「ねぇ、ねぇ、あのね」

僕の耳をくすぐるように、幼い声が聞こえた。

暗い闇の向こうから、辿々しく、幾らか舌足らずの高い声。

僕は声のする方を見やる。すると、目の前の視界がぼんやりとだが開けてくる。

そこは、ウチの家の仏壇のある部屋で、畳の上に毛足の長い絨毯が敷かれてあった。

その真ん中に、声の主は座っていた。丸い目を見開いて、屈託のない笑顔を浮かべた、まだ一歳に届かないであろう男の子だった。寝癖の付いたままの髪は黒く、白い肌着が柔らかく身を包んでいる。ヒザを曲げた足を前に突き出し、絨毯の上に直接坐っている。小さなプクプクとした手には丸い輪っかの玩具が握られていた。

僕がその幼児を認めるのと一緒に、向こうも僕をハッキリと認識したのか、彼はもう一度、

「ねぇ、ねぇ、あのね」

と言った。

その言葉を出す時だけ、僕を見るその眼差しは、真剣そのものになる。そして、言い終えると、ホッとしたようにまた輝くような笑顔に戻るのだ。その笑顔には、十人が十人、誰でもが顔をほころばせるに違いない。

この世の憎悪をすべて取り去ったような、そんな笑顔だった。

彼の笑顔が反射したように、僕も笑顔でその声に応えようとする。

でも、なぜか、声が出ない。

笑顔を返しているつもりで、でもその表情がちゃんと笑顔を作っているか心許ない。なぜだか良く分からないけれど、僕にはその辺の意識が曖昧なのだ。

それに、僕はその「ねぇ、ねぇ、あのね」というフレーズ、そして声に聞き覚えがあった。

そう思った瞬間に、それはずっと閉じていた記憶を鮮やかに甦らせた。

僕の脳裏には、妹の一人娘、七夕の顔が浮かぶ。

一時期、僕の家の中心はその七夕だった。彼女が目の前の幼児と同じように、絨毯の上で玩具で遊んでいたのを何度も見たし、僕とそこで会話もした。少し大きくなると彼女の手を引いて近所を散歩し、まだ幾らか残っている自然に手を伸ばしたりした。

いつの間にか七夕は、周囲の者、特に母親である妹が僕のことを兄ちゃん、兄ちゃんと呼ぶので、同じように僕を兄ちゃんと呼んでいた。兄ちゃんと呼ぶ度に七夕は僕の手を引き、遊びに行こうと誘っていた。

ほぼ同じ頃、ウチには僕の音楽仲間で、もう切っても切れない腐れ縁の仲になってしまった一号と呼ばれる男が同居していて、七夕はその彼にも懐いていた。彼も七夕の手を引き、近所を散歩して回り、帰ってくると必ず、七夕は短い歌を覚えていてそれを僕や妹の前で披露した。

そんな日常の中で、例えば夕ご飯時、僕と妹と一号がキッチンのダイニングテーブルを囲んで話をしている横で、子供用の座高をかさ上げした椅子に座った七夕はその会話を聞いていた。大人の僕たちは、他愛なく今日あったことを話しているうちに、話題は縦横に飛び交って、いつしか会話は賑やかになっていく。

おそらく七夕は、その会話のキャッチボールに取り残されたような気になったのだろう。いつもは自分が誰かに注目されていて、それが当たり前に感じていた頃だ。放っておかれる感覚は我慢できなかったのかも知れない。

そしてある時、急に、

「ねぇ、ねぇ、あのね」

と言いだした。

当然、僕らは会話を中断して、何事か、と七夕に注目する。

しかし、七夕に何か、訴えたい何かや、どうしても話したい話題があるわけでもなく、もちろん、僕らの会話を理解しているようでもなかった。だからそう言ったきり、ニヤっと笑うと、少し恥ずかしそうに黙って僕らを見ていた。

それが、気を惹きたいための、七夕のアイデアであることを僕らはすぐに理解したけれど、一方の七夕の方も、その台詞を言えばみんなが注目してくれる、ということを覚えた。

それ以来、夕食時、会話が弾んでくると、七夕は決まって、

「ねぇ、ねぇ、あのね」

そう言って僕らの輪の中に入ってこようとした。

その声、その口調、それは僕の記憶の中にしっかりと焼き付いている。しかし、実際に耳にしたのはもう、遙か遠い昔のような気がする。七夕がそうやって、会話する楽しみを覚えた頃、突然の別れがやってきた。

妹はちょうど離婚調停中で、とにかく七夕と一緒に暮らすことを望んで必死だった。しかし、何がどう転んだのか、ある日突然、父親側に引き取られていったのだ。僕らは急に、家族の中心を無くして、放心してしまった。

