それだけ、フュージティブに復帰することは無理、という言い方で、恵子さんは僕と寝るかどうかを、もう一度訊いた。二度目は、随分と艶っぽい目つきで、僕を見た。見た目のかわいらしさが先行するその表情に、なぜそんなに妖艶な光を宿せるのか、不思議なくらい僕は一瞬、魅とれた。

ただ、その恵子さんの思惑通り、はい分かりました諦めます、というのも何か癪な気がした。明らかにモモちゃんが隣にいるからこそ、恵子さんは僕を試しているのだ。それにまんまと、分かっていて填められるのは、納得しがたかったのだ。

「好いですよ、この際。それで恵子さんの歌がまた聴けるなら、何だってやりますよ」

半ば、自棄だった。モモちゃんの顔は見られなかった。

目の前の恵子さんを見つめて、僕はなるべく真実味を溢れさせてその答えを吐いたけれど、そういう返事も予想していた、といわんばかりに恵子さんは一つ、ため息をついた。

まったく・・・、と呆れたように独りごちて俯くと、温くなったコーヒーに口を付けた。

暫くして顔を上げた恵子さんは、まず僕の顔を下から上へと舐めるように見た。そして目と目が合った時、瞬間で横に反らした。モモちゃんの目を見る。

視線に吊られて僕もモモちゃんを見ようとしたが、視界の端に瞬間捉えて、直ぐに反らした。怖くてとても出来なかった。

「モモちゃんだっけ?

モモちゃんは返事をしない。

「あなたもね、考えた方が良いわよ、誰に影響されたんだか、この男、っていうか男ってこういうものなのね。あたしはね、高校生の頃の大沼君を知っていて、その頃は他のみんなは大学生で、一人純で真面目で、たっちゃん以外はみんなカワイイカワイイって、言ってたのよ。私もね、大沼君だけは、もうちょっと、ちゃんといい男に成長すると思ったんだけど」

もう一度恵子さんはため息をつく。それも僕には演技っぽく聞こえるが、それどころではない。

「周りの変な大人の影響かしらね?大人って言っちゃうと、笑っちゃうけど」

自嘲気味に、本当に声を出して恵子さんは笑った。恵子さんの策略に嵌まった僕を、周りのせいに貶めた結論は、今の僕には最も不利な落としどころで、まるでキースがクラプトンが、の話を知っていたかのようだ。モモちゃんも、きっとそのことを思い出しているに違いなく、同じ構図で今、男が持っている欠点の全てを僕が背負い込んでいるように見えているはずだ。

モモちゃんも今、声を出して男ってヤツは、と云いたいのだろう。

「狡いですよ」

僕はせめてもの抵抗をするが、負け犬の遠吠えだ。万策尽きたかに見えたが、もうこの際、モモちゃんのことを諦めて、恵子さんと寝た方が好いのではないか、という邪心も生まれる。恵子さんと寝て、ライブも成功して、ならばモモちゃんとの付き合いを比較すると、なんてことを考えて、僕は自己嫌悪に陥る。

それをこの場で決断できるのなら、僕はもっと大きな男になっていただろう。

僕はその時正直に、もうライブがどうとか、音楽に熱心に、とかそういうことよりも、モモちゃんとの愛情の通い合いの方が、ずっと惜しいと気がついた。さっき恵子さんが言葉を与えて形にした、僕のなかにずっと蟠っていた違和感は、きっとそれに裏打ちされているのだと思った。

それでも、恵子さんと寝る、というのは惜しいまま妄想として残った。

「冗談よ」

見透かしたように恵子さんが言う。

「冗談なんですか」

「当たり前でしょ」

恵子さんなりに、その言葉で丸く収めたのかもしれない。でも、僕が本当に大事にしようと思っていたモモちゃんとの間に、その言葉はいよいよ向き合う狼煙に思えた。

恵子さんはコーヒーを飲み干して、帰り支度を始めながら、僕にこう言った。

「たっちゃんに一応、今日のことは報告しておくわ」

今日の事ってと僕が聞き返すと、恵子さんは意味深に含み笑いをする。

藤木さんが如何に恵子さんのことを愛しているのか、僕はそのことをすっかり忘れていた。

たっちゃんに殴られなさい、と声には出さず口を動かしただけでそう云った後に、いつもテレビで見るような微笑みを浮かべると、それじゃごちそうさま、と言って恵子さんは席を立った。

 

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