僕の上島さんに対するあらゆる懸念を知ってか知らずか、携帯の向こうで未だ興奮した調子の明日菜ちゃんは、ステージの思い出を語り始めた。
「私、いろんなことを皆さんに教えてもらいましたけど、あの日一日の出来事は一生は忘れられませんよ」
そして、打ち上げの上島さんの言葉とかけっこう感動しましたよ、とサラリと言ってのけた。それまで相槌を打っていた僕は言葉に躓く。
それは宴の中にアルコールが十分すぎるほど行き渡った頃だった。たしか、三好さんが言いだして、明日菜ちゃんに一言ずつメッセージを伝えよう、ということになった。すると、わざわざマイクスタンドまで用意して、スピーチの席が瞬く間に整った。
先ずは今回のゲスト・バンドから順にマイクの前に立った。
すっかり建前のようになっていたけれど、今回のライブは明日菜ちゃんの卒業ライブであり、その為に、彼女はすべてのバンド、ユニットに一曲は参加することになっていた。それぞれが明日菜ちゃんの持ち場を用意し、又明日菜ちゃんもそれぞれのバンドの音に見合った演奏を繰り広げた。
アコースティックから、ちょっとしたジャズ・テイストの曲、そして80年代のメタルサウンドまで、彼女は何でも弾きこなした。藤木さんのアドバイスがあったとはいえ、主役としての役目を十二分に果たしていた。
スピーチはほとんどがその才能やテクニックに感嘆の言葉から始まり、そしてその調子で東京でも頑張って、と締めくくった。
最後はやはりフュージティブで、最初に登場したのが上島さんだった。他のスピーチが進むうちに、なんだか酔いが倍加したようで、普段酔った姿を見せない上島さんが、珍しく真っ赤な顔をしてマイクの前に立った。
呂律の怪しくなった口調で、こういう時に決まって口にするフレーズから「贈る言葉」は始まった。
「オレは最近考えていることがあるんだ」
待ってました、と声が掛かる。
「もう人生の折り返しを過ぎちまったオヤジの言うことだから、まだ若い明日菜ちゃんや高校生にはピンと来ないかも知れないけどな、でも意味の無い話じゃねぇと思うんだ」
クドいぞ、と藤木さんが囃し立てると、皆が一斉に笑った。
お構いなしに上島さんは続ける。
「例えばこの球技にまったく似つかわしくないオレが、今からサッカーを練習してオリンピックに出ようと思っても、どだい無理な話だ。いくら劇的に上手くなっても、年齢制限があるからな。ルールで引っかかる。誰が決めたのか知らねぇけどな。でも、案外そこまで上手くなると、クラブチームにスカウトされるとか、ワールドカップになら出られるかも知れない。だとしても普通は、誰もが無理だと思うだろう。でも、万に一つの可能性がないわけじゃない。喩えそれが神がかりの奇跡だとしてもな」
さっきまでざわついていた雰囲気が、ほんの少しだけ上島さんの言葉に引き込まれて来始めた。
「そもそも実現不可能だから、とか、現実に無理だからとか、そういう理由で夢を諦めるのはおかしいと思わないか?サッカーを練習してオリンピックに出る、というのは今はたしかに無理だ、ハードルが数限りなくある」
上島さんはそこで一度目を閉じ、幾らか演劇じみた身振りで手を掲げる。
「でも、だったらその夢を追って努力することは無駄なことなのか?」
そう言うと、上島さんは手にした水割りのグラスを一気に飲み干した。
「無駄って何だ?それはただ、効率が悪いとか、そういうモノの見方だろ?夢ってそんな、効率とか、そもそも常識とか、現実とかそういう物差しで測ることなのか?オレは違うって思うんだよ、夢っていうのはいつまで経っても夢であり続けるものが夢だって言った方がずっと、オレにはしっくりくるような気がするんだ」
ふと、僕は明日菜ちゃんの顔を見た。その視線の先は、上島さんに釘付けになっている。
「そう考えると、だ。夢は実現の可能性が低いほど、夢であり続けることが出来る。オレがサッカーを練習するとか、マラソンを頑張るとかな。するとこういう風に考えることもできる」
やっと打ち上げの騒がしさが、グッと上島さんの言葉を期待して静まる。
「実現しちまったら夢が夢じゃなくなるとしたら、本当の夢ってヤツは、歳を取っちまったオレたちの方にずっと近いんだって思うんだよ、最近」
上島さんは、部屋の隅のテーブルに固まっている高校生の一段を指さす。
「オメェ等、高校生は、夢を思い描いても、実現させる可能性に満ちている。柔な夢だと、そのうち叶えられたりしちゃったりする。するとだ、あれほどまで夢中になっていた夢が、現実になって、また新たな夢を探さないといけない。イチからやり直しなんだぜ」
僕の隣に座った藤木さんが、フン、と鼻で笑う。しかし、まんざらバカにもしていない様子だ。
「オレたちは違うぜ、オレたちには実現不可能な夢が山ほどあるんだ、どれを選ぼうか迷っちまうぐらいだぜ。そっちの方がずっと幸せだな、とオレは最近思うんだよ」
だからなんなんだよ、と、半分笑いながら三好さんが突っ込んだ。
「つまり、オレたちは今いちばん幸せの絶頂にいるんだ、どうだ羨ましいだろ?」
なんだよそれ、と藤木さんが言うと、再び宴は笑い声に包まれた。堪らず三好さんが立ち上がり、上島さんの元まで行くと、マイクに向かう。
「で、結局オチもなにもないんだろ?」
まぁな、と上島さんが、幾らか恥ずかしさを滲ませて応えると、笑いはいっそう爆発した。
「こういういい加減なヤツにはならないように、明日菜ちゃんはがんばってください、ってコトで」
そう言って三好さんが締めると、笑いの分だけ拍手が沸き起こったのだった。
「アレって、夢をいつまでも諦めるな、ってコトでしょ」
明日菜ちゃんは思い返すように、そう言った。まぁ、そういうことだろうね、と僕は応えた。
ただ、僕はあの後、結局何が言いたかったんですか、と席に戻ってきた上島さんに尋ねた。
「オレたちには一杯夢がある、幸せな野郎どもだ、っていう話だよ」
「それって全然、明日菜ちゃんへのメッセージでも何でも無いじゃないですか」
上島さんは何処吹く風の表情で、そうか?とだけ応えた。
「オレたちみたいになれって、ことですか」
「そんなところだな」
ハハハ、と軽い調子で上島さんは笑った。
「じゃあ訊きますけど、上島さんの夢って何ですか?」
俺の夢?と一度訊き返すと、上島さんはニヤッと、やけに下卑た笑いを浮かべた。
「長澤まさみとセックスすることだよ」
このことは明日菜ちゃんには話せないな、と僕はその時思ったのだった。
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