向こうの土手が徐々に遠ざかるように見え、河口に近づいたのが分かる。程なく信号のある交差点にさしかかり、まっすぐ行くと有明の海水浴場に行くのだけど、そこを右に折れて、荘内半島へ続く細い道に乗る。細いといっても観音寺と仁尾、さらには僕の住む詫間を繋げる幹線道路だ。

交差点を曲がってしばらくは、道路に迫るように住宅が並び、緩やかに上っていく。三豊の方からの裏道と交わる頃には、左手に海が見え始め、直ぐに海岸線を辿っていくようになる。車の行き来は少なく、快適なドライブコースだ。

長く遠浅の砂浜が見えてくると、また少し市街地に入る。小宮さんの家はその市街地の中にある、はずだ。

「小宮の家は何処だ?

と三好さんが後ろの藤木さんに尋ねる。だが、直ぐに返事は来なかった。

この辺だろ?と三好さんは今度は僕に訊く。

たぶん、と僕は応えるけれど、はっきりとした場所は知らない。葬儀の時に赴いたはずだったけれど、もう十年以上前で、忘れてしまった。

「藤木さんが知っているんじゃないですか?

僕の言葉に三好さんがルームミラーを見やる。

「え?おまえ達、知ってるんじゃないの?

藤木さんが身を乗り出してきた。僕も三好さんも、知らない、と応える。

いい加減な奴らだなぁ、と後ろから上島さんが呆れた声を出す。

電話してみる、と藤木さんがガサゴソやり始めたところで、広い路側帯に三好さんが車を止めた。目の前に大きなコンクリートが剥き出しの四角い建物が見え、そこの壁に書かれた文字を三好さんは指さした。

小宮水産、仁尾工場、と僕はそのまま声を出して読んだ。

「アレって、小宮んちだよな」

と云って三好さんはニヤリと笑った。

小宮さんの実家は、元々漁師を束ねる網元だが、父親の代に少し大きな干物工場を建てた。そこを皮切りに瞬く間に大きな食品製造グループを作り上げた。香川の彼方此方に工場と、直販の販売所を持っていて、一時期は外食事業にも手を出していた。

その頂点に立つ社長の座が、小宮さんの未来には約束されていた。

でも、小宮さん自身はあまりその未来を歓迎しておらず、それよりは漁に出ている方が性に合っている、とよく言っていた。バンドと平行して海に出るバイトを良くやっていて、大学を卒業しても、直ぐには父親の元で働こうとはせず、祖父の漁船に乗っていた。

そこで、小宮さんは帰らぬ人になった。決して小宮さんが選んだ道が、その結末を導いたわけではなかったけれど、父親はひどく悔しがった。出棺の時、その父親が人目も憚らず号泣していたのと、最期を看取ったような格好になった小宮さんの祖父が、がっくり項垂れている姿は強烈に僕の目に焼き付いている。

父親の跡は小宮さんの弟が継ぎ、今は専務か何かになっているはずだ。父親は名目上、社長のままだけれど、現場からは退いて久しい。そういう人事がローカルニュースで流れるぐらい、地元の一大企業になっていて、社長個人も時々テレビで顔を見かけたりする。

そして、彼の顔を僕は意外な所で見ることになる。

妹の勤めている総菜工場が、その小宮水産グループの傘下だったのだ。ライン主任として妹が作っているのは、海産物とは関係は無いけれど、小宮のお総菜、というラベルを貼って出荷している。

企業設立何十周年だかに、グループを上げて記念式典を開いて、そこへ妹も招待された。そこで配られたパンフレットを僕は偶々目にしたのだけど、そこに、見覚えのある小宮さんの弟が写り込んでいたのだ。

それまで一切、妹が何処のなんていう工場で働いていたのか、興味が無くて知らなかったが、その時初めて小宮さんのグループ企業の一部だと知ったのだ。

あたしも初めて逢ったよ、と妹は云ったが、その記念式典の時に社長と専務と一緒に集合写真に収まっていた。ここに小宮さんがいたかもしれない、と僕はその時思った。でも、歳を重ねた小宮さんの姿は、なかなか僕のなかでイメージは出来なかった。オマケにスーツ姿など皆目見当が付かない。

