大学を無事卒業した頃、時代はバブルの末期だったけれど、今では想像も出来ないほど、学生には幸福な時代だった。空前の売り手市場で、頼むから我が社に入ってくれ、と向こうから頭を下げてくるような時代だった。

藤木は学生時代から、楽器メーカー主催のインストラクターの資格を取っていて、それを押さえに単身東京に出て、スタジオミュージシャンの仕事を始めた。オレはそこまでは考えずに、ゼミの先輩に引っ張られて、大阪に本社のある工作機械の営業の職に就いた。一年ほど本社勤務で、営業の実務から、工作機械のノウハウ、製図からNCのプログラミングまで、みっちり研修を受け、そのまましばらく関西に居着いてしまった。

香川にもそのメーカーの支店はあったのだけど、オレは敢えて希望を出さなかった。結局、バブルが弾けて、四国のあちこちに散らばっていた支店をまとめて四国支社となった時に、オレはそちらに回されて帰ってくることになっただけだった。

帰りたくなかったワケではなかったけれど、帰るつもりもなかった。オレはそれほど地元に愛着を持てなかった、というのがその理由だろう。飛び出した実家の存在が、ねじ曲がって故郷の色をくすませてしまったような所があった。新しい土地に赴けば、いつかはそこがホームグラウンドになるだろう、と漠然と考えていて、旅立った場所を振り返ることに価値を見いだせなかったのだ。

勘当されたはずの家から、兄貴の嫁さんを通じて大学の四年間、生活費やら学費やらの世話になっていた後ろめたさもあった。搾り取ってやる、と口では悪態をついてはいたが、結局すねをかじっていたことには代わりなく、窓口の兄嫁を邪険に扱うことで感情を隠していた所もあった。

そこから初めて、後ろめたさのない生活を手に入れたのだ。もうあのもどかしさの残る場所に帰ろうとは、思わなかった。

結局、意に添わぬ形で故郷に戻ることになったのだが、元の生活や人間関係を戻そうという気は起こらず、あくまでも、また新しい場所にやってきた、という気分になっていた。その時で既に十年は香川を離れていて、いつの間にか高速道路は出来ているし、瀬戸大橋は出来ているし、坂出の塩田は再開発されているしで、かつての面影は上手い具合に新しい波に押し流されて消えてしまっていた。

偶然、路上で唄っている大沼を見た時に、すぐにアイツだとは気がついたけれど、再会の手を差し伸べるのには相当な躊躇があった。一つは、その時既にオレには前科が着いていたというのがあるが、それ以前に、一度縁を切るような所まで疎遠になった間柄を、快く思わない心配があったからだ。逆の立場なら、オレの方に再会に躊躇はないが、大沼がその後どういう思いを抱いてこのブランクを過ごしてきたのか、オレには見当もつかなかったのだ。そういうところに立ち入るのを、オレはなぜか躊躇してしまうのだ。

「オレはずっとこっちを離れていたからなぁ。そのせいだよ、たぶん」

そう明日菜ちゃんには濁したが、本当のところは、半ば意図して関係を絶ったのだった。もっと上手いやり方はあっただろうが、オレはこの土地そのものを失うことで産まれる、新たな関係性に、希望を託していたのは事実だった。その為に旧弊を断ち切る、それぐらいの覚悟が必要だった。

ふーん、とわかったのかわからないのか、曖昧な返事を返しただけだったが、彼女はそのまま視線をそらせて、考え込んでしまった。肩に掛かる重みだけが、彼女の存在を誇示している。

ふと、高校生の頃に、女の子と映画を見に行った日のことを思い出した。

ビートルズの映画をリバイバル上映するのをソレイユの二階まで見に行ったのだったけれど、一緒に行ったのがちょっとアンニュイな感じのする、小柄な女の子だった。当時流行りのトンガリ少女のハシリで、髪は短く、学生服がまだ長さを競っている頃に、いち早くミニスカートにして人目を惹いていた。眼鏡がよく似合っていたのだけど、外すとほとんど見えなくなるので目つきが悪いと言われる、とひどく気にしていた。

その彼女は映画の最中、オレの肩に頭をもたせかけてそのまま寝始めたのだった。オレは、まだ映画に夢中だったけれど、さすがにずっと同じ姿勢でいられなかったので、一応気にして身をよじろうとすると、彼女は目を覚まして、

「バカ、動くな」

そう小さな声でオレを叱りつけると、また寝てしまった。オレはそれきり、身動きできずに、残りの映画をじっと見続けたのだった。まだ短めの映画が並んでいて良かったけれど、その後でひどく身体が痛かった。

その記憶は、今になっても、やはりオレの動きを封じてしまった。せっかく温もった身体が、徐々に冷えてくるのがわかるけれど、明日菜ちゃんが動かない限り、オレも動けない。そんな強迫観念に駆られて、オレはじっとしていた。

オレは一度つきあい始めると長い。

映画館でオレを叱ったその彼女とも一年以上は付き合っていて、そのトンガリ少女に変身していく様を、オレはつぶさに観察できたのだった。初体験を、あの屋上をきっかけに済ませた後だったので、なぜかひどくプラトニックでいられて、もしかすると、何かそれが彼女のシグナルだったのかもしれないと今になって思う。結局、オレはまだまだその彼女になんの不満もなかったはずなのに、心変わりは彼女の方に訪れてあっさりと終わった。

大学の四年間でも付き合ったのは一人だけだったし、関西では出先の経理の子とつきあい始めて、長く一緒に住んでいた。結婚を口にし始めた途端に、彼女は実家に帰ってさっさと見合いをして収まる所に収まった。香川に帰ってくる直前で、それが二度と帰る気のなかった故郷に帰る決意に関係ないとは言えなかった。

その執着心の強さへの反発が、過去を捨て去ることを強いて、新しい場所でまったく新しい希望を見いだすような、そんな癖が身に付いたのかもしれないと思う。でも、そうやって習慣を変えても、染みついた性質までは簡単には変わらない。ちぐはぐさはそのまま、どうしても上手く転ばない人生の流れのような物に還元してしまっている。

あげくが、犯罪者のレッテルだ。

思い返せば、オレの本当の動機はそこにあったんだろうと思う。然るべき所に閉じこめられて、オレは初めてそのことに気がついた。

道を正すために、ちょっと仏教の本などを読んでみたりもしたが、結局自分の執着の強さに呆れるばかりで、上手くはいかなかった。オレにはそれを断ち切る厳しい修行など無理だった。

だからといって受け入れるには、オレは自分の人生とそのまま行く末に、正直な所絶望していた。目先の幸福だけを漁って綱渡りするのも、なんとなく疲れてしまっていた。

それでもやっぱりこうして、オレに笑顔を向けてくれる人の手を引いて、昔みたいに悪あがきをする。結末は半ば、わかっているはずなのに。

 

前へ

次へ