モモちゃんがモモちゃんと呼ばれる所以は、彼女のぷっくりと膨らんだ頬が、いつもほんのり桃色に染まっているからだ。昔からそうで、ふくよかな彼女の体つきに、その頬が幼さを強調している。そのまま大人になっても、モモちゃんという名に恥じない頬をしている。

僕が初めてモモちゃんに会った時から、モモちゃんはモモちゃんと呼ばれていて、僕の指を縫った先生もモモちゃんと呼んでいたし、若い看護婦はみなモモちゃん先輩、と呼んでいた。彼女の名前を聞くより先に、僕も彼女のことをモモちゃんと呼んでいて、確か本名は何?と言ったのが本格的にモモちゃんを口説いた最初の台詞だった。

そのモモちゃんがモモちゃんたる所以の頬を、いつも以上に紅く上気させて、歌いきったモモちゃんは、彼女自身も唖然としてしまったかのようにまっすぐ前を向いたまま、身動ぎしなかった。さっきまでの不機嫌な表情とはまた違う、緊張感が漲っているけれど、それが何かに変容した火照りとなって頬から排熱されているような、そんな表情が張り付いたまま、モモちゃんは暫くそのままの体勢を維持した。

同じように僕も唖然としてしまっていた。モモちゃんとの付き合いはもう二年近くになるけれど、彼女の本気の歌を聴いたのはおそらく初めてだった。一緒にカラオケに行ったことがないので、鼻歌以外の彼女の唄は、間違いなく初めてだ。

しかし、この一日の締めくくりの夜のドライブに、まったく不釣り合いな熱唱だった。僕の耳には、モモちゃんの声で、ずっとゲラゲラポッポーという声が響き続けている。

ただ、場違いなだけに、そのモモちゃんの歌声に鬱積していた空気が緩んだのは確かだった。不機嫌や不安なんて云うモノは、いつの間にか押し流されてしまっていた。何もなかった、というほどかけ離れてはいないけれど、何物にも囚われない素直な感情が溢れてくる。

でも、と僕は呟くように言って、今度こそちゃんとボリュームを絞った。次の曲が始まったのを、僕は遠慮気味に小さくしたのだけれど、今度はモモちゃんは抵抗しなかった。もう歌う気はないらしい。

でも、そんな歌、いつの間に、覚えたの?僕はそう尋ねていた。

モモちゃんはまたそっぽを向こうとした。でもその前に、プッと吹き出した。ついでにグスッと鼻が鳴って、グフグフと小さく咳き込んだ。そしてもう一度プッと、やはりモモちゃんの身体が素直に反応してもう止められなくなった。

頬を振るわせて、モモちゃんは笑い出した。堪えようとしても堪えきれない、目は相変わらず怒りを露わにしようと努力しているが、おそらくは自分の行動に自分自身で可笑しくなってしまったのだろう、無意識のうちに笑いがこみ上げてきて、上半身が小刻みに揺れる。

声には出さないけれど、どうしても笑いが抑えられず、鼻がピクピク膨らんではグフッ、ププッ、と溢れ出して続いた。

終いにはもう壊れた笑い袋のように、お腹を抱えてゲラゲラと笑い出す。

僕もやっといくらかほぐれて、胸をなで下ろした。モモちゃんほどではないにしろ、自然と表情が緩む。何の解決もしていないけれど、あったと思った大きな障壁が急に消えてなくなったような、そんな気分になった。

僕は姿勢を正してハンドルを握り直した。道路は二車線になり、僕は左の車線に寄る。モモちゃんが歌っている間に後ろに着いた軽自動車が、ものすごいスピードで僕らのクルマを追い抜いていった。

直ぐに赤信号が近づいて、僕は横断歩道の前でブレーキを踏む。そこまで来ると、もう道はなだらかな平地に入っていて、人家の明かりがいくらか増えていた。ぼんやりとした向こうに二十四時間開いているスーパーの看板と、その明かりが見えていた。

雨は大粒になって結構な強さでフロントガラスを打つようになっていた。僕は細く開けた窓ガラスを更に狭くする。暖房は充分に効いていたけれど、さっきのモモちゃんの熱唱でいくらか室内の気温も上がった気がする。

うっすらと首筋に汗を浮かべたモモちゃんは相変わらず笑いを堪えきれない、といった感じでグフグフと息を整えるのに夢中だった。シフトをニュートラルに入れて、僕が顔を向けると、その頬に一筋の涙が落ちているのが見えた。

涙は溢れて止まらず、ずっと頬を落ち続けた。

表情は笑顔のまま、涙はいっこうに止まらず、その自分をモモちゃんも持て余しているのか、拭おうとはしない。

僕は思わずそのモモちゃんに向けて、手を伸ばしていた。彼女の首筋から手を入れて、丸い後頭部の形をなぞりながら髪を持ち上げて手を宛がうと、そのままクシャクシャ、っと撫でた。

信号が青に変わる。

僕はルームミラーを覗いた。後ろにクルマの影はない。

そのまま暫く、僕はモモちゃんの髪を撫でていた。

フロントガラスを指さしながら、青だよ、とモモちゃんは涙声で言う。

僕は、うん、といってやっとモモちゃんの君から手を離した。

愛おしいと、強く思う。

ギアを入れて、アクセルを踏んで、クラッチをあわせてクルマをスタートさせる。リズミカルにシフトアップしていくのがもどかしい。

制限速度を捉えたところで、僕はもう一度モモちゃんの髪に手を当てる。今度は耳の辺りから頬へと手の甲で撫で、涙を拭った。拭っても直ぐ、涙は溢れてきた。

ごめんよ、今日は悪かった。

そう言わずに居れなかった。

今度は本格的に、モモちゃんは泣き出した。何度もしゃくり上げながら、まるで子供のように声を上げて泣き出した。

僕は次の信号まで、モモちゃんの髪を撫で続けた。モモちゃんは一日分の涙をまとめて吐き出すように、その間ずっと泣き続けていた。

 

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