今、フロントウインドウ越しに見える工場も、たくさんある中の一つに過ぎなかった。そこで僕が車を降りて事務所に赴き、実家の住所を教えてもらった。日曜でも、ラインは動いていて、送風機の音なのか、風洞の中のような音が響いていた。所々染みのついた白の作業服に身を包んだおばさんが疲れた顔をして事務所で休憩していて、僕はそれを見ながら、妹もこんな感じなんだろうな、と思った。

小宮さんの実家はその工場から少し山を登った所にあった。僕はおばさんに聞いたままの道順をナビゲートしただけで、すんなりと辿り着いた。

海が見下ろせる高台に佇むその木造の家は、大きくはないがどっしりと構えていて風格があった。葬儀の時の記憶は、もっと昔の農家のような、複雑に入り組んだような印象があったけれど、今とはまるで違う。おそらく新築したか、リフォームしたのだろう。

背の高い生け垣の前に駐車スペースというか、空き地のような広場があって、そこに車を駐めた。生け垣を伝って門の所まで行き、呼び鈴を押した。呼び鈴はインターフォンではないけれど、音も聞こえない。そういうのに不満があるのか、藤木さんは続けざまに何度もボタンを押す。それから僕らはお寺の門のような、左右に広い門の前で、ぼんやりと突っ立って待った。

門の向こうでパタパタと走る音がして、重そうな両開きの門が開いた。お寺というより、お城の大手門みたいだ。誰の趣味だろう。

と、そこへ現れたのは、小宮さんの弟だった。彼は僕らの顔を見るなり、お久しぶりです、といって深々と頭を下げた。そして腰を低くしたまま、こちらへどうぞ、と中へ誘った。

僕は久しぶりに見た彼の顔に、思わず、ヨシタカ君、と声を掛けてしまう。彼の下の名前がヨシタカで、小宮さんは呼び捨てにして呼んでいた。それに影響されて、僕らもヨシタカ君、とそう呼んでいたのだ。

久しぶりにヨシタカ君、と呼ばれたのだろうか、僕の声に彼は苦笑しながら、お久しぶりです、と云ってもう一度頭を下げた。

門から玄関まで、丁寧に手入れされた庭が広がっていて、それは海が見える西の方角へ開けていた。生け垣がそちらに面した部分が一段低くなっていて、それ越しに燧灘が見渡せる。今日は良く晴れていて、水面に映る太陽の輝きが、乱れ踊っている様子がこちらまで届いているように見えた。そのキラキラと揺らめく間を、切り裂くように漁船が走って行った。

玄関をくぐると檜造りの広間があって、長い廊下が延びているのが見えた。先に上がったヨシタカ君の傍らから、エプロン姿の若い女の人が顔を出して、スリッパを並べた。妻です、とヨシタカ君は簡単に紹介しただけで、どうぞ奥へ、と僕たちを促した。

その時に気がついたが、彼はきっちりネクタイを締めていた。彼は一応の正装をして、僕らを出迎えていたのだ。

それに比べて僕ら四人は、革ジャンに、ジージャンに、スタジアムジャンパーに、セーター。藤木さんと三好さんはジーンズ、僕と上島さんはチノパン、明らかにユニクロスタイルだ。ウチに泊まったせいもあるけれど、昨日のラフな格好の延長で、別に身だしなみに気を遣うということもなく、普段通りでここに来てしまっていた。

