また病院に戻ってくるんだから、と僕は自分の車の前まで行ったけれど、鍵がないことに気がついた。僕が五年ローンで買った大衆車は、今は妹が主にハンドルを握っている。ユキちゃんの付き添いに、病院や買い物などの二人揃ってのお出かけの時、家にあるクルマの中で最も安全なのは、僕の車だった。

もう一台、家には妹名義の軽トラックがある。かつて妹はがっしりとした作りの軽自動車を、七夕が居る頃に乗り回していたけれど、離ればなれになった途端、用がないと言って売ってしまい、代わりの足に格安の中古の軽トラックを買ったのだ。

愛車をユキちゃん、というより小さな命のために供出した僕は、もっぱらその軽トラックを宛がわれている。今日も家からここまで、その軽トラックできた。妹が手に入れた時点でもう何十年乗っているのかわからない軽トラは、どんなに吹かしても時速六十キロで悲鳴を上げる。今時手動式のチョーク付きなんて骨董品だ。

結局車のキーを取りに戻るわけにもいかず、その軽トラに僕と一号は乗り、病院の駐車場を出た。初めて乗るわけではないけれど、背の高い一号が助手席に乗ると、途端に車内が狭くなる。カーステレオも着いていないし、ラジオはNHKしか入らない。でっかい押し込み式のボタンがもう戻らなくなっているのだ。

ただ小回りはきくので、農道や用水路脇の幾らか広いあぜ道なんかも走ることが出来る。

街中の入り組んだ場所にある産婦人科を出ると、住宅街を縫うように走って行く。

いちばん近くで食事が出来るところといえば、国道沿いのファミレスがあった。大きなショッピングセンターの隅にポツンと立っていて、出来た当時は個人経営のレストランが入っていたけれど、最近チェーン店に看板替えしていた。

ファミレス、という結論に達して、僕と一号は少し躊躇した。というより僕には、ファミレスにあまりいい思い出がなく、その事件以来足が遠のいていたのだ。

以前は、高松の路上で二人で唄った後、ミーティングと称して浜街道沿いのファミレスに寄るのがいつものパターンだった。それが随分と行っていない。

でもそこしかないよ、と一号が言って、僕は渋々同意する。

僕はギアの選択に気を遣いながら国道まで出た。間もなく、明るい色で目立っている、ファミレスの看板が見えてきた。

相変わらず何処のファミレスも、駐車場は広い。日曜日の昼前に、車が混み始めている。ちょうど国道沿いで、車が入りやすい立地も作用してか、僕が駐車場の隅に車を駐めると、次から次へ、新しい車が入ってきた。

ほとんど、家族連れの大きなワゴンか、SUVだ。あまり車には興味が無いけれど、軽トラックと比べると、みんな高級車に見える。

大きなテーブルは直ぐに家族連れで埋まっていき、僕らは店のいちばん隅の二人掛けのテーブルに通された。

僕らを案内したウエイトレスは明るい笑顔でハキハキと声を出す。久しぶりのファミレスに幾らか気圧されながら、僕はその後を着いていく。

ちょうどランチの時間が始まっていたので、ドリンク・バー付きの和食ランチを二つ頼む。なぜか一号はご飯を多めに、と注文を付ける。

ウエイトレスが去った後、なんとなくホッとしたように僕らは顔を見合わせて、自然と顔をほころばせた。そういえば、早朝から今まで一号は一睡もしていないはずで、しかもユキちゃんの父親登場というハプニングまであったのだ。ここに来てやっと、緊張が緩んだのかも知れない。

テーブルの上には、大きな窓から差し込む陽の光が踊っている。見るともなく、僕は外の風景に目を向ける。駐車場の向こうにビニールハウスが見える。その間に細いあぜ道があって、小さな紫色のレンゲが咲いているのが見えた。

四月になっていた。そういえば、ユキちゃんは、早生まれになるかどうかを気に掛けていた。僕自身が四月の早い時期が誕生日だった。でも、それぐらいがちょうど好い、とユキちゃんはそんな風に言っていた。

その話をしている時に、一号が僕より二つ上だった、ということも、初めて知った。てっきり同い年だとばかり思っていたのが、その時、生年月日を聞いて年上であることが判明した。さすがにその話は間違いなく初耳で、一号もそれを否定しなかった。

つまり、僕よりずっと、フュージティブの中では藤木さん達に年齢が近く。世代を共有していたということだ。

そういう話を、僕らはあまりしてこなかった。音楽の話は好きなモノ、嫌いなモノ、それ以外のモノ、何でも共有してきた。オリジナルを作る時は必ず、曲に対する意図のズレが見える時があったけれど、そういう時はとことん話し合って差異を最小限に縮める努力を重ねた。