それ以来、七夕のことは、ウチでは触れられない存在になってしまった。そして、その存在を思い返すことすら、封印してしまっていた。

それがなぜ、と幼児を目の前に僕はまず思う。その途端、いくつかの疑問が同時にわき起こる。

例えば、七夕は女の子だが、僕に笑いかけている幼児は男の子に間違いなさそうだ。

それに僕の記憶の中にある七夕は、ちょうど保育所に通い始めた頃で、目の前の幼児よりはずっと成長していた。僕は身近に小さな子供というと、七夕以外に知らないが、おそらく言葉を発するには、見た目から感じる様子では、まだまだ幼すぎる気がする。

その時また、目の前の彼は僕に笑いかけた。

「ねぇ、ねぇ、あのね」

口を開けて笑ったまま、彼はそう言った。

幾らか僕は混乱して、彼を見つめた。その時、どこからか、聞き慣れた規則的に繰り返す音が微かに越えてきた。

どうやらスマホの着信音のようだけど、ひどく遠い。

そして、なぜか目の前の彼に視線を吸い取られたように、そこから動けない。身体が重く、腰の辺りに重しを乗せたような鈍い痛みが横たわっていた。

それでも動こうと、幾らかもがくが、目の前の幼児は笑ったままだ。

ふと、僕の頭にある結論が浮かんだ。

覆い被さるように、スマホの着信音がどんどん大きくなる。

目の前の幼児は、きっと、一号の子供に違いない、そう思う。

一号は、ちょうど七夕が消えてしばらくして、ユキちゃんという彼女が出来てウチの家を出た。しばらく一緒に住んでいる内に二人の間に子供が出来た。だが結婚を彼女の父親に反対されて、それがきっかけでウチにまた居候することになったのだ。

結婚への反対がショックだったのか、彼女の方が体調を崩して、しばらく入院した。そこに手を伸ばしたのが、出産経験のある僕の妹で、どうせならまたウチに来なさいよ、ということで、今度は二人して居候することになったのだ。

そのおかげで、次第に大きくなる彼女のお腹を眺めながら、僕らは日々を過ごし、つい三日ほど前にいよいよ陣痛が来て、病院に駆け込んだ。

ついに産まれたんだ、と僕は思った途端、目の前の幼児が消え、僕は目を覚ました。

キッチンの隣にあるリビングのソファに横になったまま、僕は眠っていたようだ。傍らのローテーブルの上に放り投げていたスマホが、けたたましく鳴り、振動して踊っている。

僕は慌ててそれを手に取り、着信をフリックする。

「寝てた?

妹の声がした。掠れた声に疲れが滲んでいる。妹はずっと妊婦の面倒を見ていたが、破水してからはずっと、仕事を休んで彼女に着きっきりだ。それが義務であるかのように、初産に苦しむ彼女をサポートしている。

僕は、大丈夫、と返しながら、身体を起こした。随分不自然な姿勢で寝ていたせいで、腰が軋むように痛んだ。

「産まれたよ」

スマホの向こうで妹は、短くそう言った。そして、ホッとしたような小さな笑い声の混じった吐息を漏らした。

「やっぱり」

僕はさっきの夢を思い返す。けれど、もうあの幼児の顔が曖昧になっている。ねぇ、ねぇ、という声だけが耳に残っているけれど、それと、今耳元で聞こえる妹の声の波長が重なる。

何よそれ、と妹は訝しそうな声を出す。

「母子共に健康、何も問題なし。ちょっと時間掛かっちゃったけどね」

安心したように、僕も妹も一緒にフフフ、と声を出して笑う。

「それじゃ、今から行くよ。何か持っていくものある?

「いいよ、まだ。こんな時間だし」

僕は壁に掛かっている時計を見た。まだ四時前だった。

「面会時間は、八時から。それからでいい」

僕は、わかった、と言ってそして、おめでとう、と伝えておくように妹に言付けた。そして、通話を終わらそうとしたところで、今度は妹が慌てたような声を上げた。

「ブチクロに餌をやっておいてよ。台所の前に出しとくだけでいいからさ。ここ三日、あいつも腹空かしていると思うんだよね」

ブチクロ、というのはウチに居着いた野良猫だった。餌場は他にもあるみたいだけど、今は大きな顔をしてウチの家の縁台の上で寝ていたりする。そういえば昨日の朝、家を出るついでにゴミを出しに台所の勝手口から外に下りると、そのブチクロが僕の顔を珍しくじっと見つめていたことを思い出した。普段は、妹にしか懐かないブチクロは、僕をじっと見ていたのだ。

きっと妹が言うように、腹を空かせていたんだろうと、今になって気づく。

わかったよ、と僕は返事して、通話は終わった。

ソファに座り直して、僕は目を閉じた。

「ねぇ、ねぇ、あのね」

その言葉がまだ、頭の中で繰り返す。今となってはそれが、あの夢の話なのか、封印した七夕の記憶を呼び覚ましたせいか、わからなくなっている。

それでもまた、賑やかな日々がやってくるのだろうな、と思いながら、僕は時計をもう一度見た。

そうだ、今日は日曜日だ、とその時、やっと思い出した。

 

 

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