「恵子さんの歌は、あのリハーサルだけでも充分だったっていうか、不思議なんです。本番も一緒にやりたかった、なんていう感じじゃなくて、アレはステージとも、別の何かとも違う時間だったような気がして、そういう最高の時間をもうひとつ、余分に過ごした感覚なんです」

明日菜ちゃんは興奮に取り込まれたまま、電話口でそんな風に言った。僕もそれに同意する。

たしかにあの時間は、卒業ライブをそのまま事前に再現したリハーサルだったけれど、恵子さんがいたあの瞬間は、そこがステージであり、ある種の儀式の本番だったような気がする。それが過去に戻ったのか、あるいは未来の一歩だったのかはわからない。でも、あの時間はまったく別の出来事のように、クッキリと明確な輪郭を持って僕の中にも刻まれていた。

卒業ライブ当日、集合場所はそのリハーサルをやった機材倉庫で、そこから出演者が揃ってホールに入る予定にしていた。最終ミーティングのような場を設けるために、幾らか早い時間を集合時間に設定していた。

今度はその集合時間に、誰よりも早く藤木さんは顔を出していた。藤木さんの傍らには、恵子さんではなく、国民的アイドルが座っていた。彼女のお披露目は、リハーサルの時に出演者には済んでいたが、華やかな雰囲気がすでに辺りを圧していた。その影に霞むように、恵子さんの存在は何処にもなかった。

出演者全員が勢揃いしたところで、藤木さんは恵子さんが今日は参加しないことを告げた。一度恵子さんを交えて組み直した第三部の構成を、又元に戻してその修正点を確認して、話はそこで終わった。

残念だな、という言葉は上がったけれど、少なくともフュージティブのメンバーは誰もそう思わなかった。なぜか、そうなることをあらかじめ知っていたように淡々と、その事実を受け止めた。変更を元に戻すのは、詰まるところフュージティブの内部事情のみで、それも事務的に、ひとつふたつ、言葉を交わすだけで終わってしまった。

最も影響を受ける、恵子さんの代わりを務める一号でさえ、動じることなく速やかにその変更を受け入れていた。

そのことを僕は、客観的に不思議に思いながら、しかし当事者として冷静に見つめていた。

ミーティングが終わってホールへ移動する時、今日は最高のライブにしよう、という藤木さんのかけ声は、そこにいた誰もを奮い立たせた。その熱は、まるで恵子さんのことなど夢か幻だったように記憶の奥へと追いやってしまった。後は、華やかなステージに立つ高揚感に取り込まれて、僕らはもう新しく音を紡ぎ出すために歩き出していたのだ。

ただ、倉庫を出る時、扉を出て行こうとするキーボードの上島さんの尻を、明日菜ちゃんが思いっきり回し蹴りしていたのを、偶然僕は見かけた。彼女の左足は、キレイにジーンズ越しに上島さんの尻を捉えて、スパン、と好い音を発てたが、それに気づいたのは、最後にそこを出ようとした僕と藤木さんだけだった。

藤木さんはそれを見て、フン、と軽く笑っただけだったけれど、僕はちょっと複雑な思いに囚われた。

フュージティブが本格的に、ステージに向けて音を出し始めてから、明日菜ちゃんと上島さんの親密さが目立っていた。それは、単純に仲が良い、というだけで片付けられない、もっと心が通じ合っていて同じ空気を吸っているといったような、そんな感触がある。平たくいえば、何処か恋人同士のような振る舞いを、僕が感じることがあった、ということだ。

明日菜ちゃんには、同じ高校の同級生の彼氏がいる。その彼も一時期、明日菜ちゃんと一緒に僕の部屋に来てギターを練習していた。耳が良く手先は器用な気がしたけれど、楽器を弾きこなす才能は平凡で、しかも隣に非凡な彼女がいた中で、彼は居心地悪そうにしていた。結局、レッスンは明日菜ちゃん一人に戻り、そのことを明日菜ちゃんはひどく残念がっていた。

その付き合いに愚痴は出ても、明日菜ちゃんの中では確立した関係が確固とした存在としてあって、それを失うつもりも壊すつもりもなかった。ほぼ三年間、音楽以外のところでは二人はずっと一緒にいたはずだ。

だからその愛情が、別の誰か、しかも上島さんの所に向いているのは、二重の意味で僕は信じたくなかった。

ひとつは彼氏の存在が理由だけど、もうひとつはそもそも、恵子さんとのことで余計な仕事をひとつ増やしたのは、上島さんのせいなのだ。

社交的な上島さんは、高校時代に僕とフュージティブを繋げた張本人で、僕にとっては恩人のような存在だ。独特の音楽性を持っていて、人としても愛すべき存在だと思う。少しお調子者の個性は歳を経ても変わらず、今回の再結成も、元を正せば僕と上島さんが再会したところから始まっているのだ。

それでも、なぜか恋愛事情に関しては、何処か信用のおけないところがあるのだ。明確な理由があるわけではないのだけど、なんとなく付き合っていて感じる本能的なものが、そこの部分に警鐘を鳴らしているのだ。

上島さんが起こした不祥事も、恋愛関係のもつれが原因、と聞いた時、僕は妙に納得したりもしたのだ。

だから、最も上島さんと男女の仲に陥って欲しくなかったのが、明日菜ちゃんだった。だから、二人の親密なところを感じ取る度に、僕は暗澹たる気持ちになり、何とかしてその勘ぐりが間違いだと思い込もうとした。

