何がイヤで、何か目的があって、という偉そうなモノではなく、ただ、もうそれ以上学校という枠の中でやれること、自分の居場所はもう見いだせなかった、ただそれだけだった。それはオレのどうしようもない性格に違いないが、始まりがあれば終わりがある達観の中で、何か許された自由があるとすれば、きっと何かを自分の手で終わらせることなんじゃないかと、もうその頃には思っていた。

退学届けはその自由を、自分で行使した最初だったかもしれない。

最後は親と先生に手続き的なことを丸投げした後、オレの退学は完了した。それからすぐ、あまり話したことはなかったけれど地元では有名な画家先生の娘、という子がオレの前に現れた。確か、一年の時に同じクラスにいたな、というのは覚えていたけれど、あまり目立たない子だった。その時初めて、じっくりとその表情を見たけれど、短い髪がその時流行のトンガリ系だったけれど、けっこう目を惹かれる顔立ちだったのに少し驚いた。

見た目の派手さとは裏腹にその子は、俯いていても、頬から耳にかけて恥ずかしさに真っ赤に染めているのがわかるほど緊張していて、途切れ途切れに絞り出すように、ほとんど泣き出すような声で、なんで学校辞めたの?と訊いてきた。

「もう高校生活はお腹いっぱい」

オレはそう応えた。自分で言って、ああそうだな、と納得した。

きっと卒業した方が満腹感は正常なのだろうけれど、オレにはその時、卒業ということになんの価値も見いだせなかった。それはいわばパセリみたいなモノで、残して当然、という感覚しかなかったのだ。

メインディッシュは完全に消化した気になっていたのは本当で、ではそのメニューは、というと結局バンドしかやってた想い出しかなかったな、と気がついて自分で苦笑した。

その女の子が訊きたかったのはそれだけではなかったはずで、しかも、オレの発した答えにも納得はいかなかっただろう。でも、オレはそれだけ言い終えると、また逢えるといいね、といい加減なことをいって、その場を去っていったんだった。

それから後も暫く、例の女の子の部屋でゴロゴロしていて、夕方からバイトに出かけて、やはり朝方まで働いていた。

その部屋には一切、オレの家の誰も姿を現さなかったが、それは、自主退学、の時点で父から勘当されたからだ。二度と敷居を跨ぐな、とありきたりなことを言われて、それだけでは憤りが収まらなかったみたいで、オレは頬に拳をお見舞いされた。オレを散々邪険に扱っていたくせに、とオレは思ったけれど、考えてみれば、手を出されたのは初めてだと気がついた。

でも、家から縁を切るのは、半ばこちらの望むところでもあったので、踏ん切りがついたようで気が楽になった。

ただ、唯一、それ以降もオレにつきまとう家族が居た。それが、兄貴の嫁さんだった。

父が経営する病院の理事の一人で、市議だったか県議だったかをやっているオヤジが居て、その娘が看護婦の資格を取ったので、病院に勤めだしたのだけど、それがどういうワケか、兄貴の許嫁、ということにいつの間にかなっていた。おそらく、父の上昇気質が向かう先に、その許嫁周辺に群がる人たちが必要で、いわば政略結婚みたいなものだろう、とオレは勝手に考えていた。

彼女は結婚が決まってからは、家に入って家政婦のようなことをやっていた。うちは父だけでなく、母も産科医だったので、ずっと家政婦さんが家を切り盛りしていた。その代わりを、完全な主婦になった彼女が担っていたのだけど、ちょうどオレが中学から高校に上がる頃で、なんとなく、初めて身内の作ったご飯、みたいなものを食べさせて貰った思い出が強く残っていた。

オレはどうも、母親の記憶も曖昧なのだが、何処かで母親の記憶と彼女の世話がすり替わっている事に気付いて、時々慌てることがある。元々オレの家庭に、いわゆる普通の家庭は存在していなくて、いわば家庭と称するシステムだけが残骸として残っていたのだと思う。そんな中で、彼女は唯一血を通わせたのかもしれない。世話好きで、おせっかいで、時々叱られるようなドジをやって、と、ありきたりだが、そのありふれた感覚が、オレには新鮮だった。

何処でどう調べたのか、女子大生の部屋を訪れた彼女は、小さなちゃぶ台の前にオレを正座させると、オレに銀行の通帳を手渡しながら、これはお母さんから頼まれたことなのよ、とそんな話を始めた。

その通帳には、そこそこまとまった金額が刻まれていて、彼女は、それで大学へ行きなさい、と言った。高校を辞めたのはもう仕方がないけれど、浪人したと思って、当時は大検と呼ばれていた認定試験を受けて、何処でもいいから大学だけは卒業して於いて欲しい、ということだった。

オレはその場では、頑なに拒否した。もう半分以上社会に出ている気がしていて、それが自由だと確信していた。今思えば、結局誰かに依存している部分が大半を占めていて、自立というのにはほど遠いはずなのに、口だけは達者だった。ただ、それは誠意という形の熱心さには、脆いモノだとは知らなかった。

最後まで引っかかったのは、やはり彼女がもう、上島の遺伝子を受け継ぐ人間だ、という事実だった。兄貴との間に子を宿しても暫く、彼女はオレに会いに来た。貴方の甥っ子か姪っ子が産まれるのよ、とそういう世間話をしに来ていたような素振りで、オレが生きていることを、確認しに来ていたのだろう。それが誰の思惑かはわからないが、その半分以上が、彼女自身だろう事は、なんとなく感じられた。さっぱりと切り捨てられることを、どうしても許せない弱さを、ちゃんと受け入れることの出来る、そんな女性だった。

ずいぶんとお腹が目立っても、彼女は家を訪問し続けて、オレは根負けした。

ちょうど、一緒に暮らしていた女子大生との仲もぎくしゃくしてきて、終わりがすぐそこまで見えていた。オレは、あっけなく方針を変えて、その場をしのぐ方法を考えた。

どうせなら、あの家から搾り取るだけ搾り取って、という風に考えを変え、大学に行く一切の金銭的面倒を押しつけて、大学に行くことを承諾したのだった。

まったく詐欺同然だが、それにしても、そんなにまでしてオレを大学に行かせたいのはなぜだろう、とオレはずっと疑問に思っていた。オレはそのことを尋ねたが、彼女はみんな行っているから、としか言わなかった。

そして、オレは大検を受けた。

三年の半ばまで通っていたオレに、必要な単位は残り少なく、適当に勉強した程度で難なく合格はした。そして、大学も、一応近場で入れそうなところを探したけれど、医学部だけはイヤだったので、医学部のある大学の別の学部を受験した。

それが、藤木や恵子と知り合うことになる地元の国立大学の農学部だった。

その頃、これからはバイオテクノロジーが世界を席巻する、未来の成長産業、とか煽てられて、スポットが当てられていた学部だったし、一方で、オレの高校の先輩が何人かそこの学生になっていた。みなバンドをやっていた人ばかりで、農学部の軽音は地元では、そこそこ名の知れたバンドが在籍するサークルとして有名だったのだ。

オレはもうその頃、バンドに意欲を失いかけていたけれど、結局、今までそれ以外に記憶に残るようなことをやってこなかった。だから、オレはもう少し、惰性を延長して、なんとなく一番よく知っているバンドの世界に、逃げ場を求めたのだった。

 

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