「どうしよう」

変に上擦った声を一号が出した。そんな一号の声を聞くのは初めてだ。僕らの付き合いはもう二十年以上になる。名古屋出身の一号が、僕の実家まで着いてきた理由は、未だに良く分からないけれど、それ以前から、まるで兄弟のように僕らは連んでいる。

「おまえ、叔父さんにも連絡したの?

「連絡したどころか、兄ちゃんが来るまで一緒にいたんだよ、分娩室の外で待ってたんだから」

つまり、僕は一号とユキちゃんの子供に、身内では一番最後に逢ったことになる。その時初めてそのことに気づいた。

「朝、兄ちゃんが来る前に、ちょっと、って出て行ったから、今日はもう帰ったのかと思ってた」

今日は、と僕は訊き返す。

「そうだよ、叔父さん毎日ここには顔を出していたんだよね」

僕の両親が亡くなった後、僕は一号と知り合った名古屋の楽器店を辞めて、この香川に帰ってきた。一号はそんな僕に着いてきたのだ。同時に、妹が離婚のゴタゴタでやはり実家に帰っていて、ほぼ同じ時期に三人ともう一人の共同生活が始まった。

叔父は親父のすぐ下の弟だけど、少し歳が離れている。母親が違うという事実は、僕が小学校の高学年になってから聞いた。でも、親戚の中では一番親密に交流があったのが叔父で、住んでいる所も伊予三島で、高速を使わなくても家まで一時間と掛からない距離だ。だから、親父が亡くなる以前から、時々遊びに来たり、また家族で遊びに行ったりしていた。

子供のいない叔父夫婦には、甥っ子姪っ子はみなかわいがってもらっていたけれど、特に僕らは近くに住んでいるせいか頻繁に顔を合わせていて、何度か僕と妹は叔父夫婦に泊まりがけの旅行に連れて行ってもらったこともある。

両親が亡くなってからは、特にウチに来ることが多くなって、まさしく親父代わり、お袋代わり、といったところだった。

だから、一号が居候する頃のこともよく知っていて、その頃から家族の一員として彼を見ていた。ユキちゃんを連れて出戻ってきた時も、叔父は甲斐甲斐しく世話を焼き、それからは叔母を伴ってユキちゃんの面倒を見に、ほぼ毎週のように顔を出していたのだ。

「おまえの父さんには世話になったからな」

そんな風に叔父は僕らの面倒を見る言い訳をするけれど、実際叔父自身が世話好きで、親戚連中の冠婚葬祭は率先して仕切りたがるし、近所の自治会や集まりでもリーダーシップを取っている。つまり、お腹を大きくしたユキちゃんが家に居候することは、叔父にとっても渡りに船で、待ってましたとばかりに世話を焼く口実を手に入れたのだ。

新しく産まれた赤ん坊は、そのまま叔父夫婦にとっても孫のような存在なのだ。

今年に入ってから僕はライブの準備に追われて、叔父とはすれ違いが多かった。時々顔を合わせても、もう興味はお腹の子供に移っていて、反対に僕のことなど気に掛けてもいない素振りだった。知らないうちに叔父が選んだベビーベッドや、子供用の玩具が部屋の隅に置かれてあったりもした。

そうしている内に、結局一号夫婦の後見人のような役目も担っていたのだ。そう考えると、今目の前で起こった出来事も、なんとなくラインが繋がりそうな気がする。

「行った方がイイのかな」

狼狽する声に、僕はちょっと苦笑する。それを見ても、一号はおろおろするばかりだ。

「叔父さんが待て、って云ってるんだから、ちょっと待った方がイイよ」

一号が結婚の許しを得るために、ユキちゃんの実家に赴いた時、一号の顔を見た途端に、父親は激怒して殴りかかってきたらしい。一号は器用に避けたが、避けるな貴様っ、と怒鳴られて、とりあえず一発はそのパンチを受けたらしい。それがひどく重く効いて、少し意識が飛んだ、と一号は言ったけれど、結局、なぜ結婚に反対されたか、詳しい理由は教えてくれなかった。

何処の馬の骨、という言葉がたしかにピッタリくるのが一号だ。

長い付き合いになるけれど、知らないこともたくさんある。そもそも、ずっと名古屋にいる時から彼のことを一号、と呼んでいて、本名がイチロウだということも、最近知ったのだ。一度教えたよ、と一号は言ったけれど、僕にその記憶は無かった。

加えて見た目は大半の女性が気を惹かれるイケメンで、背が高く、物腰が軽く、となれば好青年を通り越して、何処か胡散臭い。その容姿で、僕と二人でやっている路上の弾き語りも、固定客が着くようになったし、この度の卒業ライブ以来ファンになった、という女性が数多く現れた。しかし、エンターテイメントで有利な者が、普通の生活で同じ様な結果を生むかはまた別の話なのだ。

それでも、一号夫婦が思い描いた未来はそこで一度暗礁に乗り上げ、結果別の道として選んだのが、僕の家での生活なのだ。それが良かったのか、悪かったのか、まだ答えは出ない。