それなのに、一号がどんな人生を送ってきたのか、そういうことには全く知らないのだ。おそらく一号も同じで、僕の過去については僕自身より、妹の口から知ったことの方が多いかも知れない。

互いにそういう部分に興味が無いのだ。

他人に関心が無い、というよりも、プライベートな為人を互いに印象づけるのに、語るよりもまず、音楽の中ですりあわせてきていた気がする。もちろんそれはすべてでは無いし、何処か実像とのズレはあるはずだ。

でも、それで充分なのだ。少なくとも、僕と一号の間では。

そんな僕らはこれから未来を共有する。

そのことについて、ぼんやりとだが僕にはあるプランがあった。それをいつ口にしようか、ぼんやりとタイミングを計っている最中だった。

「路上ライブどうしようか」

一号がふと、呟くように言った。

「子供も無事産まれたし。そろそろ季節だろ?

今度はちゃんと僕の顔を見て言う。

僕らが路上ライブを始めて間もなく、あるスナックの店長に見初められて、その階下のスペースで演奏するのが定番になった。一応、形的にはそのスナックの客寄せ、という名目で、本当は規制があって音が出せない場所で、週に一度、唄っているのだ。

秋の終わりから、ゴールデンウィークが明けるぐらいまでは、夜は寒い、という理由で路上ライブは休みにしている。今年はその時期に、ちょうど卒業ライブが入ったことになる。それも終わって、一段落という所だが、レギュラーとしての路上ライブについては、まだ何も考えていなかったのだ。

「子供は産まれてから大変なんだろ?

お父さんのおまえが、と言いかけて辞めた。

たしかに一号は父親になった。でも、僕の中で、子育てをする父親、という現実に対して、一般的に聞きかじった情報しか持ち合わせていない。一号がオムツを換えたり、子供を風呂に入れたり、という光景を、ちゃんとイメージすることが出来ないのだ。

もっともそれは、これからいくらでも目の当たりにして、ちゃんとリアルな映像として僕の中に刻まれていくのだろうけれど。

「でも、準備だけはしておいた方がイイと思うんだ」

乗り気な一号に反して、僕はあまり気持ちが乗ってこない。今の今まで路上ライブのことなど忘れていたのが正直なところで、それだけフュージティブに掛かりきりだったということだ。

「今年は、子供が産まれたから一年、お休みします、って云ってもいいと思うんだけど」

うーん、と一号は唸った。滅多にみせない、気むずかしい表情をする。曲の方向性で対立した時に、稀に見せる顔だ。一号がどうしても譲れない、と我を張る時のモノだ。

「いい加減と思われるかも知れないけど、オレよりはずっと、なっちゃんの方がお父さんみたい、って思うんだよ。兄ちゃんは立ち会ってないからわからないと思うけど、出産の時もさ、オレなんかもう慌てるばっかりで、最後までユキの手を握ってたのだってなっちゃんなんだ」

なっちゃんというのは、僕の妹の名前だ。

夏美という。

自分の名前に夏という季節が着いていて、子供が産まれたのが七月七日で、もう七夕という名前以外は思いつかなかったらしい。妹を周囲の者たちはなっちゃんと呼び、僕は昔からずっと夏美、と名前で呼んでいる。

「夏美も、その辺は承知しているんだろ?どっちかって言うと、オレや一号なんか、当てにしてないっていうのが正直なところじゃないか」

ふと、それは離婚の影響かな、と思った。

「だから、なっちゃんに押しつけるわけじゃないけど、なっちゃんが居るから、週に一度の歌ぐらいは勘弁してもらえるかな、って」

それよりさ、と一号は身を乗り出す。

「オレ今、凄く唄いたいんだよ。変だな、と自分でも思うけど、ライブが終わった時に、なんとなく物足りないな、って感覚があって、今朝、子供が産まれた時に、自分のこの手で抱いた時、不思議なんだけど、唄いたいって思ったんだ」

へぇ、と僕は声を出す。

無関心が本来の姿でどこか人間そのものと距離を置くような、そんな印象を誰もに与える一号が、それほど積極的になるのは滅多なことではない。

でも、ユキちゃんを連れて家に戻ってきた時、久しぶりに日常の時間を過ごす一号を見て、前の居候の時とは印象が変わっていた。身重、という肩書きを背負ったユキちゃんを労る一号は、その一点に能動的で、言ってみれば、今まで忘れていた積極性を思い出したように、家の中を切り盛りするようになっていたのだ。

ただ、それはあくまでも家庭のことで、新しく産まれる子供との家族としての一号の姿だと思っていた。

「ちっちゃいけど、ちゃんと泣いててね、それを聞いたらなんとなく、ハモりたくなったって言うのか、そんな気持ちになったんだ。一緒になって何か叫びたいというか、お父さんはここに居るよ、っていう感じで」

