「一応言っておきますけど、これからの明日菜ちゃんをよろしくお願いしますよ」

僕はそんな風に、簡単に藤木さんに引き継ぎをした。その時からもう、僕の感傷はすでに始まっていて、そうやって一つ一つ、自分の肌を覆っている明日菜ちゃんの存在を折りたたんで仕舞い込まないと、やりきれなくなっていたのだ。

その第一歩が、藤木さんに明日菜ちゃんを任せることだった。

アルコールが直ぐに顔に出る藤木さんは、紅い顔をして僕を見ると、何も言わず、ちょっと肩を竦めて見せただけだった。そして、おまえ、グラスは?と言って適当に目の前に空いていたグラスを僕に渡した。そこに、ビールを注ぐ。

「任されても、オレに出来ることはたかが知れているよ。それより、明日菜ちゃんが間違わなければいいだけさ」

何処か突き放したような言い方は、藤木さんのいつものクセだけど、そのうち熱が帯びてくると徐々にその距離が近くなってくる。まだ酔いも、打ち上げの雰囲気に溶け込むのも完全ではない証拠だ。そして、もう一度、藤木さんは肩を竦める。

「だから、間違わないように、藤木さんにお願いしているんですよ」

藤木さんは僕の顔を上から下まで舐めるように見て、そして何か言おうとした。しかし、堂々巡りになると思ったのか、口をつぐんで替わりにビールをラッパ飲みした。昔から、瓶ビールがあると藤木さんはグラスに注ぐことをしない。はしたない、と周りの女性からは嫌われるが、一度として改めたことはなかった。

「おまえだって、わかっているんだろ?

抑えたような口調で、藤木さんは言った。僕は黙っている。

「オレには意外だったけど、おまえはちゃんと、善い先生をやっていたと想うよ。ちゃんと明日菜ちゃんに道を示して、ここまではちゃんと道を外さずに歩かせてきた。たしかに、明日菜ちゃんは上手いよ。自分の音を使いこなしている、って感じだな」

そして、と言って又ラッパ飲みする。

「おまえはオレたちと彼女をつなぎ合わせて、こうやって盛大なライブをやることが出来た。もちろん、今日は明日菜ちゃんを中心に集まったライブだけど、その接着剤の役目を果たしたのは、大沼、おまえだよ」

空になった瓶をテーブルの上にドン、と音を発てて置いて、藤木さんは身を乗り出すと、僕をじっと見つめた。藤木さんに見つめられると、僕はいつも緊張する。師匠と弟子、のような関係が、僕の中に染みついているせいだ。それを紛らわせるために、僕は胸の内で、押しつけたクセに、と毒づいてみた。

「おまえは善い先生だったよ」

そう言って、自分の言葉にニヤリと笑って見せた。

「ただな、これから彼女が漕ぎ出す海は、こことは別世界だ。今、彼女はおまえのおかげで、好い音に恵まれている。ただ、それは人が紡ぎ出したものだ。音より先に人がある。人が彼女をいい気持ちにさせている」

なぁ、と藤木さんは僕に同意を求めた。僕も頷いて返す。

「オレだって、時々間違いそうになる。音楽は人がもたらすものだけど、それは音楽本来が持つ力とか、魅力とか、とにかく得体の知れないけれどオレたちを惹きつけて止まないものとは微妙にずれているんだ。人と人の繋がりは、仕事を呼ぶ。オレは今までそうやって食いつないでいるようなものだし、時にはこうやっておもしろことにも巡り会うしな」

やっと藤木さんは僕から目を逸らして、フロアを見渡した。数時間前までは、ここに満員の観客が詰めて、僕らの音に浸っていた。今はその一段高いところにいた連中が、現世に下りて華やかな笑顔を満たしている。

この人たちと、オレたちは音楽をやっているんだ、とふと思った。僕の胸を、充実感と言ってイイ熱いものが張り詰める。

「微妙に重なっているけど、似て非なるもの。音楽そのものの魅力に気づいた時、彼女がどうなるか、それはオレにも分からんよ。でも、気がついて欲しいと思うし、だからといってそれは教えられるものでもないしな。彼女自身が気づかないと、どうしようもない。でも、気がつけば、音楽がまた新たな音楽を引き寄せて、そこに又人が着いてくる」

