「家族って、その言葉を聞いて思い出すシーンがあるんだ」

そう言うと、一号は目の前のコップに入った水を一口飲んだ。

「シーン?

僕が訊き返すと、一号は黙って頷き、そして静かに、表情を変えずに、言葉を紡ぎ始めた。

「俺の父親ってさ、岐阜では名の知れた大工だったんだ。腕が良くて、フリーだけどいろんな現場から引っ張りだこで仕事が途切れることがなかった。羽振りが良くて、若い者の面倒見が良くて、評判が良かったんだよ。

でも、それは仕事上というか、外面だけ。オレたちが居る家にはほとんど帰らないし、お金も入れないし、昔気質の職人そのまんま、って感じの飲む打つ買うの豪快な人だった。そういう人は人気者だけど、家族に持つとつらいんだよ。

父親の周囲の人はみんな、立派なお父さんを持って、なんて言うんだけど、全然納得できなくて。家はもう母親が一人で切り盛りしてて、オレともう一人姉ちゃんが居るんだけど、ずっと貧乏で、肩身が狭くて。

それで、学校から家に帰っても、誰も居ないことが多くて。父親は帰ってこない、母さんは深夜まで仕事だし、姉ちゃんも時々家出するし、小学校の頃に誰かと夕飯を食べたっていう記憶があんまり無いんだよね」

そこまで言って、一号は窓の外に目を向けた。空の方を見上げて、眩しそうに目を細める。

「そんなだからさ、滅多に帰ってこない父親が帰ってくると、変に緊張して、それで決まって夫婦げんかが始まるんだ。喧嘩が始まるとさ、夜中でもオレや姉ちゃんまでたたき起こされて、その目の前でやり合うわけ、なぜだか知らないけどさ、オレたちを味方に引き込もうとするのね。

でもちっちゃなオレたちに、どっちかに肩入れするとかできないじゃん。曲がりなりにも、父親と母親なんだから。でね、ある時、喧嘩がヒートアップしてさ、母親がオレと姉ちゃんに言ったんだよ。私は家を出て行くけど、あんたたちはどっちに着いていくんだ?ってね。でもさ、オレたちにどっちが、なんて言えないだろ」

一号は僕の目を見たけれど、僕は今ひとつそのイメージが湧かなくて困惑したままだった。マンガのような世界を想像は出来るけれど、それを現実と重ね合わせることが上手くいかないのだ。

同意を求めようとして諦めたのか、一号はまた窓の外に視線を移した。

「答えられずに居たら、結局あんたたちは父さんの味方なんだね、って一方的に言われちゃってさ。そのまま母さんは本当に家を出て行ってしまったんだ。取り残されたオレたちは、もう泣くしかなくてさ。翌朝になって親戚の人が迎えに来てくれて、それ以来家には帰っていないんだ」

もう一度、一号はコップの水に口を付け、そのまま一気に飲み干す。

不思議とその表情は、悲愴な感じでもなく淡々としている。それはいつもの一号の見慣れた表情だったけれど、口から出る言葉とは最もギャップがあるような気がした。

「少し大人になって考えてみたら、随分と身勝手っていうか、ひどい話だな、と思ってさ。それ以来オレはもう家族の誰とも会わなかった。姉ちゃんも早々と家を出てさ、オレは名古屋の栄養士の専門学校に進学して、それから兄ちゃんたちに会ったんだよ」

初めて一号に逢った時、今と変わらぬ笑顔で、熱のこもらない軽い感じでよろしく、と言ったその声を今でもハッキリと覚えている。その印象を引きずったまま、気がつくとそれからずっと一緒に居るのだ。

「本当にそれ以来家族の誰とも会ってないし、連絡先も知らない。生きているのか死んでいるのかも知らないし、興味も無い。そもそも、家族っていうモノがオレの体験には希薄なんだよ。今考えても、オレは家族団らんとか、そういうものを経験した記憶が無いんだよ。

だからかな、家族っていうモノがオレには上手くイメージできないんだ。

ユキが妊娠したって聞いた時、そろそろ結婚とか考えていたし、一緒に未来をいろいろ思い描いていたんだけど、ただ、その基本的な家族というモノが、どんな姿形をしているのか、自分の中にまったく雛形というか、そういうものがないことに気づいて、それで本当に戸惑ってしまったんだ」

でもね、と言って、しばらく一号は口を半開きにしたまま、言葉を探した。

僕はじっと待つ。

「最初に兄ちゃんの家に居候することになって、初めて夕食を囲んだ時だよ。七夕が居て、なっちゃんが居て、兄ちゃんが居て、なんだか家族だな、って感じたんだよ。まずね、兄ちゃんとなっちゃんはね、ちゃんと家族の中で育ってきたんだな、ってそんな風に思った。だからごくごく自然に、そこに家族団らんがあったんだ」

