ねぇ、と明日菜ちゃんの声がする。どこか掠れて聞こえる。さっきのはしゃいでいたトーンとは、どこか緊張というか、翳りのようなモノが混じっている。オレはそういうところを、敏感に感じてしまう。

そういったきり、彼女は目の前の湯をバシャバシャと、手持ちぶさたに叩いたり、掬ったりしてみせた。さっき何の話をしていたっけ?とオレはオレの責任を果たさなければと焦っていた。

「上島さん、昔からピアノ、やっていたんでじょ?」

業を煮やしたように、ひねり出した話題のように聞こえたが、なんとか場が繋がって、オレは正直ホッとした。半分は、情けなさもわき起こってくる。

「物心着いた頃には、ピアノの先生が家に来ていたんだ。オレは三人兄弟の末っ子で、兄貴と姉さんがいるんだけど、兄貴とはずいぶん歳が離れてて、姉さんとは二つ違い。その姉さんがピアノを習いだして、ついでだからって、オレも始めたってワケ」

そうすると、オレはもう三十年も鍵盤に親しんでいることになる。

「そういうのって憧れる」

どういう事?とオレは聞き返す。

「私の小さい頃って、やんちゃだったんです。習い事なんて全然似合わなくて、毎日男の子と喧嘩して、傷だらけで、ママに怒られてばかりだったんです」

「そうは見えないよ」

とオレは言ったが、一度彼女の文化祭の時のビデオを見たら、ボーカルの男を後ろから跳び蹴りしているのを見たことがあったのを思い出した。

「中学に入っても、どうしようもなく粗暴で、何かおとなしくなるいい方法はないか、ってギターを始めたんです。だから最初は、どちらかというと押しつけられた感じで」

そう告白しながら、彼女は湯に濡れた項の後れ毛の束をつまんで、手の平に押しつけたり撫でたりして遊んだ。

「私負けず嫌いだから、弾けないのが悔しくて、そうしているうちにハマっちゃったんだけど。でも、その頃、これほどまでに夢中になるんだったら、なんで子供の頃から、そう、上島さんみたいに、ピアノとかでもいいから、音楽に触れてなかったんだろうか、って」

「それでも、明日菜ちゃんは充分に上手いよ、相当練習して、ここまで来たんだな、って感じがするよ」

まだまだ、と彼女は独り言のように俯いて、波立つ湯面に向けてそう言った。

「やっぱりピアノやっていたから、バンドを始めたんでしょ?」

そうだね、とオレは応えた。

オレがバンドを始めたのは、高校に入ってからで、もうその頃にはピアノを習うのは辞めていて、ちょうど次に何か面白いことはないだろうか、という漠然とした想いだけでふらふらしていた頃だった。

高校に入学して最初のうち、オレは暫くいろんな部活に顔を出していて、ある時、吹奏楽部に入部を果たしていたクラスメートに着いていった。練習のある音楽室にはまだ人はまばらで、そこに居たのは女子数人だけだった。オレは見学、と称して着いていったのだけど、そのクラスメートが打楽器の準備をしている間、なんとなくピアノの前に座って、戯れに音を鳴らしていた。

ちょうどその頃は佐野元春をよく聴いていて、なんとなく聴いているウチに弾けるようになった「悲しきRADIO」のイントロをさらっと流してみたりした。

その時、フルートを抱えた女子二人が、オレの方を向いて、あああの曲、という感じで、ひそひそ話しているのが目に入った。そういうことには、めざといオレだから、幾つか覚え立てのフレーズを立て続けに弾いたのだった。

それがしっかりとその女子の中の一人の記憶に残って、文化祭の前になってバンドをやるのにオレは誘われたのだった。そこから、オレのバンド遍歴は始まったのだった。高校生バンドは文化祭の度に結成して、文化祭が終わると解散した。文化祭と文化祭の間の一年間は、気が向いたら気が向いた連中がスタジオに集まる、といった感じの気楽なものだった。

そんな話をひとしきりし終えると、やっぱり、と明日菜ちゃんは呟いた。音楽ってセンスだと思うけど、やっぱりテクニックが伴わないといけないから、それはやっぱり経験なのよね、と自分に納得させるように言った。

「努力、って一番、私苦手だから」

その言葉は、オレには意外だった。

オレの周囲の者の中で、彼女は一番の努力家で、二番目が大沼で、三番目が藤木だと思っている。オレはなにより、その真摯さを一番尊敬しているのだ。

「練習しないと上手くならないし、練習しても上手く行かないし、そういう繰り返しが努力なんだろうけど、センセイが居ないときっと投げ出してたかな。音楽は楽しいし、ギターは最高に好きだけど、時々、つらくなる時があって、なんで私こんなにギターを弾かなきゃいけないんだろう、って思うことがある」

それ自体、きっと上手くならない理由なんだろうけど、と彼女は付け加えた。

でも、それなら、オレたちはもうずっと音楽の神様から見放されていることになる。確かに、オレは小さい頃から鍵盤を弾いていて、慣れてはいるけれど、センスかあるかどうかは別で、またそのセンスを磨く行程を踏んできたかどうかは、はなはだ疑問だった。

オレたちは楽しいから音楽をやる、ということを、どこかで言い訳にしていて、きっとそこに逃げ込んでいる。音楽が楽しいのは悪いことではないけれど、一方で一番好きなモノを、逃げ場所にしてしまうのは、きっと間違っている。逃げ場所は、一番安全な場所でないといけない。そこを好きかどうかは関係ない。

そういう諦めをオレたちは重ねて歳を取ってきた。藤木だって、そろそろ、自分の音楽よりも、生活を重視し始めているところがあって、音楽がひどく生活の泥臭さにまみれて聴こえる時がある、と愚痴っているのをよく聞く。

年齢から言えば、仕方がないのかもしれないけれど、オレたちはそうではないモノを求めて、やはり音楽に縋っていたんじゃなかったんだろうか?

そう考えると、明日菜ちゃんの不安も、諸刃の剣なのだろうと思う。彼女の逃げ場所は、きっとオレたちよりもずっと眩くキレていて、そしてオレたちが想像する以上に、魅惑的に違いない、とオレは思った。

 

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