会話が途切れると、沈黙がオレと明日菜ちゃんの間に降りてくる。だけど、それにもどかしさを感じても、そうひどく不快さも感じない。この曖昧さも、欲望を一層ドライブさせるとか、何かを諦めるとかいう強い衝動のようなモノを灰色に沈めてしまう気がする。立ち上る湯気と、降り続く雪と、かけ流しの湯流の音と、きっと何処からか集まってくる生活音のクラウドノイズ。それらが沈黙を上手い具合に中和してしまうのだ。

唯一変化があるとすれば、肌が感じ取る熱い湯が、次第に血流を豊かにし、鼓動を早めて、やがてのぼせ上がる。そのなだらかな体温の上昇だけが、もっともフィジカルな衝動をもたらしている。オレはまだ、のぼせ上がるほどヒートアップはしてはおらず、ちょうど心地よいほどに暖まったところだった。

でも、きっと彼女は、と思いかけたところで、案の定、盛大な音を発てて明日菜ちゃんが立ち上がった。ざぶんという音と共に飛沫が跳ねて、オレの頬を濡らす。

やっぱりダメ、とか何とか言いながら彼女は立ち上がると、クルリと後ろを向いて、そのまま浴槽の縁に横たわるように、倒れ込んだ。大丈夫、と声をかけると、とろんとしたような視線をオレに向けて、大丈夫、と力無く言った。

始終流れる湯に触れていても、外気は冷たく、周囲を取り囲んでいる縁石は程良くのぼせ上がった体温を吸収してくれる。明日菜ちゃんは、そこに頬を当てながら、縁石を抱くように身体を伸ばした。そして、片手と片足の先だけを湯に浸けて、チャプチャプと掻き回した。

もう上がろうか?と声をかけると、彼女は首だけ振った。

こういうのも気持ちいい、と寝ぼけたような、どこか甘えたような口調で言う。これでも、と言いかけて、彼女はまた寝返りを打つ。仰向けになると、一層無防備に、身体のラインをさらけ出す。肉感的な豊かな曲線は、さっきまでの曖昧さをもう少しで逸脱させようとするけれど、踏みとどまるまでにオレはもう見慣れてしまっていた。

これでも、こういう温泉なんて初めてだから、堪能したくてたまらないんだ、と彼女は言った。

いつもギターを抱えて利発な音を出す彼女からは、想像も出来なかった依存に満ちた声は充分にオレを戸惑わせた。ふくらんだ胸は何処までも白く、そしてうっすらと血管を浮かせている。オレの目には、そのきめ細やかな肌の様子は、まるで男を知らないかのように見えた。

触れればきっと、柔らかい弾力を指の腹に押し返してくるのだろうけれど、白さに惑わされてそれは彫像のように硬く、冷たく、そして眩しいほどに輝いていた。あの乳房に触れ、先端を唇で甘噛みして吸いたてた男は、いったい何人居るのだろう?オレはそんなことを考えて、ほんの僅か、欲情した。やっと、彼女を凌辱する想像を、ちゃんと出来るようになっていた。

近寄りがたい輝きを頂いたその肌に、牡丹雪が落ちてくる。

いつの間にか、先程の雪がすっかり倍ほどの大きさになっている。見ていると、裸でひどく寒そうだけれど、彼女は心地よさそうな表情を浮かべ、やがてそれが笑顔になる。目を閉じると、そのまま寝てしまいそうだ。

ねぇ、と問いかける声に、絡みつくような明らかな甘えの響きが滲んでいた。上島さん、と抑えたトーンで名前を呼ばれると、一層オレはくすぐったくなる。そういうトーンを意図的に駆使できるようになると、きっと男を夢中にさせることに快感を覚えるようになるんだろうな、とオレは思った。

「バンドは今でも楽しい?」

不思議な問いだった。なんだかそう質問するのは、オレの方の役目のような気が漠然としていて、そんなことを尋ねられるとは、予想もしなかった。

「楽しいよ。夢中、ってわけじゃないけどね」

「あのね、私、高校に入ったばかりの頃、いきなりみんなの前でギターを弾かされたことがあって、その時に友たちの一人に、それだけ弾ければギター弾いてて楽しくて堪らないだろう?って云われたとこがあったのね」

彼女は再び俯せになり、顔を上げて、その顎を手で支えた。今度はゆったりと盛り上がるお尻の肉が、絶妙の稜線を描いて長い足と連なっているのが見えた。決してスリムな足とは言えないけれど、彼女の立ち姿は、何処にも無理がなく背筋が伸びていて、それだけで美しい。そのラインは、横たわっていても片鱗はちゃんと残っていた。この世界には、理想的な曲線がある、と誰かが言っていた気がするけれど、それがもし本当なら、それは女性の肌の上にしか存在しないのだろうと思う。

「その時初めて、ギターを弾いて楽しい、って意識したの。ギターは弾くのが当たり前、っていうか、練習した分いろんなことが出来る、みたいな感覚を、自分が感じていたことに初めて気がついて、だったらそれは楽しいと同義なのかな、とか考えちゃって、でも、未だに一人では楽しさがあんまりわからない気がする」

「それは、みんなとやるバンドなら、楽しいけど、って意味?」

彼女は素直に頷いた。

「上島さんたちとスタジオに入ってからかな、ああこれが楽しい、ってことなのかな、ってわかったのは」

嬉しそうに彼女は笑う。その笑顔に、なんの魂胆もケレンもなかった。

オレは、ようやく自分の中の許容範囲を超える手前まできた体温の上昇に弾かれて、半分だけ湯船から体を起こした。浮力に任せて足をついて、背中を縁取りの岩に押しつける恰好で自分の身体を支える。ちょうどオレの脇のすぐ先に、明日菜ちゃんの顔があった。

「だからすごく、楽しみなんだよ」

ライブが、と付け加えながら彼女の笑顔は上目遣いでオレに届けられた。オレと彼女の間の最大の共通点は、バンドであって、今度の卒業ライブであって、それからなんとか押し広げて音楽の話題だった。

その向こうには、何もまだ存在しない。

でもそれが、お互いに楽しいモノ、という芯の部分で共感しあっていて、極論すれば、それ以外いらない、かもしれないところも同じだった。おそらく、それ以外にはあまり意味を見いだせないというより、少なくとも明日菜ちゃんは知らないのだろう。

オレは幾つか知っているけれど、それも幾つかぐらいで、きっと同じ年格好の普通の人たちに較べてずっと少ないのだろうな、と思う。オレも彼女も、本当のところ、音楽しか知らない貧相な人間なのだ。

オレがこうして彼女の特別な姿を目の当たりに出来る幸福は、その少ない「それ以外」の内の一つに数えられるのだろうか?それともやはり、これも楽しい者という響きをえた、音楽の延長なのだろうか?

 

前へ

次へ