自棄になったように美味しい、美味しいを繰り返すモモちゃんとは対照的に、僕は料理のほとんどを食べた気がしなかった。明らかにモモちゃんはキャラクターが変わっていて、どこか恵子さんに助けを求めているように、彼女を褒めそやして自分を卑下して、共感を得ようとしていた。
普段のモモちゃんは、物静かで今時珍しい、男の一歩後ろを着いて歩くタイプの女性だった。だから、主張もない代わりに不満も表には出さない。おそらくは僕に対してストレスが溜まっても、自分で消化できてしまうはずだった。そうすることが、自分に与えられた役割のように考えている所がある。
だからよけいに、自由気ままに振る舞っているように見える藤木さんのようなタイプは苦手なのだろうし、その中に僕も含まれているのだろう。そして、実は恵子さんはもっともその中心にいてもおかしくないタイプだし、恵子さんはモモちゃんのようなタイプが苦手なはずだ。二人は正反対だと、僕は密かに思っている。
それが今共闘しているように見える今の二人は、凹凸の関係でがっちり組み合っている夫婦関係とは全く別物だ。明らかに、モモちゃんがミスリードしている。
そろそろ、本格的にモモちゃんの不満が爆発する予感がする。自体があらぬ方向へ飛んでいって、気がつくと後戻りできずに自爆する以外ないような、そんな迷路を俯瞰しているようだ。
そんなことを考えていると、二人の会話も料理の味も全く頭に入ってこず、ただ、あたふたと不安感ばかりが煽られているのだ。
加えて、僕はどこかで端緒を見つけて、やはり恵子さんに説得を試みないといけない。言い訳のためとはいっても、それは今日という日の必然なのだ。そしておそらく恵子さんもそれを知っていて、待っていて、敢えて焦らしている、ように見える。
モモちゃん一人がお構いなしだ。出された料理を文字通り平らげて、どんな料理も無理矢理美味しいと感じなければやってられない、と暴走している。もうそれは、壊れかけのアラームのようにのべつ幕なし、ところ構わずオイシーオイシーと鳴り続けている。
ほんのりとした甘さの抹茶のデザートが運ばれてきて、一応のコース料理が終わりを告げると、モモちゃんはその勢いで帰ってしまおう、ぐらいには思っていたはずだ。彼女自身、何か不穏で制御できない自分の心持ちを持て余している。
その頃になると恵子さんも僕の焦りよりも、モモちゃんの異常さに気づいて、多少口数を減らしていた。僕にはそれが綿密に僕の説得をはねのけるための、下準備に思える。本当は、そのままモモちゃんを連れて帰りたいのは、僕の方なのだ。
デザートに遅れてコーヒーが運ばれてきたタイミングで、モモちゃんの美味しいも歯止めが掛かった。その一瞬のタイミングで、恵子さんが口火を切った。僕はまたしても時機を失する。
「で、何か言いたいことある?」
恵子さんは僕の方を向いて、そう事も無げに言ってのけた。そして、僕の返答を待たずに重ねる。
「あなたの彼女を私に紹介するなんて、ただの口実でしょ?」
見透かされている、というのはもうわかっていたことだ。だが、隣のモモちゃんの方が、その言葉に過敏に反応した。きっと彼女だって薄々は勘付いているはずなのに、どちらかというと、我が意を得たり、今まさに糾弾の切っ先、不機嫌の正当な理由、そういったものを見つけた、とでも言いたげに、一瞬表情をこわばらせた後に、僕に視線を向けた。胸を張ってこれから一波乱起こすよ、と宣言するように、その視線は明らかな敵意に満ちていた。
もちろんその表情を恵子さんも見ていて、思惑通り、というように仄かな笑みを浮かべた。
何か言いたげに言葉を探している隙に、僕はモモちゃんにも恵子さんにも先んじて、何とか言葉を切り返した。
「上島さんのことは置いておいて、僕らともう一度音を出すのって、無理ですか?」
僕はもうストレートに言った。わかっているでしょ、と言いたげな、少しばかり呆れたような表情で恵子さんは僕を見た。そして小さく、ため息をついた。
「懲りないわね」
「諦めきれませんよ、僕は」
僕は即答した。もう小賢しい駆け引きは通用しない。恵子さんにはもう、素直に反応する以外、僕にやりようは無いと確信していた。
「もうバンドは動き始めてます。ライブも準備がどんどん進んで行ってて、来週中には出演者も決まるし、一月の終わりには全員で顔合わせもすることになってます」
今日の昼間に会っていたのも、出演予定のバンドのひとつで、彼らには具体的なスケジュールを伝えることが出来ていた。日程とやるべきことがもう、目白しに迫っているのだ。本番の期日とホールは随分前に決定していたから、恵子さんには一度目に伝えておいた。
あとは直前に通しのリハーサルのような、一度みんなの前で音を出す機会を作る、というのが藤木さんの構想だった。その話だけは、僕も今日初めて聞いた。
