三十を過ぎた頃、オレには一つの変な癖、みたいなものが備わっているのに気が付いた。ちょうどこちらに帰ってきたばかりの頃で、まったく誰とも連絡を取らず、ひとりぼっちで部屋を借り、会社との往復で毎日が過ぎていっていた。

職場は元居た所の延長だったので、幾人かは顔見知りもいたけれど、寄り合って飲みに行くとかそういうこともあまりなかった。それでも、漠然とした寂しさ、みたいなものは感じていて、たまの休みの時間などを持て余していた。

そんな時に、たまたまあの高校の校舎の屋上で、淫靡なハプニングを繰り広げたあの娘と再会した。彼女は高校時代にはもう既に理系の才を発揮していて、大学も関東の工学部のトップクラスに進学したと聞いた。その後も一流企業の研究室に落ち着き、そこで知り合った二歳年上の男と結婚していた。

再会したのは彼女が結婚して一年ほど経った頃で、ちょうど法事か何かで単身、帰省していたのだった。オレが住んでいたマンションは当時藤塚の辺りにあって、栗林の辺りをブラブラしていたら、本当の偶然に、ずいぶんと清楚にまとまった格好した彼女に逢った。

一目見て、彼女とわかった。

ずいぶん大人びていたが、ふっくらとした頬の辺りの面影は充分に残っていた。ただ、オレが知っている彼女はいつも髪を肩の辺りまで垂らしていたのだが、その時は項が見えるぐらいには短くなっていた。さすがに高校生のまま、とはお世辞にも言えないけれど、滑らかな肌の感じやつぶらな瞳で物憂げな眼差しを向ける仕草は、オレの中の記憶そのままだった。

高校以来、オレたちはまったく会うこともなかったのに、お互いに顔を合わせて、あら、という言葉にならない驚きの後で、なんとなく全てが通じ合ってしまったような奇妙な感覚に囚われた。昨日まで一緒にいたかのような、ブランクが一瞬で吹き飛んだような感触。

改めて今という時間を確認するように、久しぶり、と問われたので、気まずさにオレは頭だけを下げて、やっとなんとか一人?と尋ねると、彼女は笑顔を称えたまま頷いた。どこかで落ち着いて話でもしよう、とオレは周囲のファミレスを指さしたが、これからちょっと、栗林公園を見たいと思ってて、という彼女の言葉にオレは従った。

由緒ある庭園の、香川でも数少ない観光地なのだけれど、オレにはそういうモノを愛でる習慣がないせいもあって、とりあえず誂えられた小道を並んで歩きながら、彼女の言葉にひたすら集中していた。

そこで、高校以降の成り行きを聞いたんだけれど、彼女が、去年やっと結婚したのよ、とこともなげに言ったことに、オレはひどく動揺したのに気が付いた。

だからといって、彼女が何か特別なことをしているとも思えなかった。藤木ももう結婚してずいぶん経っていたし、仕事場の同期で結婚していないのはオレぐらいだった。もうそんな年齢になっているのに、敢えて気付かないフリをしていたのはオレの方だった。

それに、彼女とは初めての体験を済ませた後は、なんだか気まずくなって付き合うこともなく、疎遠になっていた。経験、という事実を刻んだだけで、それを恋愛にすら結びつける才能もなかったのだった。そして、すぐに映画館でオレを叱った彼女とつきあい始めて、顔も合わすこともなくなった。

だから、彼女がどういう人生を生きてきたにしろ、オレには関係のないはずだった。オレの方から、関係を絶ったようなものなのだから。

なのに、オレは一瞬胸が締め付けられ、それから暫く、騒ぐ動悸に汗を掻き続けた。その一方で、彼女はひどく落ち着いていて、あなた、結局学校来なくなったと思ったら辞めちゃってたわね、と他人事のような、そんな物言いをして笑っていた。

彼女とは庭園を出て、じゃあまた、と言って別れたのだけど、オレは暫く、ずっとそのことを反芻し続けていた。そしてふと、オレは自分の性質に気が付いたのだった。

それは、一度寝た女に情が移る、という事実だった。

そういえば、という感じでそのことを裏付けるような出来事は、いくらでも思い出された。付き合った女だけではなく、なんとなくその場限りで肌を合わせたような人にすら、オレはちょっと引きずるような感触を後生大事に抱えていたことも何度もあった。金で割り切ったような、そういう間柄にでも、時にはそういう感情が表れたりした。

