「寝てて好いよ」

僕は苦し紛れにそうモモちゃんに声を掛けた。それはもう半分、敗北宣言というか、これ以上接触を持たず距離を置きましょう、という意味を含んでいる。普段も僕は時々、この台詞を口にするけれど、それはたいていモモちゃんの機嫌というよりは、体調をおもんばかってのことだった。

でも、返事はない。その代わり、ぶすっ、という声が聞こえそうなほどの険悪な空気が僕の頬を撫でた。慌てて僕は前を見る。

なだらかに上っていた道が、左右にクネリだし、いよいよ街灯もない山道に入って行く。元々有料道路だったこの道は、それなりに整備されていて左右へくねるカーブもそう大きなモノではないのだけど、左右の道幅を誇示する反射灯がやけに自己主張して、非道く道を狭く感じさせていた。

僕は細かくヘッドライトのアップダウンを調節して、漆黒の道路を切り裂こうと努力した。対向車は時々通り過ぎたけれど、路上はほとんど僕たちのクルマだけだった。

走り去っていった対向車のライトは、フロントガラスの細かい雨粒を浮かび上がらせた。そろそろ本格的に降ってきそうな気配だった。窓を少し下げると、タイヤの風切り音と一緒に、湿った冷気が忍び込んできた。外は随分と気温が下がっているのを感じる。

どうしたらモモちゃんの凍り付いた機嫌が直るだろう、と思い悩みながらも、僕は何度も恵子さんとの会話を反芻していた。今日は、最初に逢った時に僕がやらかしたいくつかの失敗よりも、もっと大きな力で恵子さんは拒否の姿勢を示していた。

最初の日も僕自身、禁句はいくつか数えていたけれど、これという戦略があったわけではない。とにかく、恵子さんの不機嫌の理由をちゃんと理解したかった、ということが優先した。

確かに上島さんは罪を犯した。でも、それで絶交するほどの希薄な関係だったのだろうか。僕が感じる疑問は、詰まる所それに尽きた。上島さんを許せない心境は、そういうものだと頭では理解出来るけれど、どうも上手く自分では消化出来なかった。

それに、上島さんは罰を受け、罪を償い、それを果たして帰ってきたのだ。帰ってきて、もう数年が経っている。

結局それを僕は直接尋ねるしかなく、最初の失敗に打ちのめされた僕は、正直に判らないことを判らないと告白して、恵子さんの本心を尋ねた。

鼻先で軽くあしらっていたような、そんな態度で僕を見ていた恵子さんが、姿勢を正して真剣な表情になったのはその時だ。恵子さんは少し俯き、何かを整理するように暫く押し黙った後、まっすぐ僕を見つめた。なぜか僕は、その視線で恵子さんが掛け値なく素直に僕に相対している、と分かる。上手くあしらう雰囲気が消え、なぜか僕はそういう態度を見せられることに、感動していた。

でも、その視線に僕は、気圧される。真剣な分、僕の憧れをどこかくすぐるその視線に惑わされそうになる。

そして、恵子さんは小さいけれど、はっきりした口調でこう言った。

「私にも判らないのよ」

僕は多少拍子抜けして、え?と聞き返した。ごめんなさいね、と恵子さんは言葉を継いだが、申し訳なさそうにもう一度、本当に判らないの、と言った。

僕は同じ問いを返すことしか出来ず、暫く逡巡したが、それってどういうことなんですか、とやはり聞き直した。

例えば、と云って恵子さんは視線を外すと、やや首をかしげて窓の外を見やった。

「例えば、他の犯罪ね、詐欺とか、窃盗とか、殺人とかは出来るほどの度胸はあの人にはないだろうけれど、でももしかして殺人だったとしても、私はこんなに、彼のことを嫌わないと思うわ。ただね、彼が傷つけたのは女性でしょ?それも何年も付き合った恋人だったっていうじゃない?それがね、私の中で常に引っかかっているのよ」

