ちょうど一週間前のやはり日曜の夜、僕は藤木さんの妻である恵子さんに逢っていた。この冬三度目、今年に入ってからは二度目になる。

恵子さんは、かつてはフュージティブのボーカリストで、藤木さんと結婚してからは、フリーアナウンサーとして地元でテレビのレポーターや結婚式の司会なんかをやっている。少し前までは、コミュニティFMでパーソナリティーもやっていた。

フュージティブの再結成だから、恵子さんに声をかけるのは当然だった。メンバーの誰もが、恵子さんの声がなくては再結成などあり得ないと思っていた。

しかし、恵子さんは頑なにそれを拒んだ。

理由は上島さんだ。

上島さんは数年前、法に触れる事件を起こして暫く塀の中で暮らしていた。そのことが恵子さんの中で引っかかっているのだ。昔の仲間だから、という寛容を越えたところで、恵子さんの中の何かを傷つけたらしいのだけど、詳しいところは今のところ僕にも他の誰にも分からない。

いつの間にか僕は恵子さんの説得役を押しつけられて、話し合いの機会を持った。何度尋ねても、その核心部分は分からない。当の恵子さん自身にもはっきりとは理解できていないようで、ただ、身体がどうしても拒否してしまうのだ、という。それが本当かどうかは分からないけれど、実際に恵子さんの声でそう言われると、僕も納得してしまう。それはとても繊細なことだと思うのだけど、だからこそ、それ以上触れてはいけない気がしてならないのだ。

フュージティブの再結成が本格化してから、恵子さんははっきりと上島さんを含めて、逆上せ上がっている僕らに拒否を示すようになった。それを最も身近で体験している藤木さんとの夫婦仲もかなり険悪になってしまったようだ。藤木さんがウチの家にしょっちゅう顔を出すようになったのも、その辺が関係している。代わりに上島さんといつも連んでいるのだから、仲直りも当面は無理に思える。

藤木さんは上島さんの音を欲している。

今はそのことが、結局恵子さんとの仲よりも、優先している。

元々フュージティブは、二人が出逢って始まった。他のメンバーは、恵子さんも含めて、後から参加したに過ぎない。フュージティブとしての音が固まってからは、恵子さんの声もフュージティブの個性の大きな部分を占めるようにはなったけれど、一歩を踏み出した事実は、藤木さんの中で相当大きなものだということだ。

藤木さんとは、そういう人なのだ。

それでも恵子さんの声は、と僕は究極の選択を迫ってみたくなるのだけど、さすがに怖くて訊けない。せめて藤木さんの中でも、苦渋の選択であって欲しいと願うばかりだ。

それならば、藤木さんが説得役を僕に押しつけたのも納得できる。

だからなのか、先週の日曜日は、藤木さんがセッティングした。二度目に逢った時に、僕はもう諦めたのだけど、もう一度だけ、といって藤木さんが珍しく、僕に懇願したのだ。

別に頭を下げたわけではないけれど、頼むからもう一度だけ説得してくれないか、と殊勝な声で僕にそう言ったのだ。さすがに、藤木さんにそう言われて断れはしない。

ただ、結果は見えていたし、同じように藤木さんに頼まれて僕と会った恵子さんも、当然のように何も変わらないわよ、と逢うなりそう言った。そうですよね、と僕は応えて、後は世間話をした。

それでも、実際に今は何処までライブの詳細が決まっているのか、恵子さんは僕に尋ねた。今までライブのことも、フュージティブの現在にすら触れようとしなかった恵子さんの、それは細やかだが明らかな変化だった。だからといって、恵子さんは決意を翻そうとはしなかった。

おそらくそれは、僕らのバンドの話ではなく、藤木さんとの関係のための接点だったんだろうと、僕は思った。

決裂というよりは、お互い再確認しただけで、気まずさといくらかの照れを残して僕は恵子さんを見送った。

家に帰ると、藤木さんが一人で待っていて、やっぱりダメでした、と僕は告げた。藤木さんはそうか、と一言だけ言って、頷くとそのまま帰って行った。

その翌日には、ライブと、フュージティブの再始動の詳細が参加メンバーに長々としたメールとなって、送られてきた。思いつくままを書き連ねたようなメールで、それを書き記すことで、藤木さん自身も頭を整理しているような、そんなメールだった。一部はひどく細かく書かれているけれど、一方では相反する項目が並んでいたりと、そのメール一通で何もかもがつまびらかになるというものでもなかった。

とにかく詳しくはミーティングをするから、と最後に昨夜の日付が添えられていた。そして、僕らは幾ばくかの胸の高鳴りを感じながら、昨日という日を待ったのだった。

それからミーティングまでの一週間、藤木さんはフュージティブの再結成ライブのことを、一人で練り上げ、一人で決めてしまった。セットリストから、構成まで、そして恵子さんに代わるボーカリストの選定も済ませていた。

云われるまま、僕らはミーティングに集まった。

ついでだからもう機材を搬入しよう、と云ったのは三好さんで、それが唯一、藤木さん以外が決めた事柄だった。

その三好さんがドラムを試奏し終えて、ミーティングに集まったメンバーがリハーサルルームの隅に並べた椅子に座った。そこにはちゃっかりホワイトボードが置かれてあって、あの頃の大学の部室をきっと誰かが覚えていて用意したに違いない。その人物にも心当たりはある。

