「ところで、名前はもう決めた?

話題を変えるつもりで、僕はそんな風に尋ねた。

だが、答えを聞かないうちに、大きなトレイを二つ抱えたウエイトレスが僕らのテーブルに近づいてきた。そして、話を遮るように、目の前にそのトレイを滑らせるように置いた。

「ご注文は以上でよろしかったですか?

まるで無関係に響く声で、彼女はそう言った。

反射的に僕はその声に向けて顔を上げた。細くもなく太ってもいない、あまり特徴の無い顔をしている。ショートカットの髪以外に、容姿を形容するのに戸惑う顔立ちだ。マニュアルの笑顔が貼り付いているのか、決して嫌みではないけれど、心のこもらない表情をしていた。

その特徴の無さに僕はしばし興味を惹かれた。彼女はいったい、いくつなのだろう、というようなどうでもいいことを考える。

その時だ、同じ様にウエイトレスの彼女を見上げていた一号の手が、音もなくすっと持ち上がり、次の瞬間、彼女の手首をしっかりと握ったのだった。

ヒッ、というような、声にならない悲鳴を彼女は上げた。

同じように、僕も驚いて一号を見た。

その視線が紡ぐ映像の前に、かつて起こったファミレスでの悲劇が重なる。あの時も一号が、ある女性の手を掴み、それを離さず、嫌がられた果てにやっと解放した拍子に、その手が僕の顎を強か、打ち付けたのだ。

その時の痛みが、僕の顎に甦る気がして、僕は身体を硬くした。

また、一号は何をやらかすんだ?

以前の被害者とは違い、ウエイトレスの彼女は声を上げたきり、石のように固まって身動きできずに居た。ただ、その視線は一号を射貫いている。見つめているというより、目を離すとどうなるかわからない、恐怖がそうさせているような感じだ。

そんな彼女と僕にはお構いなし、一号はその手を軽く自らに引き寄せて、もう片方の掌を重ねて再びギュッと握りしめた。その重ねた掌から、人差し指だけを伸ばして、彼女の胸を指さす。

「実はね、今朝、オレの子供が産まれたんだ。それで、今名前を考えているんだけど、参考までにキミの下の名前、教えてくれない?

一号が指さしたのは、ウエイトレスの制服の胸の名札だった。そこには二文字の名字だけが書かれてあるだけだった。

「あ、そ、それは、おめでとうございます」

あっけにとられたようにウエイトレスは辿々しくそう応えた。

「だから、下の名前」

ゆっくりとそう言う一号の目は、自分の言葉とは裏腹に、女性を口説く時の変に自信ありげな、いかがわしい色を浮かべている。それは見つめられると、大半の女性が言いなりになってしまうような、不思議な力を持っていた。

それに引っかかる女性と、嫌悪を感じる女性と、どちらかに反応は分かれる。ウエイトレスの彼女は、前者のようだった。

「あ、あの、な、ナツミです」

ウエイトレスはドギマギしながら、そう応えた。

僕は彼女の表情を確認して、そして一号を見る。

久しく見なかった、彼の表情だ、と思って身構えた瞬間、それがあっという間に崩れていく。獲物を狙う視線が、あっけにとられて気が抜けた表情に溶けていく。

僕はどうしようもなく、その状況が可笑しくて堪らなくなる。

「何だ、なっちゃんと同じか」

本当につまらなさそうに一号はそう言って、あっけなく彼女の手を離した。

すると、慌てたように、ウエイトレスは一礼して足早に去って行った。

「おまえ、いい加減にしろよな」

僕はそう言いながら、半分方吹き出している。事なきを得た安心感が、それに重なり僕は、声を上げて笑い出しそうになる。

「本当はね、もう名前は決めてあるんだ」

一号は、何事もなかったように、僕の方を向いてそう言った。

なあんだ、と僕は笑ったまま口を尖らせる。

「最近流行の、変な名前じゃないだろうな。オレが漢字で書けるヤツにしてくれ。本当いうと、オレは七夕、っていう名前にだって反対だったんだからな」

実際にその名前を聞いた時は、すでに役所に届けた後で、反対も何もなかったのだが。

ただ、そうやって名前が決まり、その名前を口にすると、自然と馴染んでいく。名前だけがその人のアイデンティティーではないのだ。そういうものは、時代と共に変化もしてゆく。

「でも、オレなんかイチロウだよ。平凡すぎて、っていうか、きっと適当に付けられたんだよ」

あの親だから、と小さく吐き捨てるようにイチロウは言ったきり、少し黙る。

名古屋出身で、イチロウといえば、もう既に誰もが知っている有名人をイメージしてしまう。それを嫌って一号と言い出したのは、本当は彼自身だったような気がする。誰かが言い間違えたのを、上手く掬って自分の名前の隠れ蓑にしてしまったのだ。

だから余計に、子供には凝った名前をあれこれ考えそうな気がした。

「ありふれた名前だよ」

サラリと一号はそう言って、すぐ後に続けて二人で考えたという名前を披露した。

それは本当に、ありふれた名前だった。

僕は、その名前を声に出さずに一度、呟いてみる。

一号と、ユキちゃんと。

本当にありふれた名前だ。

でも、二人の間に産まれた彼には、お似合いの名前だな、と思った。

 

 

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