灼けている。

ヨシタカ君は僕に、と云っていたけれど、ハードケースを開ける役は藤木さんに譲った。

ハードケースは蝶番の部分がいくらか錆びていて、蓋を開けると小さく軋んだ音を響かせた。しかし、中に入っていたベースはそのまま、ステージに降り注ぐライトを浴びていたままの姿で、そこに眠っていた。

小宮のベースだ、と藤木さんは呟いた。そしてボディーの部分に手を触れ、優しくすっと撫でた。

ネックとボディーの接合部分に黒のウエスが巻かれていた。きっと、小宮さんが触れたまま、誰の手にも触れずにハードケースの中で眠っていたのだろう。さっきの仏壇よりもずっと、そこに小宮さんの面影を僕は感じた。

じっと眺めているだけで、僕は時間を忘れそうだった。サンバーストの表面に、いくつかのキズがあり、その原因を僕はひとつひとつ思い出す。

そこへまた、ヨシタカ君が現れた。

「やっぱりアンプは俺一人じゃ無理ですね」

藤木さんは僕の目を見て、無言で促す。僕は、ハードケースを迂回してサッシの淵へ立った。小さなサンダルを見つけてそれを突っかけた。

そちらの庭は海に面している方と違い、生活感に溢れていた。物干し竿に洗濯物が揺れ、その足下には三輪車が転がっていた。その向こうにはプラスチック製の小さなブランコが置かれてある。そんな遊具で遊ぶ子供がいることに、初めて気づく。

庭は一応芝生が敷かれてあったが、雑草が目立つ。隣の家との境界にはフェンスがあって、そこの前に小さな花壇があるけれど、何も植えられてはいなかった。その端に少し大きな物置があってその戸が開いていた。そこにヨシタカ君が身体半分突っ込んでいた。

僕が覗くと、見慣れたアンプのキャビネットが見えた。ハートキーのスピーカーキャビネットは、特徴的な銀のコーンのスピーカーですぐに分かる。見栄えだけで選んだそのキャビネットに、250ワットのヘッドアンプを繋いでいた。スタジオや部室で鳴らすと床が揺れた。パワーが桁違いなので、実際には大きなライブでしか使わなかった。小さな小屋ならキャビネットはダミーで、そこに置かれているだけだった。

僕はまず、物置の隅に蓋をされたヘッドアンプを取り出してみた。いくつか他の段ボール箱などを避けてから、そっと持ち上げて、ゆっくりと運ぶ。おそらく真空管が入っていると僕は見当を付けて丁寧に扱ったのだ。でも、いざ外に出して蓋を開けてみると、実際はトランジスタだった。トランスがデカく重い。

ただ、アンプのつまみに数字の書かれたシールが貼ってあった。同じ音にすぐにアクセスする為に、つまみの位置を数字で控えておくのだ。油性のペンで走り書きされた文字は、小宮さんらしい無骨なタッチだったけれど、それが今も色褪せていないのに驚いた。

それからヨシタカ君と二人で床に置かれた物を物置の外に出し、キャスターの付いたキャビネットを押し出した。そちらにはうっすらと埃が浮いている。使うとなるとまず掃除から始めないといけないようだけど、おそらく一発音を出せば、埃など吹飛んでしまいそうな気もした。

音、出ますかね?とヨシタカ君は、心配そうに尋ねた。大丈夫、と僕は応えた。

「今度のライブに、藤木さんを東京でサポートしてくれているギターテクニシャンが手伝ってくれることになっているんだ。それに昔のローディーも、今回は音響で着いてくれるから」

僕が昨日集まった倉庫の持ち主の名前を出すと、ヨシタカ君は彼のことを覚えていた。何から何まであの頃のチームが再び集結するんですね、と目を輝かせた。

キャビネットはひとまずすぐに持ち出せるようにして、一端物置の中に仕舞い、僕らは家の方に戻った。レースのカーテンが揺れていて、その中を覗くと、藤木さんがあぐらを掻いている背中が見えた。

藤木さんはベースを抱えて、音を出していた。懐かしいフレーズが、細やかな音量だが僕には良く聞き取れた。

「小宮のベースだなぁ」

僕らに気づいた藤木さんは、そんな風に云ってクスリと笑った。そしてまた丁寧にハードケースに仕舞うと、静かに蓋を閉じた。また蝶番の軋む音がして、続いてフックを閉じるカチリと云う音が鳴った。

「しっかり謳わせろよ」

藤木さんはそう云って僕の肩を叩くと、その場から立ち上がって、再び廊下の方へと歩き出していた。

 

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