「ちゃんとバイバイって言った?

一号は僕の隣に座ると、素っ気なくそう言った。

問うていて返事を必要とはしていない、軽薄な物言いは、彼のいつもの調子だった。それがわかっていて、僕は小さく頷いただけですぐに長いすから立ち上がった。

待合室はすぐにガラス張りのエントランスに繋がっていて、その隅に自動販売機がある。炭酸や珈琲がなく、紙パックの果物のジュースが並んでいる。僕はそこまで歩いて、リンゴジュースを買う。

後ろを振り向いて一号を見ると、何でも好いよ、と彼は応えた。

同じリンゴジュースを買う。

二つの紙パックを持ったまま、僕は元の長いすに戻ったけれど、先ほどとは一列違う椅子に座る。一号を後ろから見るような位置に腰掛けて、肩越しに紙パックを渡す。

ストローを突き立てながら、僕は前の席に放り投げたままのスマホを手に戻す。まだ、明日菜ちゃんの声がそこに残っているようで、幾らか感傷が蟠る。しかし、すぐに気を取り直して、僕はメールの画面を呼び出す。

僕は一号に、子供が産まれたことを知らせ忘れている相手がいないか尋ねた。

「一通りメールか電話は掛けておいたから大丈夫だよ」

「藤木さん達は?

一応、とまた素っ気なく応える。一号も結果、今ではフュージティブのメンバーなのだから、当然と言えば当然なのだが、その反応がまた僕の所に来そうで、なんだか身構えてしまう。

フュージティブのメンバーとは、ステージの翌日以来逢っていない。それまでは準備に託けてほぼ毎日、藤木さんか上島さん、あるいは両者が僕の家を訪問していた。本番直前まで、僕の家は落ち着く暇も無いほど賑やかだった。

それが、火が消えたように家の中は静かになった。僕はフュージティブに携わって追いやっていた仕事のリカバリーに忙殺されていたけれど、独特の静寂からは逃れられなかった。それは、子供が産まれても同じことだった。こうして静かな待合室に流れる空気と同じモノが、ずっと胸の中にたゆたったままだった。

ふと思いだして、僕はアドレス帳をめくる。一号に見られないように長いすの背もたれに体重を預けて、その中の一つをクリックする。

そこには恵子さんの代わりを務めたうちの一人、国民的アイドルの本名が書かれてあった。

藤木さんが目玉の一人として連れてきた彼女は、世間では美穂ちゃんという名前で通っていたけれど、それが芸名だということは初めて知った。ただ、それを知ったのは僕だけで、やはり出演者の中では彼女は終始、美穂ちゃんの名で呼ばれていた。

三部に分かれたステージの第一部は、なるべく明日菜ちゃんと同い年のバンドが集まるように構成されていた。それでもフュージティブはそのオープニングを飾るのだが、そこのボーカルを担当したのが美穂ちゃんだった。

藤木さんの思惑は、ライブが始まってテレビで引っ張りだこの国民的アイドルがいきなり現れると、それだけで話題になる。特に最初は若い世代の観客を集めることを念頭に置いている。最近流行のSNSで、国民的アイドルが唄っている、と伝われば、更に観客が集まってくるはずだ、という目論見があったのだ。

その姑息な手段はまんまと的中し、長丁場のライブも、最後のフュージティブの出番が来る頃には、足の踏み場もないほどの集客となった。ホール始まって以来の動員に、オーナーから大入り袋が振る舞われたくらいだ。

矢面に立った美穂ちゃんは、国民的アイドルの本領発揮とばかりに、手を抜かないエンターテイメントを見せつけた。いつもとはまったく違う曲調の、趣の違うステージも器用に乗りこなし、客を煽って盛り上げ、そしてしっかり注目も集める。それは翌日、スポーツ新聞が、シークレットライブ、というような多少スキャンダルめいた見出しで一斉に報じたことでも証明された。

元々彼女はスキャンダルで名が知れ渡っていた。その時に、藤木さんに借りが出来た、という話だけれど、詳しいところは藤木さんも美穂ちゃんも話さなかった。上島さんや三好さんなどは、下世話なゴシップ的なモノを勘ぐろうとしたけれど、それは元々藤木さんには似合わなかった。

ただ、僕らはもっと軽くて上辺だけのエンターテナーとしての彼女を想像していたけれど、実際ステージングだけでなく、声も唄い回しも大したものだった。プログレッシブ・ロックを基調とするフュージティブの音楽に、彼女の何処か演劇的な振る舞いは意外に嵌まっていて、見ていて飽きなかった。

フュージティブ以外でもコーラスで聴かせたニール・ヤングの「ヘルプレス」は圧巻だった。もう一人のフュージティブの助っ人ボーカル、美麗ちゃんを従え、明日菜ちゃんと藤木さんがアコースティックギターで後ろから支えた。美麗ちゃんは明日菜ちゃんの高校でのバンドのボーカリストだった縁で、今回のライブに参加した。

明日菜ちゃんがスライドギターでブルージーに奏でたメロディを受けて、美穂ちゃんはそれに負けない枯れた感じで歌い始めた。サビに至って美麗ちゃんとのハモリは絶妙のバイブレーションを奏でた。その時は珍しく、明日菜ちゃんもコーラスに加わり、女性三人の声は、観客を魅了したのだった。

