ソープランドの雇われ店長になってやっと、一通りの仕事を覚えた頃、日付が替わって店が閉まると、オレは店の女の子の前でピアノを弾くようになった。客の男たちが女の子を待つスペースには、前からインテリアとしてのアップライトピアノがあった。客の相手を全て終えると、それぞれ宛われた部屋を掃除して、帰り支度を始めるのだけど、一度は店長であるオレに顔を見せることになっていて、オレはたまたま、その待合室にいたのだった。

女の子たちに聴かせるつもりではなかったけれど、なんとなくそのピアノがずっと気になっていて、その日初めて蓋を開けてみた。ちゃんと赤い布が敷かれていて、それを取って真ん中の鍵盤を叩くと、多少調子はずれのCの音がした。

椅子はなかったので、その場に立ったまま、オレは久しぶりにピアノを弾いた。考えてみれば、あの日警察に捕まって以来初めての「演奏」だった。

その時思いついたのが、高校の時に披露した「悲しきRADIO」のイントロで、多少スピードアップしたテンポでオレは一気に奏でた。

アレ、店長ってピアノ弾けるんだ、という声にハッとして、オレは苦笑いを返した。声をかけてきた女の子は、入れ替わりの激しい業界の中にあって店に二年ほど在籍していた古株で、他の女の子たちには姉さん、と呼ばれていた。

姉さんはいつも客の男たちが座るビロード地のソファに座って、灰皿を引き寄せながら、他にも何か弾いてよ、と言った。オレは、イヤイヤ、と苦笑いを浮かべたまま蓋を閉じようとしたが、また別の女の子が顔を出し、姉さんが店長ってさ、という話をして、オレは引っ込みが着かなくなった。

それ以来、店が終わると、なんとなく演奏会が始まって、女の子たちはそれを聴きながら酒を飲んだり、雑談したり、小一時間そこに留まるようになった。全員ではないけれど、そうやって留まる女の子はいつもだいたい決まっていた。人間関係を、どこかで線を引いて、プライヴェートは極力交流しないのが常の業界だけど、オレたちはいつしかその時間を、放課後、と呼んで寄り添うようになった。

最初にオレのピアノを聴いたその姉さんと呼ばれた女の子が、暫くして店を移る時に、店長のピアノが聴けなくなるのが寂しいな、とそう言った。オレはたぶん半分はお世辞だろう、と思いながら、悪い気はしなかった。

でも、姉さんは店長がピアノ弾く時って、と続けた。

「本当にピアノ好きなんだな、って見ていて思うんだよね」

好きでしょ?と彼女はオレに尋ねて、オレは、好きだね、と即答した。それはオレにとって当たり前の答えだったはずのなのに、なんの抵抗もなく、その言葉が口を吐いて出たことに、自分で驚いた。

そして初めて、オレの中にある「好き」のシステムを、垣間見た気がしたのだった。ピアノ、音楽、観客、全てのパーツが組み合わさって奏で始める「好き」の空間の、オレは下書きのようなものを自覚したのだった。

無条件で、好き、と口に出来る、そのことが全ての始まりのような気がした。

結局それ以外のことは、無条件で好きとは言えなかった。もちろん、言いたくはあったけれど、自分や現実が許さなかった。気が付けば、オレの中にもそういうボーダーラインがちゃんとできあがっていたのだった。

「ギターを弾かない生活、みたいなものを想像したことがある?」

オレは身体を一度離して、ちゃんと彼女の方を向いてそう尋ねてみた。彼女は相変わらず、背中を向けている。

暫く無言で首を傾げて見せた彼女は、首をクルリとこちらに向けて、小さな声で応えた。

「今かな」

蠱惑的な瞳が、こちらを見ていた。ハッとしたオレは次に、きっと自分はまたしくじったんだ、という思いに囚われ、急に自分でも自覚できるぐらいに、顔が赤くなった。それでもなんとか耐えながら、冷や汗の滴る額を拭った。

「私、人生のボキャブラリーがまだまだ足りないな、って思うんです」

またむこうを向いた彼女は、低く抑えたトーンでそんな風に言った。それが真面目に言っているのか、半分冗談なのか、オレには見当が付かなかった。人生を語るほど、彼女はまったくと言っていいほど生きてはいない。でも、彼女なりに、人生という重みを切実に実感しているのだろうことは、オレ自身の経験から察しは付いた。

「私って、やっぱり限られたサークルの中でしか生きていないんだ、って去年の夏に、いろんな人と音を出すようになってもの凄く考えるようになった。みんな大人で、そりゃジェネレーション・ギャップみたいな所はあるから、ちょっとごめんなさいするような場面もあるけど、それでも、みんなちゃんと活きてきている実感というか、経験というか、太刀打ちできないものをちゃんと持っているって感じた、の」

間延びした「の」の所で、再び彼女はこちらをチラリとだけ見た。黙り込んでいるオレの様子を探るような、そんな仕草だった。そうやって、まるで幼い子が親の存在を確認するような様子で、彼女は時々オレの方を見た。その度に何か言わなくちゃ、とオレは緊張するのだけど、奇妙な違和感がずっと続いていて、すぐには言葉が出ないままだった。

「私の中に、ギターを弾く私は確実に住んでいて、その私が自分でも好きなんだろうけど、時々、それだけ?って思う時がある。例えば、センセイも、いつもギターの話をちゃんとしてくれて、相談に乗ってくれて、センセイはセンセイなんだけど、上島さんたちといると、なんとなく別のキャラクターを宛われているみたいで、それもちゃんとこなしているというか」

そう、そう、と話を中断した明日菜ちゃんはこちらをじっと見た。

「私、初めてセンセイと上島さんたちの関係を知った時に、パシリに使ってる、って思ったけど、そこにはちゃんと愛があるですよね、そういうのってイイなぁ、って思う」

イイなと云われても、とオレは思った。アイツは最初からそういうキャラクターで居続けているだけで、正面切って愛がある、といわれても、つい否定してしまいそうになる。別に嫌ってもないが、好きかどうかといわれれば微妙だ。一応の節度を守っている、程度の関係性を意識しているだけだ。

当たり前だが年下のアイツは、いつまでも後輩で、立場的には明日菜ちゃんと変わらないはずだ。もしかすると、そういう誰かに首根っこを捕まえられて顎で扱われるような部分を、彼女自身が望んでいるのだろうか?そういえば、アイツは再会してから以降も、オレ達に文句を言いながらも、素直に着いてきている。オレはそれをノスタルジーの延長だと思っていたけれど、それとも別の、抗いがたい性みたいなモノを、身につけてしまっているのだろうか?

いいなぁと思う、と彼女はもう一度繰り返して、それからずいぶんとのぼせた長い息を吐いた。そして、えっと何が言いたかったんだったっけ?と呟いた。

「そろそろ出ようか?」

声をかけたが、彼女は振り向いて、時間?と聞いた。貸し切りにしているが、特に時間制限をされているわけではなかった。オレは首を振ると、だったらもう少し、と言いながらも、彼女は湯から身体をもたげて、縁に腰掛けた。

 

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