「いつもこんな風に女の子の前では無口?彼女とか、文句言ったりしない?」

肩が軽くなったので、オレはようやく顔を向けると、彼女はもう少しだけ足を湯の方に浸して、その反動で上半身を起こしていた。にじり寄るようにオレに近づいてきて、うっすらとした笑顔のままそう言った。無口、なんて女の子にいわれたのは、初めてだった。

「彼女がいたら明日菜ちゃんを誘ったりしないよ」

オレがそう応えると、彼女は不思議そうに目を丸くした。ふと、彼女が思い描いていたオレの立ち位置を想像して、ダブル不倫のような泥沼ドラマが思い浮かんだ。

そうなんだ、というように、頷きながら何かを納得したような表情の彼女は、気を取り直して言葉を続けた。

「だけど、これまでにずっと彼女がいなかったワケじゃないでしょ?」

まあね、と言ってから、今日は特別、と言いたかったけれど、オレは飲み込んだ。というより、そこから先を彼女が許さなかった。

「トモも、あんまり喋らない方なんだけど、でもそれって私といる時だけかな、とかちょっと思ってて、友たち同士なら、けっこう賑やかにやっているのを見る時もあるし、ああ私の方が喋り過ぎとか、なんか存在がうるさいのかな、とか」

そんなこと無いと思うよ、といいながら、存在がうるさい、という表現は、どこか当たっているような気がする。ただ賑やかなのは派手さが彼女に備わっているのではなく、もっと純粋に輝きを放っているから、というのが正解だろう。

少なくともオレには彼女が眩しく見える。

もっとも、トモという明日菜ちゃんの彼氏が、オレと同じように感じているかどうかはわからない。同世代には同世代の、時代の空気を共有しているからこそのシンパシーというような物もあるはずだし、それは生まれが何年か違うだけで、まったく見当がつかないようなこともある。

ただ、彼女が彼氏を引っ張って、あちこち連れ回すような場面は、容易に想像できるから、きっと彼女の不安は、そう間違ったモノでもないのだろう。

「明日菜ちゃんが可愛すぎて、気後れしているんだよ」

とオレが言うと、パッと何かが弾けたような笑い声を、彼女は発てた。イヤだぁ、とそんなふうにオレの肩をパタパタと叩く。オセジーといいながら、濡れた肌に手の平が当たるピタピタとした音がやけに響いた。

「お世辞、お世辞」

とオレが言いながら、また湯の中に滑り込むと、ああっ、と何か不満げな声を彼女は上げた。

冗談だよ、といいながらオレは、クルリと身を翻して、湯の中に立った。明日菜ちゃんの方を向くと、今度はオレ自身が無防備に自分を彼女にさらけ出しているのに気がついたが、隠すのもなんだか変に思えてそのままにした。

なのに今度は、彼女の方が頬をほんのり染めて、視線を避けた。さっきとは立場が逆転したような構図だけれど、きっと今の今まで、彼女の行動はまったく、なんの意識もない無防備さだったのだろう。

オレは彼女に手を伸ばした。

立場が入れ替わったことが、不思議とオレを落ち着かせて、いつもの多少身軽なオレを取り戻した。そう、いつもは、オレは普通よりはいくらか、気軽に女の子と接することができる人間だったのだ。オレは改めて自分に言い聞かせるように、そのことを思い出した。

変わったな、とオレがソープランドの雇われマネージャーになって一年ぐらいして、藤木が言ったことがある。女の子に気を使うようになった、と言うのだ。昔はもっと、平気で女の子に触ったり、多少はひどいことも言って、逆にそれが気を惹かせるきっかけにもなったりしていたのにな、としみじみと感心したように、アイツは言ったのだった。

まぁ、お前らしくないけど、悪いことじゃないと思うよ、と付け加えたが、そう言われて、思い当たる節があって、そしてそれ以降、オレはどこかで意識するようになってしまった。一回りも違う店の女の子たちとは元から、いちいちおっかなびっくりで接していたけれど、それに恵子のことが重なって、オレはずいぶんと、女の子を苦手に思うようになっていた。きっとそのことを、藤木は気付いたに違いない。

