ソファに座って、スマホを取り出しても、僕はすぐには電話を掛けられなかった。なんと言ってイイかわからなかったのだ。何かひどく、ロマンチックなことを言い出しそうで、そんな自分が直視できない。だからといって、気の利いた言葉も思い浮かばない。

とりあえず、僕は赤ん坊の写真を添えて、メールを出すことにした。綴った言葉はあくまでも子供が産まれたことに限定した。今日香川を離れることなど、忘れているように振る舞った。

それで一段落して、僕は立ち上がった。目の前の自動販売機で、飲み物でも買おうと思ったその時、スマホの着信音がした。

明日菜ちゃんからだった。オリアンティの曲を着信音に設定してあるから、すぐにわかる。

僕はすぐにそれを取らずに躊躇する。今ほど、その着信音に驚いたことはなかったはずだ。今までは、ごくごく普通に、その曲が流れれば笑顔で会話できていたはずなのに、もう僕の顔は強ばっていた。

そういえば、卒業ライブで、明日菜ちゃんはオリアンティがスティーブ・ヴァイと共演した曲を、藤木さんとやったのを思い出す。たっぷりとアドリブを効かして、それはもう流麗なギターバトルだった。

藤木さんというのは、僕が高校生の頃参加していた大学生バンド、フュージティブのリーダーで、いわば僕のギターの師匠だ。卒業ライブがそのフュージティブの再結成ライブになったのも、すべて藤木さんの主導によるモノで、気が付けば舞台の構成から曲順まで、すべて取り仕切っていた。

彼は現在、東京でスタジオ・ミュージシャンをやっていて、週に何度か地元に帰って本物のギター講師もしていた。その藤木さんが自ら統率する唯一のバンド、フュージティブは、今回明日菜ちゃんをギターに迎えて再結成を計った。大学卒業を機に、一度散り散りバラバラになったメンバーを集めて、再び音を合わせたのだ。

それは同時に、今後は彼女のサポートを藤木さんに預ける通過儀礼のようなモノだった。

明日菜ちゃんはギタリストとしてプロになることを夢見ている。実際にその現場で仕事をしている藤木さんという存在は、これからの将来を切り開くのに大きな力になるのは間違いない。

そういう意味でも、明日菜ちゃんは僕の手から羽ばたいていったのだ。

藤木さんは、僕にとってもギターの師匠であり、音楽をやる上でのベーシックな部分に多大な影響を及ぼしている。だから、藤木さんに預けることに何の不安もないし、感慨もない。

でもやはり、僕の元から巣立つ感覚は、どうしても感傷を呼び起こしてしまうのだ。

それを見せつけるように、僕の目の前で、二人のギターは火花を散らした。そこにいた明日菜ちゃんは、もう僕の部屋にギターを抱えて現れていた彼女とはかけ離れた、はるかに大きな存在になっていたのだった。

それと対照的に、明日菜ちゃんが望んで、僕とのツインギターもラインナップに加えた。オールマン・ブラザーズのジェシカをやった。メロディー部分をハモるのは、僕の部屋でもやっていた。それを生のバンドでステージの上でやったのは初めてだったけれど、原曲に忠実なコピーを奏でる僕を、明日菜ちゃんの方が絶妙にサポートしてくれた。

そしてその曲をやり終えた時、明日菜ちゃんはこんな風に言った。

「アア、コレで先生とはしばらくギターを弾けなくなっちゃうんだ、と思うと泣けてきましたよ」

先手を取られたような気がして、僕は表情をごまかしたけれど、そう思ったのは僕も同じで、でもコレで終わりじゃないよ、と自分に言い聞かせるように、彼女に返した。

慕ってくれる者を、僕は無碍にすることは出来ない。一号も、ユキちゃんも、きっとそのことを言いたかったのは、良く分かっている。やはりメールだけで済ませるのは、不義理が過ぎる。

僕は椅子に座り直しながらようやく、着信を受けた。

「先生、おめでとう御座います」

おそらく、これから先も僕を先生と呼ぶのは、明日菜ちゃんだけなんだろうな、と思う。

「俺じゃないよ、それは一号に云って遣ってよ」

そうですね、と彼女のは電話口で朗らかに笑い、僕もつられて笑う。

彼女はもちろん、一号とも、ユキちゃんとも面識はある。一号とは僕と三人で丸亀のお城祭りのステージに立ったこともあるし、明日菜ちゃんを擁してのフュージティブのステージでボーカルを務めたのは一号だ。

「今病院ですか?

「そう、さっきオレも赤ちゃんに会ったばかりだよ」

それから明日菜ちゃんは、主にユキちゃんのことを尋ねた。どんな様子か、しきりに気にしていたのは、ライブの時からだ。

卒業ライブのステージ裏の注目をいちばん集めたのは、たしかにユキちゃんの大きなお腹だった。

明日菜ちゃんのためのライブのはずが、いつの間にかフュージティブという古参バンドの復活祭になったおかげで、ライブにはかつての音楽仲間もこぞって参加した。新旧取り混ぜてゲストバンドが多数出演して、卒業と復活という祝祭に花を添えていた。

年齢層が上と下で大きく離れていたのはそういう理由で、しかも中年以上の参加者が明日菜ちゃんの周りの高校生より、断然数が多かったのは、皆家族を持っており、嫁さんや子供を伴って一堂に会したからだ。

フュージティブがかつてライブハウスで呻っていた頃、決まって集まる二つのバンドがあって、その三バンドで一つのパッケージライブを数多くやった。そのメンバーがほとんど家族を持っており、関係者用のパスを誂えて楽屋に詰めていた。

特に会場になったライブハウスは、いつもはランチが好評なレストランとしても営業していたので、楽屋に用意されたケータリングも絶品だった。夫や父親がバンドをやっていたことも半ば忘れていたような関係者の目当てはもっぱらそちらの方に集中した。

それ以上に、お腹の大きなユキちゃんはそこに集まった、特に奥さん連中の注目の的だった。出産経験がある者がほとんどで、臨月を前にしてサジェスチョンやら、アドバイスやら、騒々しいこと甚だしかった。

本当の主役は明日菜ちゃんだったはずだが、その彼女がもっとも、身近に産まれてくる新しい命に興味津々で、気がつくと妹とユキちゃんと明日菜ちゃんのスリーショットが、楽屋の真ん中に馴染んでいた。

僕はふと、明日菜ちゃんは、家庭を持ち、子供を産み育て、そういう一般的な未来に憧れを抱いているのかも知れない、とそんな風に感じた。ギターを手に、その行く先には孤高の頂が、絢爛豪華な虹のような輝きに彩られて、とそんな華やかで世相とは一線を画した世界を思い描くのは、僕の方がずっとありきたりなのかも知れない。

あるいは女性本来の持つ、本能的なものなのか。そうなると僕には見当も付かないけれど、ただ、さっき生まれたての赤ん坊の顔を見た時、僕にも同じように、本能的にこの新しい命を慈しみたい、という強い衝動に駆られた。もっと根源的な、当たり前の感情がそうさせたのだろうか。

ただ、明日菜ちゃんの素朴な一面に最初に気がついたのは、藤木さんだった。打ち上げの席の時のことだ。僕らはステージが跳ねた後、観客の熱狂がまだどこかに残っているフロアに椅子とテーブルを並べて、そこで打ち上げを始めた。本来レストランとして営業しているホールならではの、料理と酒が並んで、僕らは乾杯を繰り返していた時のことだった。

 

 

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