それが時間を経る度に、徐々に難しくなっていった。そして、極めつけが、ライブ本番のステージの上でのことだった。

ジェフ・ベックがギターで奏でたオペラの名曲「誰も寝てはならぬ」を、明日菜ちゃんがカバーすることになった。

僕たち明日菜ちゃんを知る者が集まって、去年のクリスマスに一本のギターを彼女にプレゼントした。それが改造を施した白いストラトキャスターで、それはメイプルネックを選択した時点で、ジェフ・ベックの愛器を彷彿とさせていたのだ。だから敢えて、明日菜ちゃんは彼の曲をセレクトしたのだ。

元の曲はオーケストラをバックに、ギターが表情豊かにメロディーを奏でるというものだ。そのバックを、上島さんがキーボードでサポートすることになったのだ。

つまり、上島さんと明日菜ちゃんがステージの上で、二人きりで演奏する、というわけだ。

上島さんは演奏そのものだけでなく、元々のオーケストレーションを再現するべく機材や奏法を工夫する術に長けていて、サンプリングや、足踏みの鍵盤や、MIDIスイッチを駆使して、壮大なストリングスの響きを奏でて明日菜ちゃんをサポートした。

ジェフ・ベック特有の奏法、そしてタイム感を見事に自分のモノにした明日菜ちゃんのギターは、正確に打つリズムを持たない楽曲を縦横無尽に遊び回った。そこをしっかりと上島さんの音が包み込むように支えていた。演奏する度に微妙に変わるフレーズをリアルタイムで上島さんは追いかけていった。

二人の息は寸分狂わずシンクロしていて、それはもう練習の賜物というより、二人の鼓動がバイブレーションし合っている、といった方が正確な気がした。

そしてそれが最も顕著だったのが、ステージ本番だった。

その時の明日菜ちゃんの演奏は本当に神がかっていた。

早弾きや、難しいフレーズがあるわけではなく、アーミングを駆使したニュアンスで音を聞かせる楽曲だ。その一つ一つの音に明日菜ちゃん独自の艶が備わり、聴く者に不思議に官能的な気分を呼び起こした。

僕はステージの反対側の、ホール一番後方の二階にある照明用のバルコニーから、その演奏を見ていた。隣には藤木さんがいて、彼女の演奏が熱を帯びていくと、ほう、というように感心した声を上げた。

そして最後の一音、チョーキングで持ち上げた音を蠱惑的なビブラートのロングトーンに繋げて行きながら、ゆっくりと元の音に戻していく。バックはそのまま壮大なエンディングのフレーズになだれ込んでいく。明日菜ちゃんはただ、その揺れながらいつまでも鳴り続ける一音に、全身全霊が重なって昇りつめていった。

その響きが感極まった瞬間、まるで酔い痴れたように明日菜ちゃんは目を閉じ、顎をあげて、そしてうっすらと笑みを浮かべた。頬が紅潮し、何処か全身が震えているような気がした。

半開きの口元からは、艶めかしい喘ぎのような声が聞こえてくるようだった。

その声を、僕はまるで耳元で聞いたような気がして、鼓動が一際大きく、ドキリと鳴った。藤木さんが絶句して身を乗り出した。

その時の表情を、敢えて言葉で表現するなら、ああ明日菜ちゃんはセックスの時こんな顔をするんだ、というものだった。

そう思った瞬間、僕はなぜか恥ずかしさに顔が真っ赤になった。

ほぼ同時に、ステージ上の明日菜ちゃんも、同じように羞恥が溢れて驚き、慌てたように顔を反らした。そのまま深々とお辞儀をして、逃げるようにステージを後にした。

それは間違いなく、明日菜ちゃん自身の至福の瞬間だったはずだ。彼女の音が、彼女自身をエクスタシーに導いた。僕はそういう奇跡的な瞬間に立ち会ったと思ったし、明日菜ちゃんも貴重な体験になったはずだ。

でも、そこにいたのが上島さんだった、という事実に、僕は何か打ちのめされたような感覚を覚えた。

正直、チクショウ、と思ったのだ。

僕はまだ二人の仲を訝しがっているだけだったけれど、二人がベッドで抱き合っている場面に出くわしたような、そんな気分に苛まれてしまったのだ。

それ以来、僕の中でもう明日菜ちゃんと上島さんには、特別な関係があると、諦めに近い感情をかぶせて確信している。もちろん、上島さんが明日菜ちゃんを誑かした、という図式に押し込んでいる。

でも、そうすると智朗くんという明日菜ちゃんの彼氏はどうなったのだろう。

当然卒業ライブには、彼も顔を出していた。打ち上げを一緒に、と僕は明日菜ちゃんに促し、実際片付けの時間を抜け出して彼を誘いに行ったはずだったけれど、結局来なかった。

その後、彼が一浪するために、香川にもう一年居残るという話を聞いた。

そもそも、明日菜ちゃんが横浜の短大を選んだのは、ギタリストとして大成する第一歩のためでもあったけれど、彼氏の智朗くんが東京の大学に行くことが後押ししていた。高校を卒業した後も、付き合いを続けることを望んでいたのは、お互いの意志だったはずだ。

いつの間にか、すれ違いの時間が産まれていた、と明日菜ちゃんは寂しそうにそう僕に告白した。

その話に、上島さんの一件が僕の中で重なり、複雑な思いを醸し出していたのだった。

 

 

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