もう一度、リベンジの機会が与えられる気はしなかったが、消化不良の思いは僕自身にもあったし、話を聞いた他の連中もそう思うだろうと思った。煙に巻かれる、というのはこういうことを言うのだな、と僕は会計を済ませた。

僕は恵子さんと別れる間際、いくらか卑怯な手段だと自分の中で躊躇した最後の台詞を恵子さんにぶつけた。

「明日菜ちゃんが恵子さんの声に夢中なんですよ。一緒にやりたいって、おそらく一番明日菜ちゃんが思ってますよ」

去年の夏、恵子さんは藤木さんに連れられて、明日菜ちゃんと初めて逢った。鬼無のスタジオでのセッションの時だったが、その時いくつか事前に曲を用意していて、それはフュージティブを始めた頃にコピーしていたいくつかの曲だった。

僕はその時初めて藤木さんの前でベースを弾いた。僕自身フュージティブに参加するために、半分オーディションのような格好でコピーした曲だったが、ベースは今回改めて練習しなければならなかった。

明日菜ちゃんもプロのギタリストを前にして緊張して、その日のセッションは順調にいったとは言いがたかった。ちゃんと音になる前に時間が来て終わってしまった。

それでも、恵子さんが出した声に、明日菜ちゃんは魅了された。あれほど説得力のあるボーカルは初めてだ、と藤木さんと音を重ねるよりショックな出来事だったと、帰りのクルマの中で僕に告白した。

結局、恵子さんとセッションしたのはその時が唯一で、それでも明日菜ちゃんに残した印象はかなり大きかった。卒業ライブがフュージティブの再結成に取って代わろうとした時、恵子さんのボーカルで音が出せることを、明日菜ちゃんは喜んだのだ。そのためなら何でもやりますよ、と彼女は期待に声を弾ませたのだ。

それを恵子さんに伝えるのは、おそらくは今のフュージティブのあれこれを持ち出すよりは、一番説得力があるはずだった。最も前向きな、説得材料でもある。

でも、明日菜ちゃんをこの騒動に巻き込んでしまうような気がして、僕は躊躇していた。そもそも、上島さんの事件のことを彼女はまだ知らない。だから、恵子さんとの確執も、ぼんやりとは何かあるだろうと気づいてはいるだろうが、はっきりとは言っていない。

僕は恵子さんのことは、ノスタルジーの中で繋がっている者同士で何とか解決したい、と思っていた。それがのぼせ上がって何でもありになってしまいそうな、この騒動への僕なりの戒めのつもりもあった。

明日菜ちゃんはある意味、僕らの中で神聖な存在になりつつあるのだ。最もそれを守るべき僕が、それを犯してはならない。誰にとっても、明日菜ちゃんを汚すことは出来ない。

しかし、万策尽きた感触は強いし、いくらか恵子さんの最後の策略に対する自棄もあった。いろんなことが音を立てて崩れていく、道連れのようなものだ。僕自身が汚れていく。

しかし恵子さんは、ああそう、それは残念ね、と軽く言っただけで終わってしまった。

後に残された僕は恵子さんの背中を唖然として追いながら、自分の胸にのしかかったずっしりと重い何かに、ひどく疲れているのを感じていた。

まだ終わらないのだ。

これからどれだけ続くのか、あるいはあっという間に消えてなくなるのか、まったく予測も出来ずに不安だけが募っていく。

僕はモモちゃんに何か声をかけようと、やっと彼女の方を向いた。しかし、顔を合わせようとしないまま、駐車場に続くエレベーターへとモモちゃんはササッと歩いて行ってしまった。

それからもう三十分は経った。ゆっくりと法定速度を逸脱しないような速度で、冷静さを装って僕はクルマを走らせ続けた。

トンネルに入ってもそっぽを向いたままのモモちゃんは、轟音に紛れて気配を完全に消していたが、僕は次第に修・復・不・可・能・・・というような、破滅へ向かっての階段を滑り落ちていく気分を、恵子さんとの会話を反芻することでかき消そうとしていた。

何か上手くいかないという想いだけを肩に乗せて、それをどうするのか決めあぐねている。恵子さんのことも中途半端だし、モモちゃんの機嫌に対しても上手い方策が見つからない。

逡巡のウチに長いトンネルを抜けた。

トンネルの半ばから道は下り坂になっていて、僕は制限速度を守るためにいくらかアクセルを緩めた。ギアを変えるほどでもない、なだらかな坂が暫く続く。外の景色は相変わらず山間の闇の中で、目の前を切り取ったヘッドライトの明かりだけがひどく際立って見えた。そこを斜めに切り裂くように細い雨が走って行く。フロントガラスにはさっきよりもずっと頻繁に、水滴が打ち付けてきていて、慌てて僕はワイパーを動かす。

本格的な雨になってきた。気温は相変わらず低く、薄く開けた窓から吹き込む風は僅かでも凍える感触を忘れさせない。これは予報通り、そのまま雪に変わるかもしれない。

車内を満たしていた轟音が、いつの間にか風を切る甲高い音に変わっていた。それを、拍子抜けさせるほどにまったく場違いな、底抜けに明るいアニメの主題歌が覆い隠す。まとまらない思考が不意に躓いて、その主題歌に併せて踊るCGアニメを僕は思い出した。そんな映像、いつ見たんだろう?