十数年ぶりに小宮さんに会いに行くのに、果たして僕らはその格好で良かったのか分からないけれど、身内との間の温度差を何となく、感じてしまった。

一列に並んでよく磨かれた廊下を進んだ。ちょうど海の見える広間に仏壇があった。

ちゃんと座布団が四つ置かれてあって、僕らはそこに座る。藤木さんが正座したまま前に躙り寄って、まず黒い袱紗の香典袋をそっと置いた。それが香典袋というのかどうか、僕には分からなかったが、家を出る前にみんなで三千円ずつ出し合った。四人で一万二千円になって、割りきれる数はいけないんじゃないか、と上島さんが言いだした。それなら誰か千円余分に出せよ、と藤木さんが言って、でも十三って不吉な数じゃないのか、と三好さんが言った。それはキリスト教だろ?と藤木さんが言い返したが、割り切れた数が良くないのは結婚式よ、と庭から戻ってきたユキちゃんが洗濯籠を手にして言った。

結局そのまま一万二千円包んで、香典袋に仕舞った。有志、と表には書かれてあって、やっぱりそういうフォーマルなモノにまったく疎い僕らは、それが正しいのかどうか分からずに黙っていた。

二度、藤木さんが鉦を鳴らしたので、僕は手を合わせて項垂れ、目を閉じた。藤木さんの隣に座った三好さんが、身を乗り出して線香、と耳元で囁く。藤木さんは、慌てて目の前の台の上の箱から線香を取り出し、灯されていた蝋燭の火にかざした。

また二度、鉦が鳴る。また最初からかよ、と三好さんが呟くと、上島さんが僕の隣で堪えきれずに吹き出した。僕は硬く目を閉じて、再び項垂れて我慢した。

あっけないほど短い再会だった。けれど、小宮さんに逢った気はしない。

顔を上げて、やっと落ち着いて仏壇を見ると、小宮さんの写真の横に、祖父の写真が飾ってあった。先祖代々を奉っているのだろうけれど、写真はその二つしか無かった。

僕が振り向くと、ちょうど後ろにヨシタカ君とその妻が正座していた。一仕事終えたのが分かると、どうぞこちらへ、と妻の澄んだ声ですぐ後ろの大きな座卓へと促された。僕らがそれぞれ動き始めると、彼女はまた奥へ引っ込んでいった。ヨシタカ君が、座布団を並べる。手慣れていた。役割分担もリハーサルでもしていたかのようだ。

何年ぶりになるのかな、と三好さんはいきなりリラックスしてあぐらを掻いた。お茶をお盆にのせて戻ってきた妻に、皆さんで、と云って上島さんが琴平の銘菓を差し出した。どうもご丁寧に、とヨシタカ君の方が正座を崩さず言った。

藤木さんは暫く仏壇の前を動かずに、心持ち顔を上げたような姿勢でじっとしていた。僕はその背中をぼんやりと見ていた。

やっとこちらを振り向いた藤木さんは、なんだか、と何か言いかけて、そのまままた口をつぐんだ。部屋の隅に置いてあるストーブが効いていて、部屋の中は随分暖かい。海に面した大開の窓には、障子が引かれていて外は見えない。代わりに障子紙を輝かせるように陽光が照らしている。

ここは昔のままかな、と三好さんが気さくな感じでヨシタカ君に尋ねた。場所は変わってませんけど、家は建て替えました、アニキの葬儀の時は、まだ前の家でしたよね、と云ってヨシタカ君は何度か頷いた。

昨日も云ったけど、と藤木さんがやっと口を開いた。

「何年も、イヤ何十年も、ご無沙汰してすまなかったな」

藤木さんはそう言って、ヨシタカ君に軽く頭を下げた。急に恐縮したように、彼は手を振る。

「いえいえ、何というか、今になって思い出してくれて、本当に嬉しいんですよ。オレたちも、あの頃のことはもう記憶の彼方、ってちょっと追いやってましたから」

葬儀の時、彼はずっと涙を見せなかったのを思い出した。僕と同い年で、高校を出たばかりだった。兄の後を追うように同じ大学の同じ学部にストレートで入学した。つまり、藤木さん達の後輩に当たる。そんな彼は、気丈に振る舞ってどちらかというと終始、僕らの相手をしてくれていた。父親は、仕事関連で会う人が多い。友人は後回しになるところを、彼が気を遣ってくれたのだ。

