冬の終わりの休日、産院の待合室は穏やかに晴れた陽が射し込んで柔らかく輝いていた。この分だと昼頃にはけっこう暖かくなるかも知れない、と僕は思いながら、長椅子の隅に坐ったままスマホの画面を見つめていた。

今さっき撮ったばかりの赤ん坊の画像を僕は見ていた。

ユキちゃんの腕に抱えられた赤ん坊は男の子で、白い産着を身に纏っていた。産まれたばかりの赤ん坊は、紅みを帯びた顔でもどかしそうに身動きしながら、まだよく見えない眼で周囲を見ようとしていた。

抱いてみたら、と妹に言われたけれど、僕は怖くて辞退した。なんとなく、その赤ん坊の顔に、生きていく必死さのようなものを感じて、それは未だ僕には触れてはいけない尊いモノ、というような感覚が起こったのだ。別に自分に何か負い目があるはずはないのだけど、生きていこうという意志の純粋さに僕は気圧されてしまったのだ。

言い訳のように、僕はスマホで何度もその顔を画像に納めた。最後に赤ん坊を間に挟んで、一号とユキちゃんを並ばせて撮った。強ばった表情をした一号とは対照的に、ユキちゃんはもう、母の顔をしていた。それはどことなく、妹の表情に似ていた。

妹は後ろに控えながらも、細々と手を動かし、落ち着かない。自分の周囲の些事を片付けているようで、意識は赤ん坊に貼り付いている。直接的に触れるユキちゃんの、更に外側から優しく抱きしめているような気がして、なんとなく、その新しく産まれた命には、二人の母親がいるんだな、というようなことを想った。

それからすぐに、授乳の時間とかで、ユキちゃんは病室を出て行った。残った妹と一号は、やっと出産前後の話を僕に披露した。二人は出産に立ち会ったのだ。いつもはほんわかとして、もの当たりの柔らかなユキちゃんが、いよいよという時になって、その表情が一変したらしい。

「アレはね、何というか、人間が本来持っている本能がもたらす攻撃的な部分を全部凝縮したような、そんな顔だったな」

そういう一号は今にもかみつかれそうだった、と付け加えた。そして実際何度か理不尽なことで怒鳴られたりしたらしい。妹がずっとユキちゃんの手を握っている横で、一号は半ばおろおろしながら、ハンディカムを回していた。だがさすがにその表情を収めるのは気が引けて、結局妹の顔ばっかり撮っていたらしい。

「兄ちゃんが幻滅するといけないからさ」

一号は冗談めかしてそんな風に言った。

話が一段落した頃に、ユキちゃんが又戻ってきた。赤ん坊は眠っていて、それをベビーベッドに寝かせると、ユキちゃんは自らの身体を重そうに、ベッドの端に腰を下ろした。まだ腰の座りが覚束ないらしい。

それから早生まれにならなくて良かった、という話をしていると、そういえば、と一号があることに気がついた。それは実は、僕がずっと今日という日にもうひとつ、気に掛けていることそのものだった。

「明日菜ちゃん、今日東京に引っ越すんだよね」

見送りに行かなくてイイの、と一号は素っ気なく言う。

「ユキちゃんに子供が産まれたからさ」

僕は言い訳にならない言い訳をする。すぐに、別に兄ちゃんに何も用事は無いよ、と妹が返す。

本当は、僕は明日菜ちゃんを見送りに行きたくなかったのだ。

そういう場を、僕は最も苦手としているのだ。

明日菜ちゃんはずっと僕の家に通って、ギターを習っていた。と言っても、教えたのは最初の頃だけで、後は一緒になっていろんな曲を弾いていた。

彼女が中学の時、ユキちゃんの大学の同級生だった明日菜ちゃんのお兄さんとの繋がりで、僕がギターを教えることになった。ちょうど七夕がいなくなり、一号も出て行って、家の中にどうしようもない空虚さが日常に貼り付いて、たゆたっていた頃だった。

僕の部屋には楽器があり、音を鳴らす機材があったというだけで、僕自身がそれほど上手なギタリストだったというわけではなかったし、誰かに教えた経験も無かった。でも、うちの家に新しい訪問者が現れるという出来事は、僕にも、そして妹にも救いに近い意味を持っていたのだった。

週末の土曜日がレッスンの日で、明日菜ちゃんは電車で僕の家までやってきた。その日は、朝から妹がお茶請けを用意し、僕は楽譜を用意したり、事前に自分が弾けるように練習したりした。

それが毎週の決まったローテーションになり、やがては当たり前になった。明日菜ちゃんは僕の目の前で、メキメキ上達していき、本当は早い内に僕のテクニックなどすっかり凌駕していたけれど、レッスンという名の貴重な音楽の時間は、四年半以上続いたのだ。

そして今年の春、高校を卒業して横浜の短大に進学が決まっていた。ちょうど今日がその引っ越しの日なのだ。

当たり前になっていた予定が、ぽっかり無くなってしまう、ということだけで、僕は感傷的になってしまう。先週、ちょうど盛大に彼女の卒業ライブを開催したばかりだ。それはいつの間にか、僕が何十年も前に参加していたバンドの、再結成ライブに取って代わり、今年に入ってからはその準備でいつもの何倍も賑やかな時間が過ぎていった。

そのステージの幕が下りた途端、僕の中にやっと喪失感のようなモノが下りてきて、その瞬間、僕は今日のことを厭うようになっていた。すべてが終わった瞬間の、あの充実感はそのまま、明日菜ちゃんと過ごした日々の思い出の深さとなって、そのまま僕を苛み始めたのだった。

「行かないの?

一号はおそらく、僕のそんな感情を知っている。もう長い付き合いなのだ。二十歳の頃にバイトしていた名古屋の楽器屋で知り合ってから二十年あまり、ずっと一緒に音楽仲間として、そして善き相棒として、僕らは関係を築いてきたのだ。それぐらいのことはわかっているはずだ。

わかっていて、敢えて、一号は僕にそう言っている。それは、からかっているのも半分あるのだろうが、最後ぐらいはちゃんと顔を見せておいた方がイイ、と言いたいのだろう。

「電話だけしておくよ」

僕と一号は一緒に、病室の淡いクリーム色の壁に掛けられた時計を見やった。十時頃坂出を出るマリンライナーに乗るはずだ。

時計はちょうど九時半を指していた。

幾らか僕はホッとして、もう間に合わないよ、とまた言い訳する。本当は間に合わないように、この産院に来る時間を計算しておいたのだ。

「今のうちに電話しておいたら」

今度はユキちゃんがそう促す。用意周到な僕にも、それを断る理由は見つからなかった。

そうだね、といって僕は病室を出て、玄関を入ったところの待合室に行ったのだった。

 

 

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