遠ざかるものに、理由はそれほど必要ない。

音楽は大学まで、ということを決めていたわけではなかったけれど、なんとなくそういうモノだと思っていた。他に何か夢があったわけではないし、音楽はなによりも楽しかったけれど、夢ばかりを喰って生きていけるほど、この世の中は好都合には仕組まれていないと、漠然と思っていた。

しかもオレは、それ以前に、大学進学すら諦めていたから、いわば四年間、夢を拾ったようなモノだった。

オレの家は古くから医者の家系で、どの辺からそれが始まったのかは知らないけれど、オレの祖父の代ではそこそこ大きな総合病院を経営していた。父がその跡を継ぎ、兄貴が次の院長と決まっていた。

その為に、兄貴は関東の医大に行き、海外留学も経験して、外科医として地元に帰ってきたのが、オレが中学生の頃だった。歳の離れた兄貴はオレが物心着いた頃には家を出ていて、オレにはあまり馴染みがなかったせいで、どちらかというと雲の上の存在だった。

姉さんとは三つ違いで兄貴よりはずっと身近だったけれど、なんというか、父親の性格を正確に遺伝しているというか、とにかくワガママでオレを見下す態度が鼻について、あまりそりが合わなかった。幼い頃はそれでも、姉さん姉さん、と慕っていたけれど、オレが自意識に目覚めた辺りから、その「家」の感覚に違和感を覚えていた。

一言で言えば、尊大、という言葉に尽きてしまうのだけれど、とにかく、父はそこに輪をかけて上昇志向が強くて、それも他人を蹴落として這い上がっていくのが当然と思っているような人だった。他人は蔑むためにあるような、そんなことを本気で信じているのではないか、とすらオレは思っていて、それもあながち間違いではないということを証明するエピソードや発言も、幾つかは周知の事実となっている。

その傲慢な意識は、病院の院長なんていうポストよりももっと収まりのイイ職業があって、その為に市議会議員の選挙に出ることを画策していたのだけど、今になるまで当選したという話を聞いていないのは、きっと人望がないからだろうと、オレは勝手に思っている。

末っ子でそれほど望まれずに生まれたオレは、いつも上の兄姉と較べられ、いわばそのために産まれてきたようなコンプレックスに包まれて育った。オレには何も望んでいないのに、兄貴たちと同じことが出来ないと、すぐに怒られた。出来が悪い、しようがないヤツ、といつもレッテルを貼られていた。

そういう家庭に、オレは長居できるはずもなく、親や兄姉よりも、その家風を醸造したこの家から出ていきたいと、いつも思っていた。自立できる方法をいつも探していたけれど、高校生になるまでオレは結局家という頸木から逃れることは出来なかった。

高校二年の最後になって、どうしても見たいと強く願うライブの情報が舞い込んできた。当時、ライブエイドに始まって、ベネフィット・コンサートが世界的に大流行で、ついに日本でも同じような夜通し行われる野外ライブが真夏の広島で行われることになった。

そのライブには当時頭角を現していたバンドが数多く出演することが決まっていたんだけど、その中でもオレは、エコーズの出演に目を奪われた。同じように、ラフィンノーズも一度生で体験してみたいアーティストで、とにかく、その辺のバンドが一斉に同じステージに出ることになっていた。それ以外にも、不確定ただが出演を予想されるアーティストには、その頃のメインストリームをひた走る者達が噂として上がっていた。

オレはそれを夏の一大イベントに据えて、そのチケット代と旅費を稼ぐために、クラス替えよりも先にバイトを始めた。繁華街の弁当屋だったけれど、そこは深夜営業もやっていて、その分バイト代も割高だった。高校生が深夜勤務、というのは当時でもやばかったはずだったけれど、チケット代を稼ぐ一ヶ月だけ、ということで、オレはそこに潜り込んだのだった。