「落ち着けよ」

僕は一号に座るように促す。納得しないまま、一度腰を下ろしたけれど、また一号は忘れ物を思い出したように立ってしまう。

自然と目がエレベーターホールの方を向いている。今ある現実の切れ端は、たしかにそこで途切れていた。

不意にその視線の先に叔父が現れた。まるで一号の懸念を予期したかのような登場だった。おそらくその予想は間違ってはいないだろう。今度は向こうが僕らを認めて、小走りで駆け寄ってきた。

「叔父さん・・・」

そう言ったきり、何から切り出していいのかわからないように、一号は言葉に詰まる。それを見越して、叔父の方から満面の笑顔を向ける。

「大丈夫、大丈夫、心配するな。叔父さんがちゃんとするから」

叔父は背の高い一号を見上げながら、笑顔を崩さない。

ちゃんとするから、は叔父の口癖で、曖昧だけど、叔父の場合なら妙な信頼感がある。

「オレ、行かなくてイイの」

一号の心配そうな声は、今になって少し震えているのに気がついた。

叔父はそのことを務めて気にしないように振る舞い、変わらぬ笑顔を見せながら、大げさに手を振ってみせる。

「イイって、イイって。今日は、叔父さんが出しゃばっただけだから。あの人にしたって、結婚に反対しているヤツの子供でも、初孫は初孫だから。せっかくの機会を叔父さんが余計な気を回しただけだ。何も知らない一号がしゃしゃり出て変に揉めることはないんだよ」

叔父も僕らに倣って、一号のことを一号と呼ぶ。この分だと、新しく産まれた息子も、彼を一号と呼んでしまいそうだ。

「今は向こうの家族だけの時間だ、今はそれで十分だよ」

ユキちゃんは、松山の老舗の和菓子屋の一人娘で、その辺も、何処の馬の骨に相容れない理由かも知れない。

「これからのことも、叔父さんに任せておけば、直ぐって訳にはいかないけど、上手いところで落ち着かせるつもりだから、心配するな。あの子を、お祖父さんのいない子にはしないよ。今日はその一歩だ」

ユキは?と一号が訊く。それに、二、三度、叔父は頷く。

「ちゃんと孫の顔を見せているよ。あんなカワイイ赤ちゃんの前で、喧嘩は出来んよ」

結婚に反対し、一号を殴りつけまでした父親を、ユキちゃんの方も怒りを隠せずにいた。二人の間にどういう関係が築かれていたのか、僕は知らないけれど、少なくとも、結婚の話が出るまでは、それなりに良好であったはずだ。

「だけど、本当に可愛いなぁ、やっぱり美男美女の子供は可愛いなぁ」

半分忘れ去られたような僕の顔を、叔父はやっと見てそう言った。

「おまえも早く、子供が欲しくなったろ?

そう言うと叔父は僕の胸を人差し指で軽く小突いた。

抱いてみたか、と尋ねられて、僕は首を振る。

「なんだか怖くて」

「そうか、まぁな、七夕の時みたいには、いかないか」

当然、叔父も七夕と妹が離ればなれになった一部始終を知っている。それが僕らの家族の中で半ばタブーになっていることも、当然頭に入っているはずだ。でも、妹よりもずっと長く、食い下がっていたのは実は叔父だったことは、ずっと後になって知った。

妹が七夕の持ちものをすべて、焼き捨ててしまって以後も、叔父は理不尽な父親側と粘り強く交渉を続けてきたのだった。

ああそうだ、と思いだしたように、叔父は嗄れた声を出した。昔は一号に負けないくらい美声の持ち主だったけれど、年齢が嵩んで随分と枯れてしまった。

「おまえら、飯食ったか、昼飯、まだだろう?

昼飯?と僕と一号は、同時に訊く。まだまだ、時間は午前中だ。

だが叔父は、オレたちの答えなど聞かずに、こう言った。

「近くで何か喰って来いよ。ほら」

そう言ってスラックスの尻ポケットから財布を取り出すと、一万円札を出して僕の手に握らせようとした。

「いいよ、大丈夫だよ」

いいから、いいから、と叔父は強引に札を僕に握らせる。

僕はその強引さが、いつもの世話好きの叔父の気質だけではないような気がした。それは、どうしても僕ら、というより一号を、病院にいさせたくないという思惑に辿り着く。

きっと、僕らをここでぼんやりと居させるわけにもいかず、更に帰り道、またここで顔を合わせることを考えたのではないだろうか。

事情はともかく、今日の所は、先ずは孫との対面は果たしたのだから、叔父が言うように、余計なトラブルの種をそのままにしておくのは、得策ではない。一号が突っかかるようなことはないにしても、向こうの父親が態度を硬くすることは、容易に考えられる結末だ。

「じゃあ、遠慮無く」

と僕が言うと、うんうん、と叔父は頷いて、そしてまた笑顔になって僕らを見た。

「後は叔父さんに任せとけ、大丈夫、ちゃんとやるから」

そう言うと、叔父は僕の背中をぽんぽん、と叩いた。その手を軽く、顔の所まで上げて小さく振ると、大丈夫だから、と独り言のように言って、踵を返した。また早足で、エレベーターホールの方へと向かっていく。

その背中へ向けて、一号はまた大きく上半身を折って、お辞儀した。叔父が見えなくなっても、一号はしばらくそのままだった。静かな待合が戻ってきて、健やかな陽光が、一号を照らしていた。

 

 

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