僕は初めて、その時小宮さんの家の姿を垣間見た。想像よりもずっと、格式に彩られた家だった。小宮一族は古くからの網元で、父親の代で大きく企業へと変転していった。そのちょうど過渡期だった。それもあって、小宮さんが見せていたベーシストの顔からはかけ離れた、肩書きばかりが横行する葬儀に僕は思えた。純粋に、小宮さんのことを悔やむ姿を晒すのに、物怖じしてしまう雰囲気だった。

小宮さんが家を継ぎたくはない、ずっと漁師でイイ、といった言葉をやっと僕は理解したのだけど、一方で、そんな中で僕らに気遣うヨシタカ君の姿を見て、彼が小宮さんに代わって家を継ぐのだろう、と納得したのだ。

亡くなって代を譲ったのではなく、おそらく弟の方にこそ、その才覚が備わっていたのだろう。もしかすると、小宮さんはそのこともちゃんと分かった上で、家を継ぎたくないと言っていたのかもしれない。

僕が予想した通り、今の小宮水産グループの実務を取り仕切っているのは彼だ。そういう意味では、僕の印象は変わらない。それでも、幼さを残していた面影はもう微塵もない。精悍な、目に輝きのある立派な大人になっていた。

それに比べて、と自分を省みる。同じように僕は上島さんと藤木さんを見る。

昔、小宮さんの後を着いて、ヨシタカ君はよくライブを見に来ていた。僕が加入して初めてのライブの時、バンドに参加できるなんて凄いですね、と彼は本当に羨ましそうに言った。確かに凄いのかもしれないけれど、同じぐらいプレッシャーを感じていた僕は、彼のようには素直に笑えなかった。

あの時と同じ輝くような表情を、藤木さんが今度のライブの話を持ち出したときに、彼は見せた。そのことに僕はちょっと驚く。

「再結成ですかっ!それは凄いじゃないですかっ」

一際大きな声で、そう言ったヨシタカ君に、お茶菓子を持ってきた妻がたじろぐ。

それから藤木さんが、今度のライブの概要を説明する。その項目一つ一つに、ヨシタカ君は驚きの声を上げた。凄い、と何度も言い放つ。藤木さんがその言葉に煽られて饒舌になっていくのが分かる。

「それで、ベースはこいつがやることになったんだ」

藤木さんは話の最後に僕を指さしていった。ヨシタカ君は、あの時と同じ目で、それは凄いですね、と言った。

「大変だよ、責任重大だから」

そう僕が言うと、僕にはバンドのことは良く分からないですけど、大沼さんなら大丈夫ですよ、と返した。

「アニキはずっと大沼さんのことを褒めてましたから」

?と声を上げたのは藤木さんだった。

「本当ですよ、高校生なのにオレたちのバンドみたいなところに放り込まれて、藤木さんの・・・」

と言いかけて多少慌てる。そして、兄貴がそう言ってたんですよ、と注釈を入れる。

「無理難題に真面目に取り組んでいるんだよって。テクニック云々じゃなくて、あいつに着いて行けるヤツなんて、そう居るもんじゃないんだぜ、ってね」

着いていけなかったけどね、と僕が言うと、藤木さんの方が苦笑する。

でも、兄貴が言っていたのは本当ですよ、とヨシタカ君は念を押した。

「小宮はベース、うまかったからなぁ」

三好さんが言った。僕を含めて他の二人も大きく頷く。

「惜しいヤツを亡くしたよ」

藤木さんがまた仏壇の方を向いてぽつりと呟いた。

「そう言ってもらって、アニキも喜んでますよ」

そうかなぁ、と疑問型で呟いた藤木さんは、その言葉が含んだ後悔を、自分に向けるように少しだけ顔をうつむけて、目だけで仏壇の端から端までを眺めた。藤木さんはそこに、小宮さんの面影を感じ取れているのだろうか、と僕は思う。

言葉が途切れ、沈黙がその後暫く続いた。やけに外が静かで、僕は耳を澄ます。何も聞こえるはずがないのに、遠くの海の音をいつの間にか探していた。

 

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