無事にオレは広島ピースコンサート、と銘打たれたライブのチケットを手に入れることは叶ったのだけど、一ヶ月を過ぎてもオレはそのまま、バイトを続けた。

バイト代はずいぶんと安かったけれど、オレが初めて、ちゃんと自分で働いて手にしたお金だった。自由自立の第一歩、というのもあったけれど、オレにとって魅力的だったのは、その時初めて垣間見た、大人の社会だった。

その弁当屋は、ちょうど街のうるさい場所の真ん中にあって、経営しているのも、その筋と関連がある人だった。当然、そこに集まってくる客も、相手をする従業員も、一癖も二癖もあるような人ばかりだった。

単純なオレでも、それがいわば社会の主流を占めるデフォルトだとは思えなかったけれど、逆に、どんなことをしても世の中を渡ろうとするバイタリティに、魅力を感じて、次第に惹き込まれていったのだった。結局、人の中にあって、人に揉まれて社会は成り立っている。それが閉鎖された学校という社会のすぐそばに存在しているそのことに、オレはやたらと感心したのだった。

深夜勤務は午前三時半に終わる。そこから自転車で家に帰って、こっそり裏口から部屋に入って眠るのだけど、夏休みまでにはもう、朝起きられなくなっていた。当然、父も母も、快く思わずにオレを叱りつけるのだけど、それも面倒になってオレは、バイト先の先輩の部屋を転々として、あまり家に帰らなくなった。

とにかく、朝方家に帰るのに自転車のペダルを漕ぐのがつらくて眠くて、何度かそのまま転げそうになった時もあった。それをいくらか軽減するために原付バイクの免許を取った。そして中古のスクーターを店長に譲って貰って、結局家に帰るのには使わずに、バイト先の先輩の家に向かうことがほとんどだった。

ただ、そのうちの一人は超がつくぐらいの暑がりで、春先の朝方でもその部屋では既に冷房が稼働していた。それ以外は、わりと自由に振る舞うことが出来てオレはそこでしょっちゅう寝泊まりしていたのだけど、どうしても寒いのだけは苦手だった。

もうその頃には学校はあまり行く気がなくて、元々勉強する気もほとんどなかったので、行っても10時過ぎとか、昼からとか、そういうことをしている内に、当然のように学校には行かなくなった。それでも、文化祭のためのバンドは始まっていて、その練習だけはまめに顔を出していた。

夏休みになり、あのライブが終わる頃には、なんとなく文化祭までだな、と漠然と思っていて、もう学校にはそれ以外、なんの魅力も感じなくなっていた。そう思い始めた頃に、ちょうどその弁当屋の昼の時間帯でバイトしている女子大生と知り合って、仲良くなった。

髪が長くて、それがとても綺麗なのが印象的な女の子だった。普段は社交的だけど、時々影が差すことがあって、一人でいる時にはいろんな本を読んでいた。彼女の部屋にも遊びに行って、もう夏の真っ盛りだったけれど、冷房の効いた先輩の部屋よりはずっと、オレはその部屋にいたいと思った。

今考えても、そこの頃は怖いモノなしで、半ば強引に彼女の部屋に転がり込んだ。バイト代はほとんど、彼女の部屋に住まわせて貰う代わりに彼女に渡した。同棲、夫婦気取り、そういうことをしたがる年頃だったのだ。

彼女は満遍なく、マンガも近代文学も海外推理小説も、何でも読む人だったけれど、紡木たくのマンガだけは別格で、ホットロードや、みんなで卒業を唄おう、机をステージに、なんていうマンガの登場人物を、どうしてもオレに当てはめたがった。オレもそれに応えようとして、いわばヒリヒリするような恋愛、というようなものに憧れた。

そして、高校の文化祭は、体育館のステージに立った。演奏が終わって、その翌日、振り替え休校になっていた学校の職員室に行って、オレは退学届けを提出した。もっとも、それから暫く、担任が家に来たり、あの父がオレを怒鳴りつけたりしたけれど、オレはそのほとんどから逃げ回り、半ば済し崩しで退学を押し切ってしまった。

 

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