信号が青に変わって、僕はシフトを押し込むついでにちらりとモモちゃんの顔を見る。プクリとした頬が、コンビニの明かりに照らされて浮き上がって見える。長い髪をアップにしてまとめている、その項には後れ毛が乱れていて、それを直すつもりもないようで、見つめる視線は山の方へ向いたまま。

その項を見ながら、今日はあの肌にもう触れることは出来ないんだな、とそんなことを考えた。

ゆっくりとクルマをスタートさせると、もう本当に明かりの乏しい漆黒の洞窟に迷い込んだような道に、ヘッドライトだけが先を照らしている。二車線を区切る白線と、左右の防音壁だけがうっすらと浮かんでいる。曇り空に、月も星も全く見えなかった。

打開策は今のところ無く、僕はもう言葉も尽きてしまった気がする。言えば云うだけ、深みにはまるのがこういうときの常だ。あとは、このままただひたすらモモちゃんの機嫌が直るのを待つ以外になく、それがいつになるのか全く判らない。

僕だけに限ったことではないのかもしれないが、こういう時間はもっとも苦手だ。まだ怒鳴り合ったりつかみ合ったりしている最中の方が、何かが動いているだけマシに思える。それがこの夜に用意されているとはとても思えなかった。

熱よりもまったく逆の、凍えるような吹雪が一足早く、クルマの中を吹き荒れている。

幼い頃、僕はよく妹と喧嘩をした。我が儘なのは僕の方だったが、負けず嫌いなのは妹の方で、納得がいかないとつかみかかってくるのは妹の方だった。小学校に上がる前は、とっくみあいをして家の中を転がり回って、よくお袋に怒られた。なぜか兄の僕の方が、女の子を殴ってはいけないと叱られたが、突っかかってきたのは妹の方だと弁解しても聞き入れられなかった。

そういう体験がトラウマにでもなっているのか、今のようなモモちゃんの態度の前で、僕はある程度の時間、懐柔を重ねるのだけど、ふとした瞬間から急に、すっと醒めてしまう。何か見えない透明な壁にぶつかったように、急に立ち止まってしまうのだ。

そして、千々に乱れた状況をフィックスしたまま、僕は日常へ戻っていく。何日でも、僕は待つのでもなく、また切り捨てるのでもなく、そのままひたすら怒りの矛先とは関係の無い日常を淡々と過ごすのだ。

そうすると、上手くいって自然消滅、だいたいは相手が音を上げて、最後通牒を突きつけて結果的には離れていく。何度か、相手が折れた場合もあったけれど、そう何度も続きはしなかった。

よしんば上手くいっても、一度こじれた状況は、和解したようでずっと燻り続けて、後に禍根を残すものだ。喧嘩ならちゃんと決まったケリを付けておけば、そうでもないのかもしれないけれど、僕にその意欲がなくなる。日常の延長で、また元の鞘には収まることは出来るのだけど、自分から現状を打破するようなことはない。

いうなれば、相手の胸に見えた砂漠の華を、僕はずっとただ見ているだけで過ごすのだ。

そんな風に事切れる瞬間は、自分でもちゃんと自覚があって、今はその時が訪れそうな予感をじわじわと感じている。モモちゃんとの間に、なんとなく僕は砂漠の華をフィックスしてしまいそうな未来を、ぼんやりと思い描いていた。ゴールに辿り着きたくないはずなのに、そこに飛び込みたい衝動があるかのように錯覚している、不思議な気分だ。

少なくとも頭の一部は冷静さに覆われ始めていて、僕は暗がりの上り坂を、ぴったり制限速度で淡々と登り続けていた。モモちゃんのことが目に入って、我に返ったように打開策を模索はしようとするが、行く手に延びる闇の風景が底なし沼に誘っているような気がする。

まさしく、この闇の中に溶け込んでいって、モモちゃんの不機嫌さから消えてしまおうとするかのようにだ。

ただ、まだ胸のざわつきが収まらないのは、モモちゃんに理由があるのではない。少なくとも、モモちゃんの不機嫌の原因は、僕の方にあってその自責の念も多少ある。それよりはもっと、本当はモモちゃんどころではない、というのが現在の日常だったのだ。

モモちゃんの不機嫌も、その慌ただしい日常が招いた、と他人のせいに出来なくもない。今日だけでなく、僕はいろんな事を押しつけられている、という不満があって、それはあながち間違いでは無いはずだ。

藤木さんの突然の呼び出しなんて、このところの当たり前の行事で、向こうは昼間だって土日だって関係なく、僕からすれば彼らは遊び回っているようにしか見えない。その中から湧いて出た思いつきに僕が必要になるか、あるいは実現したいが自分が動くのは面倒くさいと感じると、強引に僕を呼び出すのだ。多少の常識で、平日の日中には僕の仕事の予定を斟酌してくれるけれど、顔を合わせるのが夜に延びるだけで、しかもその夜はすんなりと更けてはくれない。

音楽以外の雑事は、だいたい僕の仕事で、そのくせあれこれと指示を出し、難癖を付ける。昔から年下の僕は、そういう立場ではあったけれど、こんなに非道かったっけ?と思わないでもない。

三月の卒業ライブまでの辛抱ならば、それまでモモちゃんとの間に冷却期間をおいた方がいいのかもしれない、と時々思う。今日がその好いきっかけになったような気がしないでもないのは、考えてみれば随分と寂しい。でも、モモちゃんの存在が、そんな毎日の拠り所になっているのも、また事実なのだ。

ライブをやりたくないわけではないし、明日菜ちゃんとの演奏は楽しみにしている。これが最後というわけではないだろうが、プロになりたいという下心を胸に東京へ行く彼女の未来に、僕がどれほども関われるわけではないだろう。中学生の明日菜ちゃんに、ピックの持ち方を教えてからの師弟関係は、きっと今度のライブで終わりになるのだ。

それだけ心に残るライブをしたいと思う。でも、そのためにこなさなければいけないことが、気がつくと目の前にうずたかく積み上げられていて、その向こうで藤木さんや上島さんが笑っているのが見えるのにうんざりする。

その積み上げられた難題の頂点にいる恵子さんとは、今日また揺るぎもなく、解けないパズルが目の前にあることを確認しあって終わった。

恵子さんがすんなりとバンドに関われなくなったのは、元を正せば上島さんのせいなのだけど、あの人のせいであるにもかかわらず、藤木さんと一緒になって笑っている。一方の揺るぎのない恵子さんという壁は多少の嘲笑を残して僕を追い払った。僕は唖然とし、不機嫌なままのモモちゃんという新たな問題まで押しつけられてしまったのだ。

 

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