ふと、オレは明日の朝のことを考えた。

このままきっと、オレは彼女を抱くのだろう。抱いて、眠り、そして朝を迎える。出来れば明日の朝は、このまま晴れずにいて欲しい、とオレは思った。

いつだったか、ある春の日、女の子と一晩夜をラブホテルで明かした。日曜日の夜に、勢いでベッドを共にして、そのまま泊まってしまった。窓の開かないホテルの朝は、昨日の延長で淫靡さの残骸がそこかしこに転がっていた。

オレは会社を適当な理由をつけてズル休みして、夢の続きをオーダーした。相手の女の子はオレの営業先の経理の女の子だったけれど、彼女も同様にズル休みをした。そしてオレたちは穴蔵のようなセックスの園を抜け出して、朝食を取りにファミレスに入った。

午前中の中途半端な時間に、人影はまばらで、ただその輪郭が曖昧になるほど、陽光が店内に降り注いでいて、オレはその眩しさをよく覚えている。

オレには目の前の女の子の中に挿入した感触が、今でも残っていて、反芻しようとすればすぐにでも身体が反応してしまいそうなほどリアルに感じているのに、余りにも無垢な陽の光がそのことに罪悪感を強いている気がしていた。

きっとそれは、ズル休みの代償なのだろうけれど、愛で繋がった二人の濃密な時間をただ、ひたすらに慈しみたいと願うことに、こんなに疎外感や孤立感を強いられるのは、とても不自然な気がした。そして、そのことをオレは、自分で自覚して、自ら罪の意識にまみれているのだ。

オレはせめて、雨が降るとか、あのホテルの部屋の延長のように、影の中にいればもっと楽なのに、と思わざるをえなかった。そして、どうしたってオレは、この眩しい陽の光にはいつまでも慣れないんだろうな、とそれだけ確信したのだった。

その記憶が蘇るほどに、未来は鮮明ではないはずなのに、オレはきっと彼女を抱けば罪の意識にまみれ、そして陽光を望まないはずだ。

そしてきっと、その願いは叶うはずだ。雪は止んだけれど、雲は相変わらず低くたれ込めたままで、いっこうに晴れそうになかった。

相変わらず、湯から上がると、寒風は冬の様相のままで、すぐに肩の辺りから凍え始める。まだ湯船は、明日菜ちゃんが発てた波が盛大に揺れていた。オレはそこに新しい波紋を発てないように気をつけながら、ゆっくりと身体の半分を湯に浸した。

前に身を屈めながら、オレは緩いスピードを保ったまま、斜めの波を切り裂いて、露天風呂を横切った。明日菜ちゃんの拡げた波紋が、二つに割れながら新たな波にのまれてゆく。

そうやって、こちらを向いた彼女の元へと近づく。

少し距離を置いて止まると、暫く見せなかった、屈託のない笑顔で彼女はオレを迎えた。

今晩、とオレは言いかけて、口をつぐんだ。だが、その代わりになる言葉が見つからない。

「ここの夕食はけっこう量があるんだよ」

やっと見つけたのはそんなあさってを向いた言葉だった。

「よく知っているんだ」

「毎年来ているから」そうなんだ、と彼女は驚いた顔を見せた。言ってなかったっけ?と問い直すと、わかんない、と彼女は真面目な顔をしていった。その表情には、どこか緊張が宿っていた。それは、縮まった距離が彼女にそうさせたのだと思った。物理的な距離ではなく、差し迫った何かをいきなり感じさせる見えない距離からくる戸惑いの現れだった。

「オレは夜の仕事が少し続いたから、普通に太陽の当たる場所、というのを忘れてしまうことがあるんだ。当たり前、みたいなものを忘れるというか。明るい場所の記憶が曖昧になって、視野が狭くなっている感じだな」

もう一度、オレはあの春の日のファミレスの陽光を思い出す。そこからまんまと逃げおおせると、今度は逆に恋しくなるという、どうしようもない性が顔を出すのだ。

「だから、毎年ここに来て、リセットするんだ。何処でも好いんだけど、ここに来て、リセットすることに決めて、それを忠実に守ることで果たすんだ」

そうは言っても、今年でまだ四度目の訪問に過ぎなかった。

「アタシも同じかも。視野の狭さを打破するために、着いてきたから」

でも、彼女は可能性を見いだすためで、オレの場合は、可能性も含めて、一度全てを壊すためだ。彼女には希望があり、オレには不毛が残る。

もう女性に希望を見いだすような歳でもないけれど、でももし彼女の抱く希望に、オレが関わることが出来るとしたら、可能性ってなんだ?