明日菜ちゃんの高校からも何組かバンドを参加させよう、ということで、文化祭の時のバンドを再結成させて、それ以外にもいくつか声を掛けていた。ただ、最近丸亀周辺でリハーサルを出来るスタジオが少なくなっていて、そのことが悩みの種だった。
それを聞いた今回の音響担当者が、土器川沿いにある機材倉庫をリハーサルルームに提供することを申し出てくれたのだ。元々テレビの舞台装置などもまかなう為、彼らの機材倉庫はかなり大きなものを備えていて、深夜でも作業できるように、一応の防音を施していた。周りに民家がないのも幸いして、多少バンドで音を出しても大丈夫だという。そのためのスペースを作る必要はあったが、高校生に無償の練習場所が確保できるのはありがたかった。
もちろん、それを藤木さんが利用しないわけはなく、もう既に藤木さんのマーシャルはメンテナンスを兼ねてその倉庫に置かれてあるし、フュージティブのドラムセットも近々お目見えする段取りになっている。高校生に使わせるのはもったいない、とそこで僕たちの音出しもする予定だし、ゲネプロと呼ばれる、本番のステージを想定したリハーサルもそこでやってしまおうという計画だった。
そんな風に、もうライブ自体の姿形は組み上がりつつあった。枠組みがどんどん固まっていき、そこで音を出せば一気にスパートするようにお膳立ては出来つつあったのだ。
ただ、唯一、フュージティブのボーカルだけがもっとも不確定な要素として宙に浮いていた。藤木さん自身は、既に恵子さんが参加しないことを前提に、他のボーカルも想定している。その中に一号も含まれているのだが、まだそれをみんなの前では口にしようとはしない。あくまでも建前は、フュージティブのボーカルは恵子さん以外には考えられないのだ。
「ねぇ、私がこんな風に言うのはおかしいかもしれないけど、いい加減大人になったら?」
恵子さんは呆れたようにそう言った。
「それはどういうことです?バンドが恵子さんに拘っていることですか?それともライブに浮かれているって事ですか?」
どちらもよ、と云って、恵子さんは視線を反らして一口、コーヒーに口を付けた。恵子さんは砂糖もミルクも入れていない。
「でも、もし上島さんのことがなかったら、恵子さんだって一緒になって騒いでいたでしょ?」
「否定はしないけど、でもね、一歩引いてみると、たっちゃんもあなたも滑稽よ。まぁ、最近そういう子供じみたことに熱中するのって流行りだから、わかる気もするけどね」
滑稽だといった表現は、恵子さんに言われて初めて、僕の中にあった蟠りを的確に表現して納得させた。その蟠りとは、気がついていたら走り出していたライブへの、僕なりの違和感だった。
実際、卒業ライブを言い出したのは僕以外の誰かで、それが必然だったとしてもフュージティブの再結成も僕自身、望んで参加しているわけでもない。そういうロジックが働くことは理解できても、藤木さん程熱望しているのではないのだ。
今は恵子さんの一件や、藤木さん達に振り回されることで見えなくなっているけれど、この僕自身が、今となってはそれほどバンドやステージに魅力を感じているわけではないのだ。
フュージティブを現役でやっていた頃から今に至るまで、僕は何らかの形で音楽に携わってきた。バンドという明確な形ではなくとも、路上で歌ったり、一号とそのための曲を作ったり、少なくともギターを手放したことはない。
それがいつだったのかは定かではないけれど、音楽を演奏することが唯一絶対のものではなくなり、その熱が急速に萎んでいるのを自覚していた。それを知って驚きも、哀しみもない。
今ならば、この地上から音楽が消えても、きっと残念だとは思っても、抗おうとは思わない。きっとその事実を受け入れるに違いないのだ。
諦めきれない何かを抱えているわけではなく、きっともうそうは変わらない未来に何も望まなくなっていて、それを覆すかもしれないという、音楽に抱いていた夢や奇跡を、僕はいつの間にか捨てていたのだ。普通という名の正気に戻ったのか、覚めない悪夢に取り憑かれたのかは分からないけれど、僕はもう普通でいたいのだ。
そこにささやかに音楽がある。僕にとっては、ただそれだけだ。
藤木さんや上島さん達が固執するのはわかる。それを否定する理由もない。だからそれに僕は付き合っているだけだ。少なくとも、僕はそのつもりでいる。明日菜ちゃんと僕の間柄が、導き出した結果としても、僕はもっと別の形を望んでいたのだという気がする。
そんな中で、僕が今回のライブに積極的な何かの必然を導き出すとすれば、それはただひとつしかなかった。
恵子さん、と僕は言って、一呼吸於いた。恵子さんがさっき形にした僕の違和感を、僕は僕自身の言葉でもう一度、覆してみる。
