「でも、あんまり真に受けない方がイイよ、上島さんの話は」

僕がそう答えると、スマホの向こうで朗らかな笑い声がした。笑っているその表情を、僕はまるで目の前にいるように思い浮かべることが出来た。そういえば、僕は四年間、明日菜ちゃんのいろんな表情を見てきたんだな、と思う。

初めて逢った時は、ギターに何処か嫌悪でも描いているような険しい表情だった。ギターと一緒に買った教則本で、ドレミの音階だけは弾くことができていた。それがちゃんと指を立てて、ネックの後ろに親指を押しつけて、とぎごちないがセオリー通りで、きっとこの娘は真面目なんだろうな、というのが第一印象だった。

手の付けられない粗暴な娘で、と事前に彼女の母親から僕に電話が入っていて、どんな娘が来るんだろう、と僕は思っていた。だから余計に、その生真面目さが僕の心を解したのだった。

最初に用意した曲は、クリームのサンシャイン・オブ・ラブで、印象的なリフにちゃんとソロのパートもあるので選んだ。楽譜の読み方を教えられた明日菜ちゃんは楽譜と手元を交互に睨みながら、そのリフと格闘し、それを初めて通して弾き得た時の、あの笑顔は今でも忘れない。まだ中学生の彼女が、額に汗を浮かべて、纏わり付いた前髪も気にせずに、華が咲いたような晴れやかな笑い顔で僕を見つめたのだ。それから何度も、取り憑かれたようにその曲を繰り返した。

それからあっという間にレパートリーは増え、今ではオリジナル曲を自分で作ることもできるようになった。彼女が夢を実現させるための下準備は、おそらく整っているはずだ。上島さんのように、叶えられる夢におもしろ味はない、といっても、一度はその夢が現実になる瞬間を味わうことは無駄ではないはずだ。

「でも、私の夢も、案外ちっぽけなモノかも知れない、ってそんな風に思いましたよ」

そんな事ないよ、と僕は即答した。その時、今まで抑えていた感情が急に沸騰したように、僕の胸の奥から迸るように口から溢れそうになるのを感じた。

上島さんのスピーチの後、藤木さんがこれからの明日菜ちゃんは俺に任せろ、とだけ言って、そしてみんなの前で僕を紹介した。コレまでの明日菜ちゃんとの経緯を簡単に説明して、そして、僕にマイクを渡した。

でもその時、僕は何を言ってイイかわからず、短く、これからも頑張って、とありきたりな言葉しか出てこなかった。当然、それだけか、とヤジが飛んだけれど、本当にその時は、それしか渡す言葉が見つからなかったのだ。

それを僕は少し後悔していた。だから本当は、打ち上げの時の話はあまり思い出したくはないのだ。

その反動なのか、今、僕は急に饒舌に、明日菜ちゃんに向けて、スマホにかじりつかんばかりに言葉を紡ぎ出していた。

オレはね、と言いだした僕は早口にまくし立てた。

「楽しいからギターを弾いているんだけど、ある時気がついたんだ、だったら楽しければギターに限ることはないんじゃないか、って。楽しいことはこの世の中にたくさん溢れているし、それは刹那的なこともあれば、上島さんが言ったような時間の掛かる、鍛錬の必要なこともある。でもオレは、ギターを弾いている時がいちばん楽しいし、音楽に触れている時がいちばん楽しいし、それを通じて明日菜ちゃんや、一号や、みんなと繋がることも楽しいんだよ」

興奮して声が震えているのがわかった。そこまでして僕自身、明日菜ちゃんに伝えたいことって何だろう、と未だ自覚が届かない。

「そのことに気づいてから、オレはちゃんと音楽やることから距離を置き始めたんだ。音楽はツールで、って割り切っちゃったんだ。それを後悔はしていないけど、もちろん、届かなかった夢や希望もあることはわかっているんだ」

じっと明日菜ちゃんは何も応えずに、僕の言葉に聞き入っている。耳元では、僅かに風の音が聞こえていた。

「明日菜ちゃんもギターが好きで、オレなんかとは比べものにならないほど上手いし、それは藤木さんも認めているし。そういう意味では、オレが割り切っちゃって下りた世界にもういるんだよ。明日菜ちゃんには当たり前の場所でも、オレにとっては明日菜ちゃんがいる場所はすでに夢の世界なんだよ。オレの目の前に現れた、夢を司る希望なんだよ」