ホワイトボードを前にして、冒頭、藤木さんははっきりと、恵子は諦めた、と一言言った。大沼ががんばってくれたけど、と僕をチラリと見て言葉を区切ると、今回は無理だろうな、と言い終えた。

その瞬間、部屋の中には、何となく安堵のような、不思議な空気が蟠った。残念だというのは、おそらく今回参加するメンバーそれぞれの胸中にはあったはずだけど、恵子さんの身の振り方が決まらない限り、音が出せない状態が続く。それに一応の結論が出たのは、僕らにとっては幸いなことだ。

とにもかくにも、コレで音が出せる。前に進むことが出来るのだ。

恵子さんの話は結局その一言で終わり、藤木さんの話もフュージティブ再結成一色に染まる。これからのことを話し始めたのだ。

その中で、最も皆が訊きたかったのは、代わりのボーカルをどうするか、ということだった。

それについても藤木さんはちゃんと決めていて、根回しも済んでいた。その日のミーティングに集められたメンバーで、だいたいの予想はついたが、それははっきりと藤木さんの口から語られた。

今から曲を覚えるという負担も考えて、何人かで恵子の代役を担う、と藤木さんはプランを語り出した。確かにそこに集まったメンバーに、ボーカリストの数がはみ出していた。

代役のまず一人目は、僕の今の音楽の相棒であり、同居人の皆に一号と呼ばれている彼だった。藤木さんのバンドで男性ボーカルが歌うのは初めてだ。藤木さん自身、その大きな変化に最後まで躊躇があった。

だけど、藤木さんはもうフュージティブを男性ボーカリストのバンドにしてしまおう、と腹をくくったようだ。恵子さんが歌っていたほとんどの曲を、一号が担う。そのために、一部の歌詞の変更がなされていて、それもミーティングの時には済ませていた。

それに加えて、明日菜ちゃんが高校の文化祭に出演した時のボーカリストも、恵子さんの代わりを務めることになった。その文化祭をみんなで見に行った時から、藤木さんは気になっていたようだ。上手い下手ではなく、華があるボーカルだ、とそんな風に評価していたのを僕は覚えていた。

彼女は美麗ちゃんといって、明日菜ちゃんよりは一学年後輩で、学校一の明日菜ちゃんのファンらしい。バンドメンバーに選ばれた時に思わずうれし涙を流し、喉を壊すかと思うぐらいにハードな練習をこなしたらしい。

確かに、背が低く幼い顔をしているのに、歌声はパワフルで明日菜ちゃんの歪んだギターにも良く映えている。歌う時の彼女の瞳は真剣そのもので、どこか明日菜ちゃんに似ていた。

文化祭の時のバンドもライブには参加することになっていて、一足早くリハーサルスタジオで練習を始めていた。そこを偶々藤木さんが覗いた時に、ちょっとしたアイデアを思いついた。ボーカルの美麗ちゃんが吹奏楽部だ、という話を聞いてインスピレーションが湧いたのだ。

エリック・クラプトンがウィントン・マルサリスとセッションしたような感じで、何か出来ないか、と藤木さんなりにアレンジしたものを、彼女と明日菜ちゃんを呼び出してそのスコアを手渡してみた。吹奏楽部の部長を任されている美麗ちゃんは、トランペットを担当していて、ウィントン・マルサリスと聞いて驚喜してメンバーを集めた。

ピアノだけ上島さんに頼んで、ハウリン・ウルフの「フォーティー・フォー」を試しにやってみた。編成はクラプトンのアルバムよも小規模だが、美麗ちゃんの声がそれを覆した。何処にそんな苦み走ったニュアンスが備わっているのか、実に上手にハウリン・ウルフをかみ砕いた歌を披露した。

藤木さんが面白そうなことを考えた、と明日菜ちゃんがメールをよこしてきて、僕はその場に立ち会ったのだけど、やはり僕も彼女の意外なボーカリストとしての素質に驚いた。独特の声を持つハウリン・ウルフを前にして、声質はいくらかハスキーに真似ているだけだったが、唸りや弾ける声のトーンを自分なりにアレンジして僕らに聴かせたのだ。

そのメンバーで卒業ライブに出るように、その場で藤木さんは半ば強引に決めてしまった。選曲も、アレンジも俺に任せておけ、とプロデューサーとしての藤木さんが熱を上げた。こう見えて、と上島さんは前置きして、藤木はプロのミュージシャンなのだから任せておけば大丈夫だよ、と多少萎縮しているメンバーを宥めた。まぁ、少しは絞られるだろうけど、と付け加えるのも忘れなかった。

それだけに飽き足らず、美麗ちゃんを恵子さんの代役に、ともうその時には決めていたらしい。恵子さんへの説得がまだ結論を見ていなかったけれど、どうしてもダメなら一号と美麗ちゃんで、とはその時から想定していたのだ。

ただ、美麗ちゃんの声には藤木さんは別の意味でも惚れていた。

「恵子の声は、美麗ちゃんとは方向性が違う。だから、何れ一号が恵子の代役として収まるとしても、彼女の為にも、フュージティブのこれからの為にも、可能性を試してみたいんだよ。だから、美麗ちゃんには自分がステップアップするチャンスにして欲しいんだ」

藤木さんはそう言うと、プリントアウトしたばかりの楽譜を僕らに配った。タイトルはまだ決まっていない、それは新曲のスコアだった。

 

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