そう言うと、藤木さんは一つ頷いた。

「オレにもそれが見えそうな時があった。なんとなくだが、掌の上に落ちてきた、そんな感覚を味わったことがある。でも、それをものに出来なければ、結局オレ程度が関の山さ」

ふん、と鼻で笑うと藤木さんは立ち上がった。そして、藤木さんは一歩踏み出して、歩き出そうとして、立ち止まる。

そして僕の方を振り返ると、二つの重大なことを、さらっと言ってのけた。

「今の明日菜ちゃんはまだだ。今のままなら、人と人が繋がる常識的な幸せの中に、浸っていられる。案外それを、彼女は夢に見ているのかも知れない。華やかな世界と、区別が付いていないって所かも知れないけれど、このライブで見誤らなければ善いけどな」

つまり、僕が示した道の行き先は、どうしたって僕の限界を超えることが出来ないってことで、それは結局、今の僕の姿に落ち着く、ということだ。それはつまり、音を愉しむことを、常に頭の片隅にぶら下げつつも、本当に望むものを別の所に見いだしている、ということだ。愉しむために人生があるのならば、音楽はそのツールに過ぎない。それが僕の限界なのだ。

そしてそのことを、僕は半ば意識的に、諦めに似た感情で受け入れている。

「心配するな、オレもいっしょだよ」

そう言って自虐的な笑いを浮かべると、藤木さんはもうひとつの重大な結果を僕に告げた。

「俺と恵子はおそらく別れる。それを機に、俺はこっちに帰ってこようと思う」

一瞬、僕はその言葉の意味を計りかねてポカンとした。だが、藤木さんの言葉の中に滲んだ、離婚、という響きが頭の中で何度も反射して、ついに僕の胸を突き上げた。弾かれるように、僕も立ち上がる。

「一応明日菜ちゃんのことは、形が付くまで面倒見るけど、そう長くはないかも知れん」

オレにもまだどうなるかはわからんよ、と言い訳のように付け加えると、藤木さんはそのままフラフラとフロアへ歩き出した。別のテーブルから呼び寄せられて、そこへなだれ込んでいく。

僕はしばらく、何度も藤木さんの言葉を反芻して、その度混乱して、を繰り返していた。その混乱が収まらないまま、打ち上げは引けていった。

もちろん、その話を明日菜ちゃんにはしていない。だからといって今、するつもりもなかった。見送りに行けないほどの感傷がありながら、その実、虚栄のような修辞の中で当たり障りなく送り出したいという思いもあるのだ。

しかし、僕はとりあえず、不甲斐なさを詫びる覚悟をつけた。

「ごめんね、見送りに行けなくて」

僕は僕の言い訳を用意した。

一号に子供が産まれたことは、今のところ僕が拘るほどに切迫したものがあるわけではなく、少なくとも、見送りに行けない理由にはならないことは、きっと明日菜ちゃんにもわかるはずだ。でも、だからといって、彼女には素直にはなれなかった。

社交辞令的に、いえいえ、と明日菜ちゃんは応える。

「お母さんと一緒に行くんだろ?他に誰か来ている?

僕はすぐに話題をすり替える。

「アア、さっき藤木さんと上島さんが来てくれました。最後のうどんをごちそうしてくれましたよ」

そう言うとクスクスと明日菜ちゃんは思い出し笑いをした。

「前からDVDを頼んでいて、それを届けてくれたんです」

DVD?と僕は訊き返す。

彼女曰く、卒業ライブの時の音源と、昔のフュージティブのライブで、映像に残っているものをDVDにしてもらうように、藤木さんに頼んでいたのだという。

卒業ライブはともかく、なぜ、昔の僕たちのライブを明日菜ちゃんが欲しがっているのだろう?僕はそのことを尋ねた。

「やっぱり、フュージティブのボーカルは恵子さんですよ。一号さんには悪いけど、私、あの時震えました。恵子さんの声に」

明日菜ちゃんの興味は、ほぼ音楽に限られている。だから、音楽の話をする時は、いつでも、どんな話題でも興奮を隠せない。そんな彼女が、その時いっそう昂ぶった様子でそう言った。

あの時の恵子さん。そう聞いて、鮮明にその時のことが僕の脳裏にも浮かぶ。

それは奇跡だった。

そう、恵子さんはついに、フュージティブで歌うために僕らの前に姿を現したのだった。

 

 

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