オレはその糸を解きほぐそうとする。

「例えば」

例えば、と彼女は反復する。

「これを機会に彼氏と別れて、オレと付き合う、という未来は、明日菜ちゃんの中にあるのかな?」

自分で言っていて、オレのような男、という定冠詞を着けた否定が、オレの頭の中を占拠した。問いかけた本人が、すぐさまそれを戯れ言として吐き捨ててしまった。

「それはない」

即答だった。オレの口から、笑いが漏れるほど、あっけない返答だった。

「将来はどうかわからないけど、今はないです」

やはりオレは、失敗した。一瞬でも、彼女の奇跡に期待したオレは、やはり不毛な行為に取り憑かれているに違いない。

あああっ、と彼女は途端に慌てたように声を上げた。

「大丈夫です、っていうか、何がっていうか、あの」

慌てたまま、彼女は手を湯面のスレスレでバタバタとさせて、取り繕う何かを探した。

「嫌いな人とこんなコトしないですよ」

きっと彼女の中で、セックスというものがひどく簡単な仕組みで出来ていて、それでいて神聖で、そしてひどく卑猥で、罪にまみれているのだろう。彼女の可能性は、その全てに宿っていてるのだろうが、口にするのは、彼女の幼さが許さないのだろう。

「私は浮気とか、別の人とそういうことが出来る人なのかどうか、試してみたいだけだから」

ここまで来て失敗することもあり得る。彼女は、そうやって取り残されたオレのことを取り繕う術を知っているのだろうか。あるいはそこにわき起こる憐れみのようなものを、想像できるのだろうか。

「オレじゃなかったら、例えば大沼とか?」

アハハ、と彼女は笑う。

「センセイか・・・、上島さんよりあり得ないな」

オレの頭にまた、彼女を組み敷く大沼の姿が浮かんで、それはオレをひどく突き動かした。理由はわからないが、オレは明らかにその光景に嫉妬して、それは反比例のように明日菜ちゃんへの恋慕に繋がった。

その時、オレが感じていた違和感の片鱗がわかったような気がした。オレは今まで、いつも彼女と相対する時には、大沼の影を纏う彼女と接していた気がする。それはきっと大沼のせいでも、彼女のせいでもなく、オレがそのベールを自ら被せて、勝手にレンズを曇らせていただけだった。

いつの間にかその不透明な壁に満足し、何かを諦めていた。

きっとそれは明日菜ちゃんに限らず、この夜に存在する全てに、オレは何かのベールや壁を自ら覆い被せていたに違いない。直接触れることでもたらされる生々しさに、オレは怯えていたのだ。

生々しく匂いを放ち、感触を返す存在は、同じようにオレを裸にしてしまう。

そのことからオレは逃げていたのだ。だから本当は、オレはこんなにまで無防備な彼女を前にして、逃げ続けている。逃げることで、触れないことで満足しようとしている。

何もオレは彼女の中に残せないまま。

そう思った瞬間、全身が彼女への欲望に染まった気がした。衝動、という陳腐な言葉に染まった、生々しい欲望が、オレの中でひときわ大きな声で叫びをあげた。

オレは手を伸ばし、身体を浮かしながら覆い被さるように彼女に近づいた。やや強引に彼女の肩を掴み、自分の方に引き寄せると、一瞬力を抜いて、ほんの僅かな隙をつくって、お互いに冷静な時間を保った。

そして、もう一度精一杯の力加減を加えて彼女を柔らかく抱きしめた。

オレは手は震えていた。そのことを悟られまいとするけれど、上手くはいかない。

見透かしたように彼女はオレの胸におでこを着け、そのまま押しつけるようにして頬を当てた。

オレは彼女の背中に回した手に力を込めて、今度はきつく抱いた。

互いの鼓動と、体温が重なる。オレたちはさざ波の立つ直中に身を置いているはずなのに、隔てるものが一瞬にして消え去った気がした。鼻先に触れる彼女の濡れた髪から、シャンプーの匂いが香っている。

オレは目を閉じた。柔らかな肌の感触なぞりながら手を滑らせて、彼女の髪に触れ、二度、三度と撫でた。

いきなりの行動に、彼女は動揺していたが、ようやく落ち着きを取り戻したのか、身体を重ねるように凭れながらオレの腰に手を回した。背中で手を重ね、ぎゅっとオレに押しつける。オレはより一層力を込めて、彼女の身体をしっかりと受け止めた。

オレはもう、彼女を手放したくはなかった。

陽光を避けたくなる程の朝を迎えるために、めくるめく夜の底で一つになろう。どんなことをしても、そのことだけは成し遂げたいと強く願った。

 

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