そこまで言い切って、恵子さんはふっとため息をついた。本当に疲れたような、重いため息だった。恵子さん自身が、本当は上島さんのことにひどく思い悩んで煩わされていたことを、僕はその時悟った。

「許す理由はいくらでも見つかるのよ。でもね、出来ないの。それは、おそらく」

もう一度押し黙る。長い沈黙が続く。

「どうしてもダメなの。それはきっと、理屈じゃなくて、生理的にダメなの。身体がいうことをきかないのよ」

その答えを聞いて、僕はどんなに説得しても無駄だな、と思った。諦めるしかない、という答えが自分の中で一番の説得力を持って、すっぽりと収まってしまった。それを判断したのもまた、恵子さんと同じ、僕のなかの論理的でない部分かもしれない。それは説得を拒む方便ではなく、もっとも破綻のない、無理のない答えだった気がその時したのだ。

今度は僕が押し黙る番だった。何も言い返せず、それ以上の会話も続けようがなかった。

ただ、ふと、藤木さんはきっとそんな恵子さんをちゃんと判っていたんだろうな、と思った。知っていて難題を僕に丸投げしたのだ。藤木さんは最も早く、恵子さんを諦めていたに違いない。

そのことに思い至って少しばかり腹が立ったけれど、直ぐにそれは醒めてしまった。それでも、フュージティブを再結成したいと思っている。それまでして、上島さんと一緒に音を出したと願っている。その気持ちも、何となく判るような気がしたのだ。

フュージティブは元々、上島さんと藤木さんが始めたバンドだった。二人の出逢いが全てのスタートだった。二人の関係は、お互いがお互いを補い合うような、傍目で見ていても良いコンビだった。それ以上に心情の部分でどんな風に繋がっているのかは、ぼくらがどんなに慮っても推測しきれないだろう。

それでも、もう大学生の頃から数えると、一回りも二回りも歳を重ねていても、二人が顔を合わせると、本当に楽しそうに笑うのだ。どんな状況でも二人は冗談を言い合い、どんなに罵り合っていても離れることはない。

二人共が、腐れ縁、という言葉を当てはめるけれど、それはぼくらには近寄りがたい強さを持って輝いている。眩しくて、その眩しさに、ぼくらは惹かれてしまうのだ。

ぼくらは音楽で繋がっていて、楽器を介して音で会話をする。時にはちゃんと言葉に変換して議論したり、怒鳴り合ったりするけれど、結局は音という見えないモノで通じ合う。その中心には常に好きという感情が流れている。愉しむことを得るために、僕らは好きという鍵が必要なことを知っているのだ。

それは教えられたことでもなく、自然と身につけたモノで、だから上手く言葉にはできない。でも、そういうものがあることをちゃんと知っている。だから、ぼくらは音を遊ぶことが出来るのだ。

恵子さんがどうしても上島さんを許せいないことと、フュージティブが再結成をすることは、きっと同じロジックで成り立っているのだ。二つとも同じ身体に備わったシステム上で動いている。そんな気がする。

結局、僕は大きなパラドックスを抱えることになる。裏を返せば、恵子さんを説得し得ないことは、フュージティブの再結成が証明してしまうのだ。

でも何となく、それで好いような気がしてしまった。恵子さんの声は惜しいけれど、それも含めてフュージティブ、ということになるのだろう。後はどう抜けた穴を埋めるか、現実的なパズルが待っているだけだ。

それから僕は、急に肩の力が抜けて、恵子さんに向かって素直な笑顔を向けることが出来た。そうなって初めて、恵子さんは僕に、久しぶりね、と云ってケタケタと本当におかしそうに笑った。恵子さんは藤木さんから聞いた僕の話を持ち出して、最近はどうなの、と根掘り葉掘り聞いた。モモちゃんの話もその時に出た。リラックスを取り戻した恵子さんは、一度逢わせなさいよ、とまで言ったのだった。

それ以降、上島さんの話題が出ることはなかった。

 

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