それじゃ一つ提案、と恵子さんは言った。その言葉は、随分昔に、一度聞いたことがあるような気がしたけれど、それがいつだったのか直ぐには思い出せない。でも、その言い方は明らかに、僕の思い出の中にある恵子さんの姿だった。

「あなた、私と寝る?だったらライブ、やっても好いわよ」

そう言ってから僕をまっすぐ見つめた後、同じ重みを持ってモモちゃんの方を見た。モモちゃんは、僕が熱く何かを語っている時にはもう、いつもの自分に体裁だけは戻っていた。でもそれは、よけいに欲求不満の行き場をなくしてしまったようで、表情は取り繕っていたが、やっぱり、というような感じで怒りがそのぽっちゃりとした頬のそこここに浮かび始めていた。

「もちろんそれをたっちゃんに納得させたら、という条件付きだけど」

イヤに具体的な提案に思えて、僕は言葉をなくした。冗談でしょ?という言葉を受け付けないような、生々しさを備えていて、少なくとも僕の目には恵子さんがそれを半ば本気にしていると思えた。なぜだかは分からないけれど、恵子さんはそれを嘘にしないような、何かとてつもなく壮大な計画を潜ませている、と思わせる不思議な説得力を持っていた。

それは、さっき恵子さんに懐かしさを感じたように、ずっと僕のなかで恵子さんの正体をつかめずにいる、最大の原因だった。恵子さんはボーカリストとして声を最大限の武器に使っていたけれど、それをアウトプットするのにある種のキャラクターを憑依させて、完璧に演じることが出来る才能を持ち合わせていた。

藤木さんが出してくる様々な舞台の上で、音楽がその背景を描き出し、唄がその中心で物語を紡ぐ。聴いているオーディエンスはその主人公と恵子さんを重ね合わせて、一時の幻想に酔うのだ。

それをステージの上だけでなく、時々は音の全く流れない日常の中で演じてみたりする時があった。その時は必ず恵子さんは、恵子さんというキャラクターを演じる。恵子さんはそうやって、本当の恵子さんを巧妙に隠すのだ。そうやって僕らを試して、黙ってシナリオを書き直す。気がつくと、恵子さんの望んだ結末へのクライマックスが用意されていたりするのだ。

僕のなかで、恵子さんがライブに参加しないのは、もう半ば分かっていることで、それでも奇跡を信じている。恵子さんもきっと同じ事を考えていて、奇跡を演出して見ようかなと目論んでいるに違いない。どう転んでも、結局それを言い訳にする。それは僕も同じだった。

ただ、さすがに今は即答できなかった。

隣にモモちゃんがいる。彼女の前で、恵子さんを抱く、とは云えない。

オマケに、僕は一度、同じ様なことでモモちゃんを怒らせている。

それはちょうど去年の夏辺り、明日菜ちゃんを連れて日曜になるとスタジオに出かけ始めた頃だ。相変わらずモモちゃんとのスケジュールが重なることはなく、そういう意味では胸を張って音を出すことに集中できたのだが、次第に今に繋がる人脈が広がっていた時期だった。

それはモモちゃんにしてみると、知らないうちに知らない人としょっちゅう会っていて、自分の知らない処で知らない話をする、という、何とも納得しがたい状況に見えていた。ただ、その頃はまだ、モモちゃんは寛大で、特に昔のバンド仲間と再会した、という説明をすると、良かったわね、とあまり気持ちの入らない受け答えではあっても、怒るまでには至らなかった。

そういう日々が続くと、さすがにモモちゃんも自分以外に興味が移ってしまうことに不満を抱いて、藤木さんや上島さんについてあれこれとどういう関係かと勘ぐるようになった。そもそも、明日菜ちゃんという女子高校生を連れ回していること自体、あまりいい気はしていなかったのだ。

ある日、どういう流れでその話題に行き着いたのかは忘れたけれど、僕はこんな事を云った。

「例えば、ストーンズのキースとか、クラプトンとかに会える機会があって、当然モモちゃんを連れて行くだろ?それで、おまえの彼女かわいいな、って褒められて、一晩貸せよ、って云われたら、俺は断れないな」

逆に名誉だよ、と付け加えてモモちゃんを見ると、さっきまで朗らかに笑っていた表情が、一転にわかにかき曇り、みるみる怒りのそれに変わっていったのだ。

信じられーん、と半分おどけたように見せて口をとがらせたが、その声は震えていた。

「クラプトンだよ?キース・リチャーズだよ?

と僕は付け加えても、モモちゃんは納得しない。もし俺がいなかったら、モモちゃんだってウンって言うだろ?というと、ふん、と鼻で笑ってからまじまじと僕を睨んだ。

それから僕は、いくらか弁明を重ねたけれど、あまり非道いことを言った気にもなれず、だってカワイイから貸せって言われているので、それは誇って好いことだよ、とか何とか繋げたが、平行線は埋まらなかった。

僕は仕方なく言い訳は諦めたのだが、でも、と付け加えた。

「俺にとって、自分の彼女を差し出しても仕方がないというか、それだけ誇らしいと思える人がいる、ってコトだよ。おそらく、藤木さんとかに同じ事言われたら、やっぱりウンって頷くと思う」

ダメ押しした。サイテーとモモちゃんは言って、それから暫くモモちゃんは不機嫌の雲の中に隠れてしまった。

思えばそれが初めての、僕とモモちゃんの本格的な諍いだったかもしれない、と今になって思う。それから、何度か、僕は僕の言葉でモモちゃんを怒らせている。

それがまた今、モモちゃんの元にやってきて、一度外れた箍は、火が点くと容易く燃え上がって手に負えない。本当に手に負えないところまで立ち上ってきている。僕は白旗を揚げて、退散するしかない危うい線をさらに踏み越えようとしている。

結局、モモちゃんが他の誰かのものになるだけじゃん、と内心思ってみるが、見知らぬ誰かのものになるのは、僕は我慢がならなかった。その辺の馬の骨に横取りされるのは、向かっ腹が立つ。

でも、それが例えば藤木さんや、それこそクラプトンのように、顔や名前やそのギターの音がありありと思い浮かべられる相手なら大丈夫なのが、自分でも不思議だった。

ただ、それが上島さんだったら、それはイヤだな、と今の僕は思った。

 

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