その中心でも、美穂ちゃんはしっかりと存在感を輝かせ、それでいてちゃんとアンサンブルも支える。聴かせるところは聴かせて、他を立てる時には一歩引く。そのメリハリが無理なく絶妙だったのは、たくさんの場数を踏んできている証拠なのだろうと、僕は感心した。

藤木さんが連れてきた美穂ちゃんは、当然のようにフュージティブと行動を共にすることが多かった。そのせいか、彼女は僕のことをいつの間にか「兄ちゃん」と呼ぶようになっていた。国民的アイドルに、兄ちゃんと呼ばれるとなんだかおかしな気分になった。

そして、なぜだか僕は彼女に慕われ、打ち上げの席で彼女にせがまれてメアドを交換したのだ。その時、コレはプライベートのアカウントです、といって彼女は本名と一緒に教えてくれたのだ。

忙しい彼女は、打ち上げを途中で抜け出して帰って行ったけれど、その日以来僕は毎日、彼女とメールの遣り取りをしていた。彼女は毎日、随分と長いメールを僕に送ってよこした。内容は、日常の何でも無いことばかりだったけれど、そうやって日々の出来事を伝えることそのものが、彼女の楽しみだったようだ。

僕は律儀に毎回そのメールに返信してたけれど、昨日だけは忘れていた。会社でそのメールを受け取り、帰って返信する前に寝てしまったのだ。昨日帰宅したのは深夜で、休日出勤が思いの外伸びて、心身共に疲れ果ててしまっていたのだ。

メールのことはそれきり忘れていて、今日になってそのままこの産科に直行したのだ。

ついでだから、と僕はなんとなく言い訳して、さっき明日菜ちゃんに送ったのと同じ、赤ん坊の画像をメールに添付してメールした。

添付するついでに、僕はもう一度、ユキちゃんと一号と赤ん坊のスリーショットを眺めてみる。

例えば、ここに自分と、あの美穂ちゃんが並ぶ、という姿を想像してみたけれど、上手くはいかなかった。ただ、そういえば、年齢的には、一号と僕、ユキちゃんと美穂ちゃんでは、あまり変わりないなということに気づく。

「一号がパパか」

僕はつい、そう呟いてしまう。

「あ、パパなんて呼ばせないよ。ウチはお父さん、お母さんだよ」

気をつけてね、と一号は付け加えた。

とその時、待合の向こうの入り口の自動ドアがすっと開くのが見えた。反射的に僕も一号も、そちらを見やる。

広いエントランスは、二重に扉が誂えられていて、最初の自動ドアを潜ると、スリッパに履き替える広間があって、またもうひとつのドアを潜ることになる。普段は内側のドアは開け放たれているけれど、今日は休日で鍵は掛かっていないけれど、閉まったままだ。

現れたのは細く骨張った顔の、背の高い初老の男性だった。テレビで見た政治家か、評論家か、何か硬い表情の誰かに似ている気がした。

その時、一号が、あっ、と幾らか大きな声を出した。

初老の男性はその声に気がついてこちらを見た。だがチラリと一瞥しただけで、すぐに視線を反らす。それは敢えてそうしたような、少し不自然な仕草だった。そして、憮然とした表情を浮かべて、スリッパを履き直す。

その後ろから現れたのは、僕にも見慣れた顔だった。それは僕の叔父だった。僕の親父の直ぐ下の弟である叔父は、両親が亡くなってからは、ほぼ後見人のような役目で、しょっちゅう顔を合わせている。よせば善いのに、卒業ライブにも来ていた。

叔父はその初老の男性の前へ回り込むと、こちらへ、というように手を差し伸べて前を歩いた。叔父は背が低く、小太りで憮然とした表情のままの男性とは対照的だった。その身体をいっそう低くして、胸を張ってスタスタと歩いていく男性を先導していた。

ちょうど僕の目の前を通り過ぎる時、叔父はチラリとこちらを見た。

ほぼ同時に、一号が立ち上がった。それを見て、叔父は二度、三度と小さく頷いて、そしてすっと手を差し出した。

こちらに掌を見せて、そのまま、と押しつけるように突き出す。そしてまた男性の前に回るとそのまま待合室を過ぎ、奥のエレベーターへと消えていった。

その後を、また二人の女性が付き従うように通り過ぎていく。一人は叔父の配偶者、つまり叔母だった。もう一人はやはり、見知らぬ顔だ。まだ若々しい肌つやをした、福与かな体格の女性だ。叔父と男性では背の高さで対照的だが、叔母とその女性とでは体格が対照的だった。病気がちで少し足の悪い叔母は、ほっそりとしていた。二人は僕ら、というより一号を見て、それぞれ深々とお辞儀した。それを見て一号も、九十度に腰を折って御礼して返す。

二人もそのまま、向こうに消えていく。一号は立ったままその背中をずっと見送った。

?と僕は訊く。

一号は我に返ったように、座ったままの僕を見下ろした。無表情が多い一号が、青い顔をしていた。僕はもう一度、誰?と聞いた。

「ユキのお父さんとお母さんだよ」

その応えに僕は驚いて、彼等の消えた方向を眺めたけど、当然もうそこには誰もいなかった。

 

 

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