しかし、実際は妹は離婚問題で、壊れかけた家庭というモノに見切りを付ける算段をしていたし、僕は僕で、外で放蕩している間に引っ越しをしたその家に、まったく馴れない居心地の悪さを感じていたのだ。一号が言う家族団らんは、その言葉通りのイメージからはかけ離れていた、という思い出しか僕にはなかった。

その後七夕の件があって、ますますそれは、壊れた食卓の思い出が強くなり、記憶の隅に封印してしまったのだ。

でも、と言いかけて、一号が制す。

「オレにとっての家族の姿が、あの食卓のイメージだけが唯一の拠り所なんだよ。あの映像に、ユキや、赤ん坊を当てはめると、なんだか自然に、オレがこれから築いていく家庭というモノを実感できるんだよ」

オレにとってはね、と一号は付け加えた。

それはもう、僕に反論の余地を与えなかった。

「オレにとってはね、シアワセの形なんだよ」

言い切った一号は、とても健やかな、優しい笑顔を浮かべていた。満足そうに僕を見て、その目にまさしく彼が思い描いている、幸せな家族の姿が浮かんでいるようだった。

その表情を含めて、僕は一号の中に、今までに見たことのないポジティブな意志を感じた。これほどまでに、自分を吐露した一号を見たのは初めてだった。それが、新しい命の出現と、無関係とは思えなかった。

ユキちゃんとの結婚を意識した時から、その種が蒔かれ、紆余曲折の中で育まれ、今芽吹いたのかも知れない。赤ん坊よりも少し早く、お父さんが成長を始めた、というところだろうか。

それは決して悪いことではない。今までの一号からすると、大きな変化であるはずだけれど、これほど慈しみたくなる変化もそうはないという気がした。

僕は誰よりも、やはり一号を相棒として深く愛しているのだ、と思って苦笑した。

暫くの沈黙の後、一号は何か決心が付いた、というような感じで二三度頷き、またまっすぐ僕を見た。

「兄ちゃんがこれからも一緒に、っていってくれるのは凄く嬉しいよ。こういう言い方はおかしいけど、オレたちの家族は、ユキと一緒に兄ちゃんの家に居候してからもう始まっていて、今朝やっと最後のピースが揃ったような感じがしたんだ。

でも、このままシアワセがずっと続いていくっていうのは、贅沢かも知れないけれど、なんだか嘘っぽいっていうか、信じられないという感じで不安なんだ。

それからもうひとつ、それが本当に兄ちゃんやなっちゃんにとって、幸福なことなのかな、っていう疑問がある。オレたちの我が儘が過ぎるんじゃないかって、そんな気がするんだ」

言い終えぬ間に、僕は首を振った。

「オレも夏美も、七夕の意趣返し、みたいな感じでいるわけじゃないぜ。友情とか、そういうのはまたちょっと照れくさいけど、ただ、二人が家に転がり込んできた時に、最初にそのことを言い出したのは夏美の方で、オレはそれに従うだけで。でも、実際二人が居る日常がやってくると、なんだか、一緒に育てているっていうか、おまえの言葉を借りると、家族の一員、という感覚が、オレの中にも芽生えてきたんだよ」

血のつながりはたしかに、全くない。それは七夕の時に感じたような、どこか無意識の部分で繋がっているという確固たる後ろ盾は希薄だ。でも、関わり合っているという感覚は、自然と産まれてきて、それはまさしく、妹が言ったように、巻き込まれるために近づいていったようなものだ。

愛情がそれを裏打ちするのだろうか。

僕は今までまったく意識してこなかった、違う種類の通い合う情のようなモノに、やっとこの歳になって気づかされたのかも知れない。

僕はふと改まって自分に諭すように、曖昧な希望をまた模索する。

「今すぐ結論を出すものじゃないかもしれないな。これからどうなるか、わからないし。でも、オレと夏美と、一号とユキちゃんが居る生活が当たり前になってきたんだ。そこに一人、新しい赤ん坊が加わっても、それがゴールじゃないだろ?今の生活に何の不都合もないんだから、このままずっと続けていきたい、っていうだけなんだよ」

僕の言葉に、一号はうんうん、と声を出して頷いた。

「ユキにも話してみるよ、ユキは兄ちゃんはともかく、なっちゃんとは離れたくないと思っているはずだよ」

一号はそう言うと、ペロッと舌を出してみせた。僕はフン、と鼻で笑ってそっぽを向いた。

僕の家に赤ん坊が居る姿を想像する。叔父が買って組み立てたベビーベッドに眠る赤ん坊。

他人の家にその光景があるのではない。それは間違いなく、幾日かすれば目の当たりにする光景なのだ。

漠然とした未来は想像できても、それはまだ、ぼんやりとして実態がアヤフヤだ。最も確実な未来なのに。

でも、その曖昧さが、結局希望の拠り所なのかも知れない、と僕は思う。

上島さんが言いたかったのは、もしかしてそういうことなのか、と気づいて思わず、僕は舌打ちしてしまった。

 

 

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