希望、という言葉に、僕自身が胸を熱くした。夢は甘い香りを放っているが、希望は苦い。でも、未だ見果てぬ夢を言い訳のように纏う希望に、僕らはどうしても憧れを忘れられないのだ。

「叶うかどうかは、オレには断言できないけれど、少なくとも、その夢を今、明日菜ちゃんは見つけたんだよ。それだけでもとてもスゴいことなんだよ。上島さんはああ言っていたけど、結局、明確な夢を見つけられなかったからフラフラと音楽にぶら下がってきていて、それはオレも同じなんだ」

だから、と言ったきり僕は初めて言葉に詰まった。それは明日菜ちゃんに云っているのか、自分自身に言い聞かせているのか、その戸惑いが頭をもたげたせいだった。

それでも直ぐに、言葉は溢れて出してきた。最後の扉が開いて、心の隅に埋まっていた鍵がポロリと零れたようだった。

「夢を実現させるという意志を持っていることに、誇りを持ち続けて欲しい」

いつの間にか、僕は熱くなってスマホに向かう音量が、大きくなっていた。誰もいない休日の待合室に、僕の声だけが響き渡って、いつまでも反響し続けているような錯覚に陥る。

急に恥ずかしくなって、僕は淡々と口だけをパクパクさせる。

すると、明日菜ちゃんが、静かに声を出した。

「先生には、本当にいろんなことを教えてもらいました」

しまった、と僕は思った。

最も僕が目の当たりにしたくなかったシチュエーションに、自ら迷い込んでしまった。

「ちゃんとこれだけは言わせてください」

僕はちょっと待って、と言いかけたけれど、喉が涸れて上手く声が出ない。

戸惑っているウチに、明日菜ちゃんの声が耳元でする。

「先生、コレまでいろいろと、ありがとうございました」

そう言って、明日菜ちゃんは、グスン、と鼻をすすった。最後の方が涙声になっているのがわかった。いろんな彼女の表情を見てきたけれど、泣いているところは、ほとんど見たことがない。それだけ、彼女の姿が想像できない。

ただ、あのステージの後に、滴った涙の残像を、僕は思い出す。

それは僕の涙腺も充分に刺激した。明日菜ちゃんのいない時間が急に襲ってきて、その寂しさに僕は胸が詰まる。

僕は必死で、必死で、涙が出るのを堪えた。

待合室の壁に貼られたポスターを次々と目で追っていく。保険がどうとか、助成金がどうした、こんな症状に注意、というような言葉が目に入るが、読むことも、意味を把握することも出来ない。子グマや子ネコやカエルのイラストが目に映っては通り過ぎていく。

ただ、意識を涙から削ぐための手段に過ぎなく、それは周囲を一周一瞥してもまだ、上手くいかなかった。

おかげで僕と明日菜ちゃんの間に、暫くの沈黙が続いた。

僕は諦めた。涙が溢れてきた。結局、僕の目論見は上手くいかなかったのだ。

しかし、やっと、僕は落ち着くことが出来た。明日菜ちゃんとの別れを、受け入れられたような気がする。

「夏には帰ってくるんだろ?

自分の声がもう鼻声になってしまっているけれど、隠しようがない。

「そのつもりです」

そうだ、と僕は気がつく。

「藤木さんがね、今度ライブをやる時は、新しく出来た丸亀の球場でやるんだ、って言ってたよ」

アハハハ、と明日菜ちゃんは又、聞き慣れた笑い声を発てる。

僕は心底、ホッとした。

「その時は明日菜ちゃんの凱旋公演だ。フュージティブはその前座を務めるんだってさ」

「一緒に演奏してくださいよ」

明日菜ちゃんはそう言うと、また朗らかに笑った。

それから、僕らはこれからのことをいくつか話して、そのウチに、電車の時間がやってきた。それじゃまた、と言い合って僕らは通話を切った。

しばらく僕は、通話時間の表示されたスマホの画面を、ただ見つめていた。それがフッと消えて、やっと顔を上げると、向こうから一号が来るのが見えた。

僕は感傷を押しやってから、スマホを待合のベンチの上に無造作に置いた。

 

 

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