モモちゃんがシートの上で身を捩って本格的に僕に背を向けた頃、目の前にぼんやりと続く暖色の明かりが見えた。そこだけ風景が切り取られたように、闇の中に半円の口が開く。五色台を貫くトンネルに滑り込む。

隙間を空けた窓から急に野太い轟音が舞い込んできて、車内はいきなり空気の密度が増す。埃っぽい音が充満して、それが暫く続く。向こうの方からトラックのヘッドライトが見え、ルームミラーにも後続のライトが閃く。それを柿色のライトと蛍光灯の白色が入り交じった色で包み込む。

僕は舞い込んできた騒音に負けないようにちょっとだけカーステレオのボリュームを上げた。

すると、いきなり、素っ頓狂なアニメのキャラクターの台詞が聞こえた。妖怪ウォッチとかいうアニメの男の子の声だった気がする。

それから全く場違いな陽気な音楽が流れた。黙って僕らはそれを聴き続けた。

最近、僕のクルマは妹が運転ばかりしている。お腹の大きい一号の嫁さんを病院に連れて行くのにこのクルマを使っているのだ。

妹は、離婚の騒動の中で、まるで詐欺のようなやり方で一人娘を夫側に盗られてしまった。それ以来逢うことも叶わず、やがて何かが事切れた妹は、娘の痕跡が残るモノを全部庭で焼いてしまい、チャイルドシートの備え付けられたクルマも、その日のうちに売り払ってしまった。代わりに、一番安かった軽トラックを買って、それを愛車に据えた。

それから時間を掛けて、妹は軽トラックの似合う女に変遷していった。口調がぞんざいになり、庭仕事で土にまみれ、男勝りの働きぶりで、パートの食品工場の管理主任にまで上り詰めた。外国人労働者を怒鳴りつけ、テキパキと段取りを付けて仕事を回す妹は、僕が知っていた妹とはかけ離れていった。

思春期を過ぎる頃から妹は普通の女性に成長していき、極々当たり前に社会に溶け込んでいった。幼い頃は確かに、母親に似て勝ち気な所が残っていたが、そういうのは瞬く間に消えてしまって落ち着いた大人の女になっていったのだ。

それが僕の知る妹の姿だった。少なくとも、離婚のバタバタで同じ屋根の下で、その娘と僕と居候の一号と暮らしていた頃の妹は、当たり障りのない普通の女性であり母だった。

今となってはどちらが妹の本性なのかは、判らない。でも、妹であることは変わりは無い。

面倒見のいい妹は、一号の嫁さん、ユキちゃんが体調を崩したのを訊いて、直ぐに手を差し伸べた。どうせだから一緒に住めば、と持ちかけたのも妹だった。

宇多津にあったアパートを引き払って、一号とユキちゃんが家に越してきた時から、僕の愛車は妹に盗られてしまった。妊婦を軽トラで運ぶわけにはいかんだろ?と妹に言われて、僕は渋々軽トラと交換したのだ。

それから唯一僕が自分の愛車を運転出来るのはモモちゃんとデートする時だけになった。それ以外は妹がメインのドライバーで、助手席に乗るユキちゃんと二人で好き放題に使っているのだ。

二人は気が合うのか、いつも楽しそうにしている。予定日が春先のユキちゃんは、すっかり大きなお腹を抱えるようになり、それを見守るように妹がかいがいしく世話をしている。急に賑やかになった家の中心に二人は存在していた。

去年の冬が始まりかけたある日、僕が家の南側にある、両親の仏壇がある四畳半の和室の横を通りがかった時のことだ。そこは家の中で一番日当たりが良く、餌をもらいに来る野良猫が良く縁側でひなたぼっこをしている。妹以外に懐かないその「ブチクロ」と呼んでいる野良猫は、不思議とユキちゃんには懐いて、餌を欲しがって彼女の足下をうろついたりしていた。

その部屋のふすまが開いていて、僕は何気なく中を覗き込んだ。案の定ブチクロが窓の外で寝ているのが見えた。サッシのガラス窓の外に縁台が置かれてあって、その上で窓に寄り添って寝ているシルエットが見えたのだ。

その手前で、ジャージ姿の妹と、だらりと長い妊婦服のユキちゃんも、床に寝転がってスヤスヤと眠っていた。そこは畳の部屋だが、毛足の長い絨毯が敷いてあって、それを浮かび上がらせるように遮るもののない陽光が部屋の奥まで届いていた。それに加えて、ファンヒーターが点けっぱなしで、部屋の中は充分以上に暖かかった。

陽の光を一身に受けて二人は、寝息を立てて眠っていた。僕の存在にも気づかない。二人は頭を窓の方へ向けて、その傍らにはそれぞれ、ファッション雑誌と通販雑誌が中途で開いて逆さまになっておかれていた。