だから、本当に久しぶりに、無理のない行動、みたいなものを取り戻したことに、多少興奮していた。

しかし、彼女はその手を取らなかった。急に恥ずかしそうな顔をして俯いた途端に、挙動がぎごちなくなって、やがてオレに背中を向けて湯の中に肩まで浸かってしまった。取り戻したかつての自分なら、その背中を抱いたりするのかな、と思いながら、妙にオレは余裕を見せて、その背中に背中を乗せて、同じように湯船の中に肩を沈ませた。

二人の体重が拮抗して、互いに押し合うようにして、そのまま湯の中に沈んでいく。

暫くすると、背中越しにクスクスという声が聞こえた。項の後ろに、優しく彼女の髪が触れる。

「私もそのまま帰ってこなかったら、関東の人になっちゃうのかな」

彼女は思いだしたように、そう言った。

「メンドイ、とかは言わなくなるだろうね」

オレが言葉を返すと、アハハ、アハハ、と何度も笑った。ガイニ、とか、シヨルとかも言わなくなるね、と続ける度に、彼女は笑い続けて、オッキョイとかチンマイとかも、と思いつく限りの讃岐弁を並べた。

「でも、本当に、下心だけで関東の大学、って決めて、ギターを弾くことしか考えてなくて、それ以外は本当になんにも考えてないから、今になってちょっと不安になってきちゃった」

急に沈んだトーンで彼女はそう告白した。下心というのは、ギターだけで食べていけるような、そういう夢を彼女なりに表現したモノだ。東京は夢を叶える所、ということを信じていて、ただ、それが実現するかどうかはまったくわからなくて、自分の行動の真ん中に据えられないでいる自分の身の置き場を、下心という形で抱えて、彼女は未来の選択をしたのだった。

藤木と一緒にいる時、大沼からそういう進路を決めたと聞いて、オレは頼もしく思ったが、藤木は変に現実的なことを言った。

「厳しい世界だから、他人を蹴落とすぐらいの強い信念みたいなものを持たないと、簡単にはいかないぜ」

そう彼女に言ってやれ、と藤木は言ったが、それを大沼が伝えたかどうかはわからない。現実にその世界で渡っている藤木を見ているオレたちは、その重みを充分に感じていたけれど、明日菜ちゃんの心許ない心情の方がずっと、オレたちには身近だった。誰もが一度は感じる夢を未だ抱えているだけで、オレも大沼も、きっと彼女を眩しく感じているはずだ。

厳しいことを言いながらも、藤木はちゃんと、向こうの事務所の連絡先を明日菜ちゃんに伝え、時々は相談にも乗っているらしい。大沼のことをセンセイと呼び続けてはいるが、今はずっと、ギターのことを一緒になって考えているのは藤木だった。

おそらく、その藤木の言葉の幾つかが、彼女を不安にもさせているのだろう。

「どうにでもなるものじゃないの?」

とオレは無責任なことを言った。それ以外に答えを用意できないのもあった。

ただ、初めて、彼女がずっとこのままこっちには帰ってこない世界、というものを想像した。三月を過ぎると、もう彼女に逢うことも出来なくなり、それがずっと続く。たまに逢うことがあるかもしれないが、一年とか二年とか、長いブランクが空くことだろう。気軽に呼び出して、食事をして、なんて夢の話だ。

彼女の夢が、オレに新たな切なさを強いる。

と、そんなことを想像した時に、オレの胸の裡が針を刺されたように、一瞬、だが鋭く、痛んだ。思いがけない反応に、自分自身でも驚いた。オレに未だ、そんな感情を湧き起こす回路が残っていたなんて、驚きだった。

そして、自分のことを棚に上げて、と思わずにはおられなかった。

 

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