「僕らちゃんと解散してないじゃないですか。みんなの卒業で、なし崩し的に一緒にやらなくなって、そのまま終わっちゃったでしょ?後になって、フュージティブは解散してない、いつかまた一緒にやる、とか藤木さんとかが言っているウチに、小宮さんがあんな事になっちゃって、フェードアウトみたいになっちゃって」
小宮さんというのは、鬼籍に入ってしまったフュージティブのベーシストだ。大学を卒業して暫くして、祖父と一緒に漁船に乗って漁に出ていて、燧灘の真ん中で脳溢血で倒れた。そのまま三日三晩意識が戻らず、そのまま帰らぬ人になってしまったのだ。
それ以来、ベーシストのいなくなったフュージティブを再びもう一度、という話は出なくなった。メンバー誰しもの中で、フュージティブはノスタルジーの奥に追いやられた存在になってしまったのだ。
それで終わるはずだった。でも、何か消化不良でくすぶっていた思いが、どこかに残っていて、それが今回、誰かが導火線に火を点けてしまったのだ。
そう考えると、火を点けたのはやはり、僕なのかもしれないという気もする。明日菜ちゃんという火はあまりにも魅力的で、何かを諦めたことを自覚している僕らには眩しすぎた。明日菜ちゃんという未来に最も遠い存在が、無防備に思い描く熱は、確実に僕らの中の燻りを、そのままにしておかなかったのだ。
明日菜ちゃんと藤木さん達に逢わせたのは、他でもない僕なのだ。僕は望んで、僕のなかの尊ぶべきエキスパートを、明日菜ちゃんの為に引き合わせた。その思いは、気がつくとまったく逆のベクトルで走り始めてしまったのだ。
「小宮さんだけでなく、恵子さんと上島さんがこんな風になっちゃって、それはやっぱり仕方がないことだと思うし、もうどうしたってオリジナルメンバーでやるのは無理なんだし。でも、だからこそ、今回、俺がベースに変わってもやる意味っていうのは、幕引きだと思うんです」
これで解散って事?と恵子さんは聞き返した。
「そうです。これからもフュージティブって名前で演奏はするでしょう。藤木さんがこれで満足するとは思えないですよ、恵子さんならわかるでしょ?でも、やっぱりベースは俺だし、もう恵子さんだって歌わないし、明日菜ちゃんだって今回限りかもしれないし。それでも、男四人でやっていくことは出来るけど、でもやっぱりそれは、オレたちの中に記憶として残っているフュージティブじゃないですよ。名前は同じの全く別のバンドです。
昔みたいに音楽で誰にも負けないように、なんて誰も思わないだろうし、相変わらずあの頃は良かったよな、って言いたいから音を出すみたいな、そういうおっさん臭いバンドにしかならないだろうし。俺自身、小宮さんみたいにベースは弾けませんから、藤木さんが満足するわけもないし。どうしたって、昔みんなが嫌っていたお友達バンドに成り下がるんですよ。余興で音楽をやってます、みたいな、くだらないバンドにオレたちもなるんです。
でもそれで好いと思うんです。俺はそれもで充分楽しめるし、藤木さんだってその辺、わかってますよ。みんなが大学時代の熱にうなされたようなバンドなんて、もう無理なんです。どんなにひっくり返っても無理なんです。
だから、次へ進むために、一度昔を精算しておきたいんです。小宮さんがいなくなったことを含めて、昔のフュージティブをこれで終わり、っていう区切りをしておきたいんです」
僕がそこまで一気に言い終えると、恵子さんは初めて神妙な表情で、でもそれは、と云ってそのまま黙った。そして一度外した視線を戻した。
「それはあなたの、希望でしょ?」
僕は頷いた。
「藤木さんや上島さんがどう考えているかわかりません。だから、もし恵子さんも同じように、昔のフュージティブを終わらせる気ならば、今回が最後って事で、逆に僕が藤木さん達を説得しますよ」
そっちの方がずっと説得しやすいだろうと、僕にはなぜか思えた。
暫く僕と恵子さんは、見つめ合っていた。僕はいつになく熱くなっていることに気がついて、汗が滲んだ手のひらをそっと拭った。
僕はバンドのために熱くなっているのか、それとも恵子さんのためなのか?あるいは誰かのためなのか?
ふふふ、と恵子さんは何かを思い出したように笑い出した。僕は思わず口をとがらせた。
「笑わないでくださいよ。僕は真剣です」
わかっているわ、と云いながら、恵子さんはホッと一息ついて、またコーヒーを口に運んだ。
「あなたも、そういうペテン師みたいな台詞を吐くようになったのね」
誰に影響されたんだか、と恵子さんは言うと、自分の言葉がおかしくて堪らない、と云った表情で俯いてクククッ、声を出してと笑った。それを見て、僕も必要以上に力の入った肩を、一息ついてなで下ろした。
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