そう言うと、一号は照れたように笑った。まるで子供のような笑顔だった。端正な顔が美しくほころび、それを陽光が陰影を付けて浮かび上がらせている。春の日の幻想のような、まるで絵画のようなその光景に僕は思わず見とれてしまう。

「直ぐには無理だろうけど、とりあえず早く歌える方向で、考えて居てよ」

一号からそんな風に依頼されるのは、本当に数えるぐらいしか経験が無い。気がつくと、僕はいつも主導権を握っていて、行動の提案をするのは僕の役目だった。

唄いたい、という感情はもちろん、今までだって旺盛だったはずだけど、ここで見せている一号のポジティブな表情は、きっと今までに無い種類のモノだという気がした。

それがもしかして、子供が産まれたことでの変化なら、それはやはり貴重なものだと思う。

「それじゃ、一つ提案だけど」

僕はやっと、自分の中でもやっとしたままのプランを口にするチャンスを得た気がした。身を乗り出したまま、一号は僕の目を見つめた。

「このまま、オレの家でずっと暮らさないか」

一瞬、一号は僕に意図を計りかねたように、僅かに眉間を曇らせた。しかし、直ぐに元の笑顔に戻った。でもそれは、さっきの心を開いてみせた笑顔とは別の、いつもの当たり障りのない微笑みだった。

「それってさ、気がついたら僕とユキが物置小屋に閉じ込められて、保険金がとか、そういう魂胆があるんじゃないの?

「バカを言うなよ、そんなんじゃないよ」

ちょっと猟奇じみた事件が世間を騒がせたのは何年前だったろうか。新聞の三面記事に、僕と妹の名前と顔写真が載っているところを想像してしまった。

冗談だよ、と一号は笑う。

でも、乾いた声は変わらない。何処か、心の置き場を見失っているように、その笑い声も空中を彷徨う。

気を取り直したように、笑顔を充分に保ったまま、一号は改めて僕に視線を向けた。

「しばらくは厄介になるつもりだよ」

そうじゃなくてさ、と僕も身を乗り出す。実のところ、僕自身もまだ曖昧な感情にしか過ぎないのだけど、おそらく今僕の中にある大きな希望の一端を担っている、という予感は持っている。

「生活という意味では曖昧なんだけど、オレもさ、赤ちゃんを育ててみたいんだよ。ちょっとおかしな言い方だけど、なんて言うのかな、オレや夏美も含めて五人で家族、みたいなものを、オレはちょっと想像しているんだ」

家族、と一号は真顔になって、そう呟いた。それから何かから解き放たれるように、自然な仕草で体重を背もたれに乗せながら、離れていく視線を窓の外に向けた。

暫くの沈黙が漂う。

その間に一号は、フッと笑顔を浮かべかけて、直ぐにそれが霧散するのを、何度か繰り返した。

「それって、なっちゃんも同じなのかな」

僕は頷く。

「一度それとなく、このままずっと、っていう感じで話したことがあるよ」

その時妹は、子供が産まれてからは、やっぱりお母さん、お父さんのモノだよ、と僕に言った。

「周囲の者は巻き込まれていくだけ。でも、わりと自分から巻き込まれようと近づいてしまうものなんよ」

兄ちゃんも知ってるだろ?と続けた言葉は、きっと七夕とのことを思い出しているに違いない。

ただ、最も記憶の向こうに七夕のことを押し込んでいる妹に、僕は不用意なことを言ってしまった、と思ってそれ以上は何も言えなかったのだ。

「このまま一つ屋根の下に、っていうのが理想だけど、家は庭も広いしさ、庇続きの二軒屋で、お互い共同生活っていうのも楽しそうだよ」

そうだね、と一号は答えたけれど、まだ良く納得していないのは、その表情にありありと表れていた。

「兄ちゃんは、ユキとずっと一緒に居たいだけじゃないの」

冗談のつもりかどうか、今の一号の表情ではうかがい知れることは出来ない。だが、それはもう、明確に否定できる。

僕は首を振った。

本当?と一号は重ねたけれど、それ以上は訊かなかった。

店の中が随分と騒がしくなっていた。ひっきりなしに人の出入りがある。ざわめきが僕の耳を圧していく。不意に、ライブの前の、舞台袖から客席を覗いた時の、あの感覚が甦る。でもそれは直ぐに、濁って消えてしまう。やはり、似て非なるモノなのだ、と僕は思い知った。

「あのね」

一号が僕の目をまっすぐ見つめてそう言った。その目は、いつになく真剣そのもので、やはりそれほどの真摯さを持つ一号を、僕は目の当たりにしてハッとする。

僕が頷くと、一号は訥々と、自分のことを話し始めた。

 

 

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