きっと、セックスをすると、男でも女でも自分の中にある淫蕩な部分を受け入れるのだと、昔誰かが言っていた。その淫蕩な部分こそ、その人のプリミティブな感情を内包していて、いわば、淫蕩さがオレには、執着となって現れているのかもしれない、とそんな気がするのだ。

自覚したからといって、何が変わるわけでもないけれど、ただ、意識し始めると、今のようにハードルが幾つもあるような場面では、萎縮してしまうのだ。淫蕩さを前面に出せる年齢でもなくなると、情けない執着だけが残って、どうしようもない自分が現れてしまうのだ。

執着が叶えば、それはそれで何か意味のあることなのかもしれないが、だいたいに於いて、執着はネガティブな結果しか導かない、とオレは思っている。

今、オレたちが目指しているライブだって、最初オレはノリで盛り上がってはいたが、それがノスタルジーにまみれてしまうことに、どこか抵抗を感じていた。過去は過去として、現在の原因ではあるけれど、今はまた新たな未来への布石、という意識の中で、過去を懐かしむことに拘泥するのは、どうにも馴染めないものを感じていたのだった。

だから、それが明日菜ちゃんの卒業ライブ、といういわば、現役の衣を纏うことで、ノスタルジーを払拭するという、半ば詐欺のような構図を思いついたのだ。そして、やはり、藤木が未だに、曲を作り続け、ギターを途切れることなく弾き続けていることが、詐欺を詐欺然と見せないことに一役買っていた。

そしてそれは、オレが中途半端に音楽に寄り添っている執着とはまったく違う色彩を放っていた。その眩しさがやはり、オレを萎縮させ、そしてアイツを尊敬せずにはいられないのだ。そういうヤツがいるだけで、オレは自分がまだ、完全にはくたびれてはいけない、と思えてしまう。

オレは一度、酔った勢いでそのことをハッキリとヤツに告げたことを思い出した。

「藤木が言っていたんだけど」

と、背中越しに明日菜ちゃんにオレは切り出した。体重をかけている背中は、健やかにやわらかい感触をオレに伝えてくる。肌と肌が吸い付くような、独特の感触だった。

「オレが、お前は音楽を続けててスゴイな、って云ったことがあって、そしたらアイツ、音楽は続けるものじゃないぜ、って云ったんだ。もの凄く真面目な顔をして、続けるものじゃないから、辞めるものでもない、ってね」

藤木は酒に弱いが、オレと一緒なら多少は飲む。その時も、酔って顔を真っ赤にしているのだけど、目だけは酷く冷静で真っ直ぐオレを見つめていて、そして真剣だった。

「身体に染みついていて、息をしているみたいなもの、意識をしなくても、オレは音楽を聴き、音楽を演奏し、音楽を作る、だってさ」

オレ自身も酔っていて、その日のことは断片的なのに、そのセリフだけはいつまでも覚えていた。それが、オレが罪を犯す前だったのか、後だったのかすらも思い出せないのに、藤木の言葉はずっと、胸に刻まれていた。

「それって」

頭の向こうから、彼女の声がした。むこうを向いているせいか、声が遠くに聞こえ、しかも露天風呂の石造りの壁に反射して、軽いリバーブが掛かっていた。

「ギター無しでも、音楽は続く、って感じなのかな?」

え?とオレは聞き返し、後ろを振り向いた。明日菜ちゃんは背中をオレに預けたまま、雪の落ちてくる先を見上げていた。彼女の耳の裏が目の前で、火照った体温がオレの鼻先をくすぐった。彼女見上げられて、心なしか雪はおとなしくなっていた。

「聴いているだけでも音楽やっている気になるというか、忘れてないんだぜ、みたいなのは、ちょっとどうなのかな?」

なるほど、と思う。確かに、彼女が音楽に寄り添った時間と、オレたちとでは雲泥の差がある。結局の所、藤木はどうか知らないが、オレなんかは時々、音楽を忘れる。現実に飲まれる時もあるし、自分で追いやる時もある。

そして結局、還っていく。

気が付けばオレはキーボードの前に座って、鍵盤に触れている。音が出れば、いつの間にか続きのメロディーを奏でている。そうやって、いろんな理由をつけて音楽から遠ざかりかけて、まったく根拠もなく音楽に還っていく瞬間を、何度となく経験している。

それはネガティブな執着という響きを、唯一拭い去れる経験だった。

 

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