並んでい寝ている妹とユキちゃんは、まるで姉妹のようだった。

二人の歳は十歳といくつか離れているが、ジャージ姿の妹はいくらか若々しく見えたし、妊婦服のユキちゃんは年齢より落ち着いて見えた。二人の姿を照らす冬の陽の光は、何処にも違和感がなく、微笑ましく静かに寛いでいた。

照らされる二人も、何の邪心もなくその場所に溶け込んでいた。同居人以上の親密さは、ずっと長く住んでいる自分と妹の血のつながりよりもっと濃いものを漂わせていて、僕はいくらか嫉妬さえ覚えたのだった。

それでも微笑ましいその光景に和んだ僕は、そのまま物音を立てずにそこを離れようとした。その時、ユキちゃんが寝返りを打とうとモゾモゾと身体を動かした。

だが、もうすっかりお腹が大きくなっていて、仰向けのまま横にはなれない。いくらかバタついた後に、膝を立てると、がばっと足を開いた。

おそらくはそれがその時、最も楽な姿勢だったのだろう。

だが、その足下には、僕が立っていた。

僕の目には、ユキちゃんの毛糸のパンツがしっかり見えていた。ストッキング、というよりタイツを穿いた足がそこから伸びている。ただの同居人にそこまで無防備な姿を見せて好いのか?

そう思いながらも暫く、というほど長い時間ではなかったが、僕はその場に立ち尽くした。そして、彼女のスカートの中を見たという感動よりも、その無防備さにいくらか唖然としながら、二人を起こさないようにその場を離れた。

それほど、もうユキちゃんは大沼家の住人になっていた。かつて居候していた一号よりもずっと、彼女はウチに馴染んでいた。

ただ、モモちゃんはそういう存在が出来たことに、あまりいい気はしてないらしく、前はよく家に顔を出していたのが、ここの所来ることがなくなった。

カーステレオからアニメソングが流れてきたのは、きっとその二人のせいで、きっとそのことにモモちゃんも気づいたはずだ。いつも、胎教に良いからとかで、アンパンマンとか、ベートーヴェンとか、いろんなCDをクルマの中に持ち込んでいる。ほとんどは気の早い一号が見つけてきたもので、バラエティに富んでいた。モモちゃんとデートの時は、僕がもうちょっと気の利いたモノに入れ替えるのだけど、今日は一日のバタバタですっかり忘れていたのだ。

そのことが、モモちゃんを機嫌を逆撫でしたかもしれない、と僕は肩をすくめた。

そういえば、藤木さんは、妊婦のいる僕の家にしょっちゅう顔を出しているけれど、恵子さんはまだ来たことがない。僕は最初に逢った喫茶店でついでに、今の自分の家の状況を話した。賑やかそうね、と恵子さんは笑ったが、一度行ってみたい、とは言わなかった。モモちゃんに会いたい、とは言ったが、僕の家に来たいとは言わなかった。

フュージティブの再結成を本格的に始動させた時から、どうも藤木さんと恵子さんの仲は上手くいってないらしかった。恵子さんは一言もそんなことは言わなかったけれど、藤木さんは時々、愚痴のようにこぼした。恵子がまた口をきいてくれないよ、と自嘲的に笑う。

家の状況は、想像でしかないけれど、険悪な雰囲気に包まれているのだろう。半分逃げるように、藤木さんは僕をアテにする。そして言い訳のように上島さんを巻き込んでいる。もっとも上島さんこそが、今回の再結成の負の部分を大きく担っているのだけど。

その割に、二人が一緒になると全く深刻そうな素振りを見せない。カラ元気とも違う、何かもっととてつもないパワーで見ないようにしているような、そんな感じなのだ。

恵子さんが、例えばユキちゃんに会いたいとか、そういう理由で僕の家に来るようなことをほのめかしてくれたら、藤木さんにも手伝ってもらって招待し、そこで無理矢理上島さんと顔を逢わせる、という無謀なことも考えてみたりした。でも、それはどう捻っても無理な計画で、僕は早々とその案を捨てた。

恵子さんには正攻法でいくしかない、と一度ぶつかって砕けたにもかかわらず、僕は気を取り直してもう一度会うように藤木さんに頼んだのだ。面倒くさいことは一度で済ませたい僕でも、何度か逢わないと説得しきれないだろう事は、予想していた。

でも、一度目でもうほぼ、僕は諦めてしまっていた。それを圧して二度目をセッティングするのは、僕にとっては言い訳以外の何物でも無かった。何度も逢って説得したけれど、と他の連中を説得するための、実績作りに過ぎなかった。そのついでに、奇跡が起こればいいとは思っていたが、そんなことは万に一つも望めはしなかった。

それでも、と僕はモモちゃんをダシに使って、恵子さんと逢ったのだった。

 

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