僕は、カーステレオのボリュームに手を伸ばした。音量を下げるのは、単純に、その主題歌を聴きたくはなかったからだが、代わりに埋める言葉か何かを僕は持ち合わせているわけではなかった。少なくとも、僕はモモちゃんの不機嫌に、未だ打つ手を持っていない。というより、もう半ば逃げたくなっている。

追い込まれているわけではないけれど、あの砂漠の華のとげとげしさに、指先を切ってしまいそうな予感だけが僕を苛んでいるのだ。

おそらく、漠然とした圧迫感のようなものが、僕を押さえつけようとしているのだろう。押し返せば深みにはまる、そういう圧迫感だ。つまり、もう恵子さんのことも、ライブにまつわるいくつかの不安材料も、今のモモちゃんの不機嫌も、今は全てが渾然一体となって雨のように降り注いでいるような気がするのだ。

なだらかに左右にカーブするアスファルトを正確にトレースしながら、僕はいくらか前傾姿勢になって手を伸ばし、カーステレオのボリュームを下げた。

風切り音が大きくなって、僕が左手をシフトノブに戻した時、下げたはずのボリュームが不意に上がった。

さっきより若干大きな音量に変わっている。

僕は反射的にカーステレオの細長い液晶の画面を見る。そこを遮るように、手が伸びていた。

モモちゃんの手だった。

モモちゃんは僕が気づくと、更にボリュームを上げた。

耳が痛くなるほどの爆音ではないけれど、会話をするにはいささか声を張らなければならない大きさだ。

モモちゃんの手がカーステレオのパネルから離れると、彼女はまたそっぽを向いた。相変わらず、闇が走るだけの車窓の外を見つめることに専念する。

僕はもう一度、寝てて好いよ、とだけ言って、ほんの僅かだけ、ボリュームを下げた。別に他意はなく、ちょっと音量が大きいと感じた故だ。僕らが二人でいる時に、会話が成り立たない音量は不必要だと、僕は主張したかったわけでもない。単純に、聴きたくない音楽に見合うボリュームじゃない、と感じただけだ。

しかし、モモちゃんはもう一度、手を伸ばしてきた。

さっきよりもいささか音量が上がる。

だが、タイミング悪く、そこで曲が終わった。

次の曲まで沈黙が支配する。

僕がまた音量を下げると、モモちゃんはやり返してくるのだろうか?としばし考えた。明らかに、モモちゃんは悪意を持ってボリュームノブを回している。僕に対する反抗であることは間違いなさそうだ。

それにいちいち付き合うのも、大人げない。というより、もう気力が萎えていた。僕は一日ずっと、自分の思惑とは離れたところで、気を遣い続けていたのに気づく。本当は、僕だってモモちゃんと同じように、不機嫌になりたいのだ。他人に振り回されているのに、僕だってかわりはないのだ。

もっとも、他人に振り回されている僕に振り回されているモモちゃんは、僕以上にはストレスの塊にはなっているのはわかるけれど。

そのうち曲が始まった。僕は大人げないと思いながらも、ボリュームを戻そうと手を伸ばそうとした。それをきっかけに、とりあえず何か、言い訳からでも好いから話し合わないといけない、と僕はいくらか焦りを感じた。

その手がボリュームノブに届こうとしたところで、モモちゃんの手が僕の手のひらを打った。

ピシャン、という生々しい音が響いた。僕は思わずハンドルを不用意に回してしまいそうになる。

僅かな痛みと驚きに、一瞬の頭が思考を停止する。空白がまたしても、僕の行動を奪ってしまった。

モモちゃんがこっちを睨んだ。だがその視線は直ぐにフロントガラスの方へとまっすぐ向けられた。

呑気に、ゲラゲラポー、と唄が始まった。まったりとしたテンポがこれほど違和感を持って感じられたのは初めてだ。

だが、その僕の戸惑いをかき消す声が、僕の耳を打った。

ゲラゲラポーと、モモちゃんは歌い出した。

自分の上げたボリュームに負けない声量で、モモちゃんは流れ始めた曲に合わせて歌い始めたのだ。

僕は伸ばした手を宙に浮かせたまま、行き場をなくしたように動きを止めてしまった。目だけはまっすぐ前の道路を見つめているが、反射的にハンドルを動かしているだけで、意識はまったく停止してしまっていた。

声を張り上げてモモちゃんは唄を続ける。決して下手ではない。恵子さんの足下にも及ばないが、音程を外したり、声が裏返ったりはしない。

意識を吸い取られたように、僕はただ、モモちゃんのその歌を聴いていた。

モモちゃんはまっすぐ前を向いていた。僕よりもまっすぐ、クルマの行く先を見つめている。シートに潜り込むように座っていたのが前のめりになり、背筋を伸ばし、心持ち胸を反らして口を大きく開けて、声を出している。

熱唱だった。

唄は直ぐにラップパートになったが、それも完璧で外すことがない。ゲラゲラポーの繰り返しになると高らかに歌い上げ、ラップは一言一句間違えることなく、リズムも完璧に歌いこなした。

五分弱の熱唱を、僕はただひたすら聴いていた。これほどまでに他人の歌に聴き入ったのは久しぶりだと思った。

ようやく唄が終わる。モモちゃんは歌いきった。完璧に歌いきった。

唖然とした沈黙が漂う。

風切り音に我に返った僕は思わず、絞り出すような声で、スゲェ、と呟いていた。

 

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